第10話 無駄が消えて、人も消えた
館の一日は、日の出前から動いている。
厨に火が入り、水が運ばれ、廊の燭が落ちる。毎朝そのとおりに繰り返されていて、順を決めたのが誰なのかは、どこにも書かれていない。
日の出とともに東の間を出て、その順を端から見た。
朝の膳を下げたあと、ドロテアが来た。
「館の内の手順を、書いたものがあるはずね」
ドロテアは抱えていた束を卓へ置いた。
「こちらが、妃殿下付きの分にございます」
厚みは掌の半分もない。
「館の全体は」
「式部省より、折ごとに参ります。手順も、出納も、あちらで決まった形で下りてまいります」
「館の内を差配しているのは、式部省なのね」
「そのように承っております」
答えは書のとおりで、その外へは一歩も出ない。抑揚もない。
館の全体の分を持ってこさせると、折ごとの束が卓の端から端まで並んだ。表紙はどれも同じ紙で、綴じ方も同じである。開くと、役と品と刻限が、人の名を挟まずに並んでいた。誰が、ではなく、何が、いつ、どこを通るか。書いてあるのはそれきりである。
「出納に関わりますものは、殿下のご承認を頂く形になっております」
そう言い添えて、ドロテアは下がっていった。
三日のあいだ、アリシアは館の内を順に見た。人の手つきではなく、物の通る道を見る。朝は厨と蔵のあいだ。昼は納戸と廊。夕は卓の支度。戸口に立って出入りを数え、数えたものを紙の端へ書き付ける。同じ道を三度たどると、重なっているところが浮いてくる。
粉と油は、まだ日の低いうちに内廷の蔵から運ばれてくる。炭は昼を回ってから、同じ蔵から運ばれてくる。運ぶ者は別で、道は同じである。荷はどちらも、一人で提げられる量にとどまっている。日に二度、同じ石畳を同じ距離だけ人が歩く。
蔵から来た荷は、西の納戸へいったん入る。厨の者が取りに来るのは、そのあとである。鍵を持つ者が来て、開けて、荷を入れて、閉める。厨の者が来ると、また開けて、出して、閉める。錠は日に四度、同じ手で回されている。
厨の支度が済むのは、卓に出す刻限の半刻前である。その半刻のあいだ、運ぶ者は廊にいる。皿は廊で冷める。
三つとも形は同じで、一度で済むところが二度に割れている。
紙に書き出して、順を入れ替えた。粉と油と炭は、昼の一度にまとめる。蔵から来た荷は、納戸を通さず厨へ直に入れる。厨の支度の刻限を、半刻遅らせる。
書き終えて読み返すと、三行しかない。名を書いた行は、一つもない。
紙は館の内へ回した。回した先からは、何も返ってこなかった。書いてあるとおりにすればよい紙である。
帳面が来たのは、明くる日である。
折は月ごとに一つで、二十四まで揃っている。二年分である。それより前の折は、館に残っていない。卓に積むと肘の高さになった。品と、額と、名目が、行ごとに並んでいる。市で買うもの。修繕。冬の備え。年に一度きりの祭礼の入り用まで、名目の書いてあるものは、額が動いても筋が追える。
追えないものが、幾つかあった。
折ごとに、同じくらいの額が出ている。品の名がない。宛先を書く欄はある。空いているだけである。
一つではない。似た形の行が折をまたいで並んでいて、どの折にも一つか二つある。額はどれも小さく、一行だけなら目に留まらない。まとめて拾うと、年でそれなりの高になる。
名目の立たない支出である。
帳面を書いている者を呼んで、行の出所を問うた。前の折にあるから、そのまま続けて書いている、という答えが返る。金は毎度そのとおりに出ていて、受け取りの印も欠けていない、とも言った。その前の折にも同じ行があり、さらに遡ると、書いた者はもう館にいない。写しが写しを呼んで、ここまで来ている。
筆を取った。名目の立つものと、立たないものとに分けて、後のほうへ線を引く。折をまたいで、同じ形の行はみな引いた。額の大小は見ない。品の名のあるものには触れない。
引き終えた行を数えると、二十を超えている。日付と、額と、折の番号を、控えの紙へ書き写した。
日はもう傾いていた。帳面の紙は厚く、めくる音が低い。
*
夫が館へ戻ったのは、その夜である。
廊のほうで人の動く音がして、それから戸が開いた。上着の肩に、外の冷えがまだ残っている。
卓の端へ寄せてあった折を、順に手前へ引いた。線を引いたところを、折の順に開いて見せる。夫は上着のまま向かいに掛けて、指で行を追っていく。
読む速さは変わらない。折を三つ繰ったところで、目が一つの行の上に留まる。それから、また端から追い始めた。
「これでいい」
夫はそう言って、帳面をこちらへ戻す。理由は言わない。
それから筆を取った。線を引いた行の一つに、別の名目を書き足していく。品の名を一つ入れて、額はそのままにしてある。字はこちらの筆より大きい。書き足したのは一行だが、別の折を開いて、そちらの合計も直している。写しを作る者は、同じところを二度たどることになる。金高は、帳面のどの行よりも小さい。
筆を置いてから、帳面の端を揃えて、こちらへ押した。
落とした行が、書き直して一つ残る。直す手間のほうが、残る額より大きい。割に合わない一行である。そのまま次の折へ移った。
「明日、写しを上へ出します」
「ああ」
夫は帳面を閉じて、立った。廊へ出るまで、何も言わない。
館の回りが変わったのは、それから幾日かのうちである。
荷は昼の一度で済むようになった。石畳を歩く回数が半分になり、錠が回るのは日に二度である。厨の戸口の出入りは、六度から四度になった。厨の支度は卓に出す刻限に合って、廊で待つ者もいない。卓に出るまでの間が半刻縮んで、皿は温かいまま運ばれる。夕の支度も、その半刻の分だけ早く終わる。
月の末に帳面を締めた。前の月の合計と並べて、差を出す。行の数で十二、額で五分の一ほど少ない。引いた行のうち、いくつかは名目が立って戻った。
写しは二通取って、一通を館に残した。もう一通は、前の月と同じ道で式部省へ上げた。
*
繕い物を出す日である。
布の束を抱えて廊へ出てきたのは、若い侍女だった。抱え方が浅く、端が床に触れそうになっている。歩くたびに束が肩の側へずれて、そのつど抱え直す。廊の窓から日が入っていて、束の縁だけが明るい。
侍女は戸口で名を呼んだ。中から返ったのは、別の声である。
北の端の戸は開いている。石の流しの前に、腕をまくった者が一人。背の高さが違う。水を使う音の間合いも違う。
竿の布は、間を詰めて掛けてある。幅の広いものも、狭いものも、同じ間隔で並ぶ。厚いものと薄いものが隣り合ったまま。
そのまま廊を通った。
クリスが後ろから来て、並んだ。上履きの音が、廊の半ばで一度だけ遅れる。
「そういえば、あの方が」
クリスはそこで切った。先は言わない。半歩下がって、また並ぶ。
「控えの綴じは、今日で終わります」
「そう」
クリスは袖の内から控えを出し、日付のところを開いて見せた。指の当てた行から下は、まだ白いままである。
廊を折れて、東の間へ入った。
窓の外が暮れて、部屋の内が一色になる。灯を入れるには、まだ早い。
卓の上には、手順の紙と帳面が重ねてある。手順の紙は三行のままで、帳面は締めたまま閉じてある。どちらも、明日には別の者の手へ渡る。書き足すところは、もうない。
務めには終わりの形がある。帳面を締めて、写しを上げて、卓の上を片づける。
何かが起きたという感じが、自分の内に一つも残っていない。
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