第34話 十六日で、王が一人代わった
聖歴一〇五五年、十二月十六日。
アストゥリウ王国の王都レオンは、この朝のうちに落ちた。外郭の城門は未明に破城槌で破られ、内と外の喊声も、既に絶えた。残るは、王宮のみ。
囲むのは黒旗軍である。その先頭に、第四王子フェリオル。父王イニゴの、庶出の子だ。
精悍な顔立ちに、淡い灰の瞳。瞳には、翳がある。
傍らに、ギニアス・オブラエン。黒旗軍の近衛隊を預かる乳兄弟で、幼い頃から離れずにきた。
門の内に、王宮の近衛隊が並んだ。
横に厚く、隙をつくらず。甲は磨かれ、外套の紋はどれも欠けず。家の紋である。宮に仕える貴族の子と、譜代の騎士。生まれで選ばれ、腕で残った者たちだった。
前が槍を伏せ、後ろが盾を掲げる。号令は澄み、端まで通った。
長が、剣を抜いて位置についた。剣の拵えは、家に代々伝わるものである。
そこへ、軍が来た。来た、というより、届いた。門を抜けた最初の一団が、槍の穂先の届くところまで入る。そこに留まらず、なお入った。
甲の色はまちまちで、紋はない。腕に巻いた黒い切れだけが、どれにもある。
止まらぬものを、穂先は受けきれない。一本が上へ跳ねた。跳ねた穂先の下で、ひとりの首筋に、刃が刺さっている。刺さってから、視界から外れる。
その脇のひとりは、まだ盾を離さずにいた。抱えたままの肩へ、横から人が入る。入ってきた腕の先は、刃だった。盾の下から、脇腹へ。そのひとりも見えぬ。
並びは、崩れなかった。崩れるより早く、失せていた。
後ろの盾は、掲げられたなり。掲げた盾の向こうで、前がもうないことを、後ろはまだ知らずにいた。
若いのが、いた。譜代の家の、末の子。盾の縁から目だけを出して、前を見た向こうに、盾しかない。
長の声が張った。詰めろ、と。詰めるべき前は、ない。
声は、宮の石に当たり、跳ね返って落ちるのみだった。軍は、それを聞かなかった。聞く用がない。
流れは、幅を変えずに入っていった。門から広場へ、広場から柱の間へ。走りはしない。走る用がない。倒れた者は、跨いで越えた。
近衛のひとりが、盾を捨てた。捨ててから、周りを見る。周りに、王宮の紋はもうない。
別のひとりは、盾を捨てなかった。捨てぬまま、流れの後ろに取り残されていた。流れは、そのひとりを過ぎている。過ぎたあと、振り返る者はない。
若いのは、盾を抱えたまま、石の上に座り込んでいた。甲に傷はない。傷を受けるより早く、先がなくなった。盾を握った指が、白かった。
長は、剣を抜いたときの位置にいた。位置は変わらず、守る相手だけがなかった。
宮の階を、軍は歩いて上った。踏まれた石が、乾いた音を返す。靴の泥が、磨かれた石についた。
上りきったあたりで、扉が内から閉じられた。閉じた音は、兵の足に紛れる。
そこで絶えた、王宮の近衛隊。終わったと、まだ誰も口にしていない。
甲の紋が、いくつか、石の上に残った。誰も拾わぬ。
男が歩くのは、その後ろだった。
宮の内は、暗い。灯は絶やしてあった。暗さの中を、兵は足で測って進んだ。
戸が一つ、閉じた。先の間で、また、一つ。
閉じる響きは、遠くなるにつれて小さい。小さくなった分を埋めるのは、兵の足だった。
男は、足を速めない。閉じる響きに、目もやらなかった。
傍らの男が、戸のほうへ、顔だけを。
「開けますか」
「要らない」
閉じてよい。閉じたものは、そこにとどまる。
柱の陰で、近衛のひとりが石を背にしていた。刃は落としたまま。腕が、あとは上がらぬ。紋のある甲が、暗さの中でくすんでいた。
男は、その前を通った。通るとき、目を向けずにいた。
床に、外套が一枚落ちていた。紋のついた側を、表に。兵の靴に、踏まれるまま。
宮の奥へ、戸はまだ閉じていく。一つ。また、一つ。
いくつめかで、響きが途切れた。開いている戸は、ない。
男は、宮の外れへ歩き出した。続く兵。
そこは、石組みの下だった。台所の裏、古い水汲みの跡。石が一枚、内から動いていた。動きは、鈍い。兵が、その周りに立つ。誰も、石に近寄らなかった。
石が、ずれた。隙間から、指が出る。指が土を掴み、そのあとに肘。
王が、這って出てきた。膝で土を踏み、身を起こす。起こした顔の先に、囲み。囲みは、動かず。
腰を上げられぬまま、土の上に留まった。土が、頬から顎まで付いていた。羽織るものはなく、絹が、土の色だった。
男が、囲みの内へ歩み入った。そこまで来て、腰を折る。折り方は、正しい。
「父上。どちらへ」
口は開き、声は出ず。
男は腰を伸ばした。伸ばしてからは、そちらに視線をやらぬ。
出てきた穴の向こうで、足の響き。
ひとりではない。数を成した、足並みである。
穴の縁に、兵が現れた。土を払いながら、ひとり、またひとりと出てくる。出てきた者は、脇を回り、囲みへ加わった。軍の色である。
通路の向こう端は、既に軍が押さえていた。そこを這っていたあいだに。
王が、穴を振り返る。振り返った先から、まだ兵が出る途中だった。
出るものが絶えて、穴は、ただの穴に戻った。土に、膝の跡が二筋、奥から続いていた。
退路は、ない。前にも、後ろにも。囲みは、穴の側でも閉じた。
振り返った姿勢が、しばらく解けなかった。解けてから、口が開く。
「……わしを、殺すのか」
男の声は、低くも高くもない。
「先に兵を出せと命じたのは、陛下です」
「その兵は、砕きました。ひとりも、帰さずにおります」
「誰の名で令が出たかは、兄上がたが白状しております」
囲みの中から、ひとりが進み出た。
兵のひとりである。顔に、見覚えの立つものはない。甲に紋はなかった。腕の黒い切れだけが、ある。
両の腕に、包んだものを一つずつ抱えている。
兵は、それを王の前へ投げ出した。二つとも。
包みがほどけ、転がって、石で止まった。
首である。二つ。目は、閉じていない。
そこへ、王の視線が落ちた。声には、ならない。口が動き、閉じ、また動く。
兵に、言葉はない。投げ出したあとは、囲みへ。戻った位置は、元の位置だった。隣と、肩の高さが変わらない。
上体が傾いだ。脚が土に沈み、掌が、首の脇に落ちる。落ちた掌が、そこから上がらぬ。
顔は、伏せられたなり。それが、上がった。
「……貴様に軍を任せたのが、誤りであった」
「人を見る目が、おありでなかった。それが、誤りというものです、父上」
男は、腰を折らなかった。
「役の務まらぬ方が席を占めるのを、時代は許しません。父上のような方は、どこにもおいでです。幕が開いてから穴を探すのを、歴史は押し流します。お退きになるのが、務めでした」
崩れた身を、囲みが見ていた。男が抜いたのは、腰の剣だった。
抜いたものを、切先を下に向けて、王の前へ投げる。
土には刺さらず、横に倒れた。柄が、王の側にある。投げた男の腰は、鞘だけになった。兵の視線は、その腰へ。
「お取りください」
視線が、それへ落ちた。それから、男へ。
「柄は、そちらに」
掌が、柄へ伸びた。伸びて、握る。握ったまま、腕が動かない。刃は、土に触れたまま。
男は、待たなかった。傍らへ、顔をやる。
傍らの男は、黒い髪と浅黒い肌をしていた。肌の色は、男と違わぬ。眼に、陰りはない。それが、こちらへ。
「借りる」
「はい」
傍らの男が、鞘ごと差し出した。差し出されたものを、男が抜く。抜くとき、目を落とさなかった。鞘は、傍らの男が引き取った。
男は、切先を落としたまま、王の前へ戻った。王は、柄を握ったまま、腰を上げられぬ。上がろうとして、上がらぬ。
囲みが、見ていた。男が、一歩、出る。
王の刃が上がり、振られた。男の身が、半歩、退く。刃は、空を切った。
退いた足が、前へ踏み出す。男の刃が入った。一度である。
身が、横へ。倒れた上へ、抜けた刃から血が落ちる。
囲みに、動きはない。誰も、声を立てぬ。血は、石にも散った。
男は、刃の血を払った。払ったものを、傍らの男へ戻す。傍らの男は、鞘に納めた。
男は、宮の内へ顔を戻した。開けていない扉が、まだ残る。兵が、あとに続く。
まだ、昼前である。
この戦争がいつ始まったかについて、後の書き手たちの起点は揃っていない。
前の年の戦役の開始を取る者がいる。あの男が軍を持ったときに、既に始まっていたとする。
その年の十二月の挙兵を取る者がいる。秩序へ剣を向けた日が始まりだとする。
王都の落ちた日を取る者が、もっとも多い。結果の出た日を始まりと呼ぶ。
三つは、日付の違いではない。この戦争を何と考えるかの違いである。写本は、写す者の考えに沿って日を選ぶ。だから写本ごとに、始まりの日が違う。
アストゥリウの王宮が落ちた日は、その三番目にあたる。
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