第32話 全部読み切った。先の刻みはなかった
私室の外の間は、開けてあった。通るついでに足を止められるほどに、開けてある。私室とは、別だ。
柱と柱の、ひと区切りに収まる広さだ。昨日の広間と比べる向きの、広さでもない。
隣に、夫が掛けていた。こちらも、掛けていた。掛けてから、どちらも位置を替えずにいる。
日は、まだ傾いていない。傾かない日が、開けた方から斜めに差し込んでいた。
ふたりが、寄ってきた。寄る足は、こちらで止められた。止まるまでに、迷う気配はない。
昨日の上の面々とは、纏う物が違う。織りは粗く、留め具は軽い。軽いものを、丁寧に纏っていた。
格は、下にある。下であることを、歩き方が先に知らせていた。知らせたうえで、寄ってきたのだ。
ひとりは、包みを抱えていた。抱えたなりで、身を折る。もうひとりが、遅れずに屈めていた。
屈め方は深い。深いぶん、戻りが遅かった。遅いあいだ、口を開く者はなかった。
夫は、掛けたまま受けた。受けるのに、間を要していない。
「殿下。葡萄を産する家筋の者と申します」
「お発ちの前にと、参りました」
「今年の葡萄は、よく実りました。近ごろでは、いちばんの出来です」
「そう聞いた。よい年だと」
「夏に、日が続いたそうだな」
「はい。色の回りが、早くございました」
「早いと、味が変わるか」
「濃く、なります。この分は、殊に」
実りの話には、乗っていた。乗る声の高さは、用件のものと違わずにいる。そのまま、次を待たない。
「瓶の願いは、既に差し上げてございます」
「お口添えを、賜れればと。願いは、それのみでございます」
願いの中身は、その一言までで止まる。量も、細かな筋も、出ていない。屈めた背に、待つ様子はない。
摂政の返しは短い。短いまま、そろえてある。
「願いは、読んだ。係りに渡り、順を待っている」
「はい」
願う側が、また屈めた。深さは、初めのままだ。戻りも、初めの遅さだった。
そこより先へ、言葉は進まなかった。進めたい、とも見えない。見えぬまま、ふたりの顔が上がった。
抱えていた包みが、前へ出された。包みの口が、解かれる。中のものは、見せられただけで、こちらへは渡らずにいた。
「今年の分にて、ございます。お持ち帰りに、ぜひ」
「妃殿下のお口にも、合いますよう」
頭を浅く、下げた。それで、足りた。載せる言葉は、要らずにいる。
こちらに向いた言葉は、それで終わる。終わって、向きが戻る。
摂政が、包みを見た。見てから、視線を戻している。戻した先は、ふたりの顔にあった。
「次の朝には、発つ。支度は、半ば済んでいる」
「伺いました。その前に、お目通りが叶いました」
頷きが、返った。それで、下がってよい、が伝わっている。
「失礼を、いたします」
ふたりが、身を屈めた。そのなりで、後ろへ退いていく。退く足は、寄ってきたときより、軽かった。
軽いまま、開けてある方へ紛れていった。紛れる先を、誰も見送らずにいる。
包みは、こちらの脇に残された。それを、誰も解かない。解く用は、後回しにした。
日は、そのままの角度にあった。差し方が、来る前と違わずにいる。差し込む内に、包みがある。
開けてある方から、誰も来ない。そのまま、時が進んでいた。
*
注がれた酒があった。注いだ硝子の瓶が、その脇にある。脇に据えられたきりだった。
瓶の口は、見慣れた作りだ。見慣れた、と見たきりで、それより先は見なかった。見る用も、ない。
杯は、隣にもあった。隣の杯は、まだ減っていない。減らぬまま、色を留めていた。
昼の場より、卓は小さい。そのぶん、あるものが近い。近いものに、どちらも急いでは触れない。
灯は、ひとつだけだった。ひとつで、幅は足りている。足りる幅の内に、杯がある。
外は、もう暗い。暗さは、閉じた戸の内へ入らない。ここは、閉じた場だ。昼の場とは、開き方が違う。
夫が、杯を持ち上げた。持ったなりで、口には運ばないでいた。
「聞いたものを、並べるか。ふたりで」
決めずに、頷く。頷いたなりで、足りていた。
こちらが、先に杯に触れた。指に、冷たさが移った。すぐに、薄れた。
一口で、置いた。置く音は、小さかった。小さい音の後で、隣の杯が動いた。
突き合わせは、そこから、始まった。始めを、どちらも告げない。告げぬまま、始まっていた。
出すのと、返すのとを、初めに決めなかった。決めぬまま、一つが出ていた。
「艦は、海へ出した。陸の備えは、抜いていない」
「東へ、備えたままです。艦を出しても、減らしていません」
「減らす気が、初めからない。海は、余った分で足りた」
祝われたのは、北の日だった。祝いの句は北を向き、備えは東にある。東のものは、昨日のままにある。
杯が、隣で傾いた。傾いて、戻る。戻る途中に、次が乗っていた。
揺れる分が、指に伝わった。指は、受けるだけでいい。
次は、こちらの番だった。出す前に、間を挟まない。
「帝国の名は、昨日、一度も出ませんでした」
「出さずに、済ませていた。出す用がなかった」
「出さないほうが、遠いのです。出せば、近くなります」
「遠いままで、済ませた。それが、あの家の言い方だ」
帝国の家の娘の指に、その杯があった。持ったまま、下ろす先を見ない。
どの側に着いているのか、を測りかけた。測りかけて、瓶が来る。来たものに、続きを譲っていた。
注がれる。注がれた分だけ、杯が重くなる。重くなった杯を、しばらく、持たずにいた。
夫が、次を出した。出す声は、初めの低さのままにある。
「あの男の名は、聖都の名と一緒に着いた」
「初めから、聖都だったのですね。送るものが、絶えずに」
「初めからだ。勝ってから、送る家が増えた。聖都は、増えた側ではない」
「増えたのは、後です。先にあるのは、聖都だけでした」
称賛の色は、昨日の声にあった。色は、ここまで渡らずにいる。渡らぬ色を、渡らぬまま聞いていた。
聖戦、という言い方を、誰も直さないでいた。直さぬまま、通してある。通したものが、そのままここまで届いていた。
杯を、置く。置いた杯の内は、初めより減っている。
こちらが、次を出す。出したのは、近くにあるものからだった。
「この国には、要るのです。リューベックなしでは、回らないものが」
「帝国も、要る。要ることを、言わずにいるだけだ」
「どちらにも、です。どちらからも、離れずに」
「どちらにも、だ。離れずに、どちらにも近づかずに」
願う側の足が、軽かった。軽いことが、答えの代わりをしていた。答えを、誰も口にせずに済ませた。
杯が、また傾いた。今度は、こちらの脇で。傾けたのが、こちらの指だった。
出したものと、返ったものとが、卓に乗っていた。乗ったまま、片づけられずにいる。片づける用が、まだ来ないのだ。
摂政が、瓶を持った。持ってから、こちらの杯を見ている。
「発ちは」
「明日の、朝のうちです。船は、待たせないと聞きました」
「冬のあいだ、海は荒れます。文は、届くのが遅れます」
「来春には、この話の返事が来ます。遅れても、来春のうちに」
流れるなら、冬のうちだ。知れる形で、流れる。
来春までで、用は足りていた。足りたなりで、口を閉じている。閉じたあとに、足す言葉はなかった。あっても、要らない。
視線が、こちらにあった。そこから先の続きを、求めていない。求めない顔の、ままだった。
注ぐ音が、短かった。短いまま、止む。止んだ後の杯は、初めの高さだ。
杯は、初めより軽い。軽い分、持ちやすくなった。持ちやすいものを、ゆっくり持っていた。
灯は、そのままの明るさだった。まだ、足りている。足りる明るさで、見る用は済む。
聞いたものは、しまってある。しまった先が、遠いこともない。
収めたところで、卓の上は初めと同じだ。同じものが、卓にあるだけだ。
支度のほうが、まだだった。まだのものは、荷にある。
残りは、少ない。見当は、付いていた。
荷は、閉じるだけだ。閉じるのは、寝る前で足りた。足りる時が、まだある。
朝は、早い。早いぶん、酒はここまででよかった。よいところで、瓶が据えられる。
杯を、置いた。置くところで、次の用が来る。次の用が、こちらにあった。
荷の口を閉じる順を、思った。来たときの逆でよい。逆に辿れば、朝に間に合う。
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