第1話 婚約破棄、ただし正式に
燭台の灯が、皇帝の齢と同じ数だけ広間に揺れていた。
六十七。ハインリヒ三世の誕生を祝う夜会は、帝都でも指折りの華やぎに満ちている。磨き上げた床の上を楽の音が滑り、酒杯の縁が金に光り、貴顕たちの衣擦れが絶え間ないさざめきを立てる。アリシア・ピルインは選帝公家の次女として、その渦のほとりに立っていた。
美しい夜だ、と誰もが言うだろう。
けれど彼女は、酒の香りより先に、空気の温度を読んでいた。
人の集まりには、その場を流れる目に見えぬ潮というものがある。今宵、その潮は妙なところで淀んでいた。西の壁際、シュタデーン公の縁につらなる貴族たちが、ひとつの点をかすめては、そっと視線を逸らす。ある結末を先に知っている者たちの、含みのある顔つきだった。
その点の中心に、婚約者がいた。
ロベルト・ケハルディン。ケハルディン侯爵家の嫡男で、半年の後には彼女の夫となるはずの男。だが今宵の彼は、アリシアを一度として正面から見ようとしなかった。視線が触れる寸前で逃げる。その逃げ方に、覚えのある種類の後ろめたさが滲んでいた。
そして、彼のかたわらに一人の令嬢が寄り添っていた。
リリーナ・ワイマー。ワイマー伯家の娘。楚々とした笑みを絶やさぬその横顔が、婚約者のいる男には遠すぎるほど近く、ロベルトの肩へ傾いている。二人のあいだの距離は、どんな言葉よりも雄弁だった。
――ああ。
喉の奥で、小さな理解が形をとる。半年前、この縁談を家の誉れと言祝いでいた男の目から、いつのまにか熱が抜け落ちている。
けれどアリシアは、それを表情に出さなかった。ただ酒杯を持つ指の位置を、ほんのわずか正しただけだった。淡い金の睫毛を伏せ、あどけない少女の顔のまま、彼女は待った。人が潮の変わり目に立つときの、あの息を詰めるような静けさで。
楽の音が変わり目にさしかかったとき、ロベルトが動いた。
彼はリリーナの腰へ手を回し、人目もはばからず抱き寄せると、周囲に届くだけの声量で、まっすぐアリシアへ向き直った。逃げていた視線が、初めて彼女を捉える。そこにあったのは、後ろめたさを開き直りで塗り固めた者の、妙に晴れやかな目だった。
「ピルイン嬢。この場を借りて、はっきりさせておきたい」
周囲のさざめきが、潮の引くように静まった。人垣がそれとなく円を描く。見世物の匂いを嗅ぎつけた貴族たちの、悪くない娯楽への期待。
「あなたとの婚約は、白紙に戻させてもらう」
言葉は、投げつけるように放たれた。
「あなたは聡い。それは認めよう。だが、聡すぎる女は口が過ぎる。何かにつけ理屈を並べ、男の話に横から口を挟む。そういう女は、家を預かる妻にはふさわしくない」
アリシアは、動かなかった。
――口が過ぎる。
その一語が、奇妙な冷たさで胸に落ちた。この半年、彼が舞踏会で失言を重ねかけるたび、後で人目のないところでそっと筋道を教えたのは誰だったか。彼の父の政敵の名を諳んじ、迂闊に握ってはならぬ手を握らぬよう気を配ったのは。表向き彼の面子を立て、裏でその面子を繕っていたのは。その働きに一度たりとも礼を言わなかった男が、今、それを瑕疵として公衆の面前に並べている。
ロベルトはリリーナの肩を抱き寄せ、見せつけるように続けた。
「その点、リリーナ嬢はお淑やかだ。出過ぎた真似はせず、わきまえておられる。妻に迎えるなら、こういう女性だ」
周囲から、忍び笑いが漏れた。同調の色を帯びた、値踏みするような笑い。
屈辱が、熱を持って喉元までせり上がってくる。公の場で、婚約者から、女であることそのものを瑕疵のように数え上げられる。その光景を、帝都の貴顕が肴にして眺めている。
だが、彼女の頭の一隅は、その熱の外側で、冷たく回り続けていた。
――侯爵家の嫡男が、伯爵家の令嬢へ。
家格を、下げている。恋に狂った末の乗り換えというなら、まだ分かる。だが、ロベルトの目に恋の熱はない。あるのは、後ろめたさと――安堵だ。何か重い荷を、ようやく下ろした者の。
これは、恋ではない。
その確信の輪郭を、アリシアはまだ声に出さなかった。ただ、目を伏せぬまま、婚約者だった男を見返した。
「――お待ちください」
声は、荒げなかった。取り乱しもしなかった。アリシアは背筋を伸ばしたまま、公の場にふさわしい静かな声で口を開いた。震えのない声というものが、時に叫びよりも場を掴む。人垣のさざめきが、わずかに落ちた。
「ロベルト様。婚約の解消は、家と家の約定にかかわること。この場の座興で決めてよいものではございません。まして、わたくしの何がふさわしくないのか――そのご説明が、あまりに情に流れておりますわ」
淑やかさが妻の資格だと言うのなら、その基準はどこにある。彼女は感情を一切込めず、ただ筋だけを差し出した。涙で崩れる令嬢ではない、と最初に立てるように。
ロベルトの晴れやかな顔に、初めて小さな苛立ちが差した。理屈で返されることそのものが、彼には気に食わないのだ。
その苛立ちを、アリシアは見逃さなかった。
――理で押せば、この人は崩れる。
彼女は声の温度を一段だけ落とし、何気ない世間話のように問いを差した。
「一つだけ、伺わせてくださいまし。ケハルディンのご領地は、帝都の北の護り。北方から中央へ兵を進めんとする者があれば、必ずその地を越えねばならぬ――帝都へ通じる門を、内から預かるお家でございます。……その大切なお家が、よりにもよってワイマー伯家と縁を結ばれる。ワイマー伯家の後ろに、どなたがおられるかを承知の上で?」
問いは、刃を鞘に納めたまま差し出された。名は挙げなかった。ただ、輪郭だけを置いた。
ロベルトの喉が、上下した。
「……何が言いたい」
言葉より先に、目が泳いだ。傍らのリリーナへ、ほんの一瞬、助けを求めるように。そして西の壁際――シュタデーン公の縁につらなる貴族たちの方へ、確かめるように。
それで、十分だった。
アリシアの緑の瞳が、ふっと醒めた。あどけない少女の顔の奥で、別のものが静かに深く沈む。淑やかさなどという建前の裏で動いているものの正体が、その一瞬の視線の流れで、ことごとく像を結んだ。誰が、何のために、この男を寝返らせたのか。帝都へ通じる北の門が、いま誰の手へ渡ろうとしているのか。
だが彼女は、それを口にしなかった。看破したことを、看破したと悟らせない。醒めた瞳は、すぐにまた伏せられた。
「――女が」
ロベルトの声が、上ずった。図星を突かれた者の、あの逆上の色を帯びて。
「女が、政のことに口を出すな。それだ。まさにそれが、お前の淑やかでない証だ。妻が夫の領地の話に、家と家の後ろ盾に、したり顔で首を突っ込む。そういう出過ぎた女は――」
「まったくだ」
西の壁際から、別の声が追い被さった。シュタデーン公の縁につらなる、恰幅のいい貴族。
「ケハルディン殿の仰る通り。女子が知恵ぶって政談に加わるなど、見苦しいにも程がある。ピルイン選帝公も、よくよくご息女の躾を誤られたものだ」
どっと、追従の笑いが起こった。
誰一人、アリシアの問いそのものには答えなかった。ケハルディン領が帝都にとってどれほどの要地か、ワイマー伯の後ろに誰がいるのか――その一点には、誰も触れなかった。触れれば筋が通ってしまうから、触れないのだ。かわりに彼らは、口を挟んだのが女だという一事だけを、寄ってたかって咎めた。
理の正しさは、一顧だにされなかった。
アリシアは、広間を見渡した。
冷笑。値踏み。娯楽への期待。そして――同情の、完全な不在。
ここには、味方が一人もいない。
筋が通っているかどうかを問う者は、この場に誰もいなかった。彼女がどれほど正しくても、その正しさを女の口から出たという理由だけで、この広間は残らず握り潰す。ロベルト個人の卑劣ではない。もっと大きなものだった。世界そのものが、籠の側についている。
胸の底で、熱を持っていたはずの屈辱が、すっと温度を失っていくのが分かった。かわりに、灰色の何かが静かに広がる。――もう、何を言っても無駄だ。ここで舌を尽くすことは、鳴かぬ喉で鳴こうとするのに等しい。
その諦めを、彼女は表に出さなかった。ただ、胸の奥でひとつ、扉を閉めるように口を噤んだ。
アリシアは、顔を上げた。
彼女は選帝公家の娘として、最後にただ一手だけを、静かに置いた。
「よく分かりました。ロベルト様のお心は、承りました」
一拍、置く。
「ならば、どうか正式になさってくださいまし。ケハルディン侯爵ご当主より、婚約破棄の通告を、書状にて、父ピルイン選帝公のもとへ。――この場のお言葉ではなく、家として、正式に」
声は、どこまでも淑やかだった。作法を確かめる娘の声だった。
「むろん、ご当主のご署名と、しかるべき理由を添えて」
場が、わずかにざわめいた。
言葉の表は、気丈な令嬢の意地に聞こえただろう。捨てられた娘が、せめて体裁だけは整えろと食い下がっている――そう受け取った顔が、人垣にいくつも並んでいた。往生際が悪い、と誰かが小声で笑った。
ロベルトだけが、笑っていなかった。
晴れやかだった目から、色が引いていた。視線が彼女を通り越して、どこか遠くへ据わる。この広間にはないものを見ている目だった。何か言いかけて唇が半分動き、そのまま、言葉を探すのをやめた。リリーナの肩に回されたままの腕から、力が抜けていた。
――何と、お書きになりますか。
その問いを、アリシアは口にしなかった。
正式な通告には、理由が要る。ただ、それだけのことだ。彼女が求めたのは正しい手続きであって、それ以上のものは何ひとつ足していない。
裏を語れば、この場の誰かがまた「女が」と咎めるだけだ。ただ一手を置いて、駒から指を離す。それだけで足りた。
「では、失礼いたします」
彼女は裾を払い、婚約者だった男に背を向けた。
背を向けて歩き出すと、広間のざわめきが、少しだけ遠くなった。
人垣が、彼女のために道を開ける。その開き方にすら値踏みの色があった。哀れみではない。敗者がどう歩くかを見届けようとする、好奇の道だ。アリシアはその真ん中を、裾も乱さず、歩幅も変えず、まっすぐに進んだ。顔を上げ、緑の瞳はもう静かなあどけなさに戻して。負けた令嬢には、見えなかっただろう。
背後で、忍び笑いがまた漏れる。誰かが囁く。気の毒に、いや、当然だ、あの気の強さでは。声の切れ端が、絨毯を踏む足音の合間に刺さってくる。
彼女は、聞かなかったことにした。
――理を尽くしても、女は籠の中。
歩きながら、胸の奥で畳んだ諦めが、ゆっくりと形を持ち始めていた。今宵、彼女は一度も間違えなかった。筋も通した。相手の企みも読み切った。最後の一手も、家の娘として過たず置いた。何ひとつ、しくじってなどいない。
それなのに、この結末だ。
正しさは、何の役にも立たなかった。この広間で、彼女の正しさに耳を貸した者は一人もいない。ただ「女が口を出した」という、それだけで。どれほど頭が回ろうと、どれほど先が読めようと、女という一点で、世界はいつでも彼女を籠へ押し戻せる。今宵、それを思い知らされた。
籠は、籠だ。
どこへ行こうと、誰に嫁ごうと、この壁は付いて回る。相手の男が変わるだけで、籠が変わるわけではない。そう思うと、屈辱よりも先に、静かな寒さのようなものが胸に満ちた。怒りですらない。もっと冷えた、諦めに近い何か。
大扉が近づく。夜気の匂いが、かすかに流れ込んでくる。
アリシアは足を止めなかった。振り返りもしなかった。今はただ、この広間を出ることだけが、彼女に残された唯一の意地だった。
扉を抜ける、その一歩の背に。
凛と伸びた選帝公家の令嬢の背筋の、そのすぐ裏側で――誰にも見えない場所で、灯がひとつ、静かに消えるような心地がした。
夜は、まだ長い。
続きが気になった方はブクマと★評価をしていただけると、作者の励みになります!
星評価はページの下側にある【☆☆☆☆☆】をクリックしていただければできます。
どうか応援よろしくお願いします




