第33話 異国と呼んだ半年、帰りつく館
船を下りる。下りても、足の下が揺れていた。揺れは、もう船のものでない。
岸の固さが、遅れて足へ付いた。付いてからも、波の癖はしばらく抜けない。
港の朝は、白く固かった。息が白く出ては、はしから薄れ、後を引かない。
夫が、脇へ来て立つ。立ってからは、どちらも口を使わずにいた。使う用の、まだ無いあいだだった。
馬車は、待たせてあった。乗り込むと、外の白さが遠くなる。車輪の音だけが、下を転がっていた。
道筋は、覚えのままに曲がった。曲がるたび、屋根の重なりが近くへ寄る。近さの分だけ、朝の白さが薄れていた。
内廷の門は、開け放してあった。くぐった奥に、人の姿が見えた。姿の細さに、見紛いはない。
シャルロットだった。外套の前を合わせ、門の内で待っている。頬が、外の色に染まっていた。待ちくたびれの見えない立ち姿。
住まいは、囲いの内の別にあった。そこから、ここまで迎えに出ている。
馬車が止まる。止まった脇へ、歩みが寄ってきた。
「お戻りなさいませ。兄上も、ご無事で」
向けられた分へ、腰を浅く落として応じる。
「シャルロット。そなたも、変わりなく見える」
名を呼ばれた側が、夫へ顔を戻す。
「フラリンの都は、いかがでしたか」
「大きい。人も、物も、多かった」
「この王都よりも、ですか」
「広さが、まず違う。道から違う」
訊く声も、返す声も、短い。外の冷たさが、長い立ち話を許さずにいた。
声の向きだけが、こちらへ移った。目の先に、急ぐ色はない。
「元日には、お目もじいたします」
浅い顎の引きで、受けた。それで、この場の用は足りた。足りて、行き先が三つに分かれた。分かれる先は、どれも遠くにない。
「政庁へ回る」
摂政は、囲いの外へ出ていく。政庁は、門を出て逸れた先にあった。出る背を、見送りの声が追わない。
シャルロットも、内の道を別邸のほうへ辿る。辞儀は、浅く短く置かれた。近い間柄の、浅さだった。
こちらの館は、さらに奥にある。奥への道を、ひとりで歩き出した。歩幅だけ、海の上より広い。
途中で、擦れ違う者が身を低くした。低くなる形は、出る前と同じだった。
別れに、足を留める間はない。向かう先が、それぞれに待っていた。それが、常の別れ方である。
道の脇には、囲いの木が並んでいた。透きの奥まで、朝の色が届いていた。初めて通った折は、緑の重い道だった。
息の白さが、まだ抜けきらない。抜けるのを、待つ用もない。白さは、囲いの中まで付いてきた。
館の構えが、近くなってくる。戸は、着くより先に引かれた。
*
内は、外より明るかった。明るさの元は、灯にある。灯は、もう点いていた。
ドロテアが、戸の内から迎えた。久しさを、立ち方に載せずにいる。目が合い、身の低くなるのが早い。
「妃殿下。皆で、お待ち申しました」
「変わりは」
「ございません」
「お発ちの後も、館の内は常の通りにございました」
「それは、何よりのことです」
「不在の間は、ご苦労でした」
外套が、肩から外れていった。外れた分だけ、身が軽くなる。重さの分が、旅の長さだった。
部屋は、出た時のままにあった。卓の上だけが、時のままでない。ほかは、発つ前のままの収まり。
綴じた束が、置いてある。置いた覚えを、こちらは持たない。
「お預かりいたしました分を、お返しに」
「検めておきます」
紐が解ける。中身の頭は、見覚えの組みだった。解け方に、傷んだ癖は見えない。
年が改まる支度の、割り付けだった。発つ前に、途中まで掛かっていた分である。厚みの半ばから先が、まだ白い。
家の順に行が下り、品と、その折とが付いて分かれる。組みの立て方は、覚えのままにあった。見開きに、揃いの細い罫。
書かれたところまでが、済みの分になる。白いほうが、これから埋める分だった。
「式部より、季の分も新たに下りております」
「今日のうちに、掛かっておきます」
足された分は、卓の脇へ寄せて置いた。並べた順のまま、後へ回る。
「灯を、お入れしましょうか」
「いまは、まだ要りません」
日は、まだ卓まで差していた。差す角度だけが、出た頃と替わっている。差しの届く内は、灯が要らずに済む。
椅子を引き、掛けた。掛けてからは、立つ用が来ずにいる。掛けた向きも、出る前と変わらずにあった。
始めは、上の家からだった。上の家を書き入れ、次の家をその下に就けた。書き入れた字の、細い据わりよう。
途中までの覚えは、手が持っていた。覚えのある分は、運びが軽い。
品のほうは、書かれた通りに埋まった。埋める運びに、迷いは挟まれない。品の名は、見慣れたものが多い。
取り次ぎの声が、戸口に立った。声の主は、若い響きだった。
「式部より、季の割りの続きにて、と」
ドロテアが、受けに立った。遣り取りのあいだも、こちらの運びは流れていた。声の低さに、用の軽さが出ている。
使いは、返事を待たずに下がった。下がる気配も、すぐに引いた。取り次ぎだけの、短い用件。
紙が、脇へ足される。足された分も、後の順へ就く。
「お帰りの祝いに、と申し出る家々が」
「品は受けるだけに、しておきなさい」
「はい、そのままにいたします」
祝いの名に、聞き覚えの外はない。新しい寄りは、まだ立たずにいた。
家の名は、口の内で告げられた。告げのあいだも、行の運びは動いている。
元日は、どの家も内で過ごす。会食は、直系の身内だけで就く。連なる客は、外にいない。
諸侯は、領地の家に。構えを持たぬ家は、その家の内に。それが、年の初めの決まりごとである。
組む相手は、身内で閉じていた。急かす声も、どこにも立たない。
席の順は、格で下りる。
王の座を、上に置く。
摂政が、それに次ぐ。
シャルロットへ、その隣を。
末が、こちらの席。
下ろし方は、迷いを見ずに済んだ。迷いの立つより前に、先が出来ていた。
王の分は、決まらずにいる。決める役は、こちらにはない。空いたままの座も、座の内である。
就かれる形と、就かれぬ形と、どちらも組んでおいた。
空欄は、空欄のまま置く。置いたままでも、組みは立った。
ドロテアも、卓の側にいた。
「お品の書き入れのことで、お確かめを」
「先の割りの通りで、結構です」
「はい」
確かめの声は、長居をしない。後の掌の運びに、乱れは出ない。
日の届きが、詰まってきた。詰まる分だけ、灯の色が濃さを増す。窓の外は、もう冬の早い夕暮れ。
「新しい灯に、お替えいたします」
頷きで、足りた。替わった明るさの内で、白いほうが減っていく。減るほどに、区切りが近い。
「お返しの品は、いかがいたしますか」
「これまでの通りで、構いません」
「確かに、承りました」
「では、その通りに運びます」
声は、途切れては、また継がれた。継ぐ声のあいだにも、白いところは減っていた。
灯の下の白さは、日の下の白さと違って見えた。見え方だけが替わり、運びは替わらない。
次の使いが、また立つ。立った声は、奥まで届かずに済んだ。
こちらの目は、上げずともよかった。目の先の分が、まだ切れずにいる。切れるまでの見当なら、既にあった。
「お食事の、お支度が整います」
「区切りのつくところまでで、参ります」
区切りは、もう目に入っていた。入るまでを、今日の分と決めた。
埋める早さも、朝の頃と違わずにいた。早める向きは、見当たらずに済んだ。
「残りは、明日の分へ回します」
区切りへ、着いた。着くと同時に、掌が留まった。
紙の端をそろえた。重なりを、綴じの脇へ移し直す。重なりの角が、指の腹に立つ。
空欄だけが、白く空いていた。埋まる日を、こちらは持たずにいる。
持たぬままに、組みは立っていた。立たせたなりで、仕舞える。仕舞いは、短い手間で済んだ。
灯だけが、変わらぬ明るさにあった。館の内から、物音が引いていく。
引いた後の耳に、戻る声はない。声のあった辺りだけが、覚えの内へ残った。耳に残るものの無い夜だった。
今日の分は、終いへ届いた。次の分は、白いままで控えている。済んだ厚みと、白い厚みの並び。
白いほうは、急がせに来なかった。待たせても、逃げていく先ではない。
目の内に、続きの厚みがある。どこから開くかは、決めるまでもない。
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