第35話 まだ、終わっていなかった
磨かれた石の床に、昨日のものが残っている。乾いた血が、入口から奥へ細く続き、まだ拭かれていない。
血は入口の辺りで広く、奥では線になっている。線の先は、奥の戸で切れたままだ。その手前の床が、他より黒い。線の脇に、手袋が片方だけ落ちていた。
家の紋の入った衝立が、倒れたまま起こされていない。その脇に、折れた剣が転がっている。誰の剣かは、分からない。
衝立の向こうに、椅子が横倒しになっている。座るものはない。
奥の台の上に、割れた器がある。
灯は絶えていない。油の減った皿が、奥の台に置かれたままだ。
広間である。十七日の朝だ。
扉は開かれたまま、閉じる者がいない。廊の先から、足の音がする。
まだ、誰も入っていない。
フェリオルが入ってきた。半歩後ろに、黒旗軍の近衛の長、ギニアスがいる。黒い切れは、腕に巻いたままだ。
石の床に、靴の音が返る。他に、鳴るものはない。外套は着けていない。
兵は、通路に控えていた。中へは入らない。中を見もしない。
中ほどまで進み、止まった。床の血は踏まない。
顔が、衝立へ向く。折れた剣へ。それから、奥の戸へ。
近衛の長が、その戸の向こうのことを言った。
「妃たちは、奥の房に。近衛が付いております」
そちらは、見ない。戸の方へは、まだ誰も向かわない。
「楽にはさせるな。生まれてきたことを悔やむまでだ」
低いまま、一息で言い切った。
誰も、返さない。
房からは、何も聞こえない。出てくるものもない。
フェリオルが、ギニアスへ向いた。
近衛の長の足は、血の線の手前に、あった。目は、その線にあった。それから、上がった。
「兵が見ております。殿下を仰いでいるから、禁を守り、黙って付いてきました。あれをやらせれば、今の目では見なくなります。やれば明日から、殿下の名はそう呼ばれます」
声は低いままである。腕は、脇に下ろしたままだ。言葉が切れても、顔は下げない。外の兵には、届かない。
答えは、すぐだった。
「やっとだぞ、ギニアス。やっとだ。母上の分を、やっとあれらに返せる」
言い切った。声は、奥まで通った。外の兵にも、届いた。奥は、何も返さない。腕が、脇から離れていた。指は、開いたままだ。
乳兄弟の方は、聞き終えるまで動かない。顔も、変わらない。終わってから、また口を開いた。
「これから何をなさっても、それが先に言われます」
しばらく、どちらも言わない。灯が、その足もとの床を照らしている。
間に、昨日の線がある。跨ぐものはいない。
「私も、殿下の御母上には可愛がっていただきました」
口が、閉じた。付け足しは、ない。足もとの線は、まだそのままだった。
フェリオルの顔が歪んだ。
その顔のまま、ギニアスを見ていた。声は、出ない。
近衛の長も、目を逸らさない。互いの位置は、変わらなかった。
灯の油が、一度鳴った。他には、何も鳴らない。衝立は、倒れたままである。
顔が、元へ戻った。戻るまでに、しばらくあった。歪みは、目のあたりに残っていた。灯は、その顔を横から照らしていた。
「この件は全て任す」
「はい」
それより先は、どちらも言わない。
衝立も、剣も、そのままだ。片づけに来るものは、まだいない。
広間を出た。後ろに、ギニアスが続いた。
*
午後になっていた。同じ広間である。
床の血は拭かれ、跡だけがある。衝立は起こされ、折れた剣は片づけられていた。椅子も、元の位置にある。器も、脇のものも、ない。
フェリオルは、奥の一段高い所に立った。
黒旗軍の上級の者たちが入ってきた。誰も口を開かない。入口に近い側へ、並んだ。立つ位置は、決められていた。
装いは、兵と変わらない。黒い切れの巻き方も、変わらない。誰も、腕を組まない。手は、それぞれの腰にある。
台が一つ、床の中央に据えられた。杯が置かれ、兵がそれぞれに注いだ。注ぎ終えると、兵は離れた。壺は、台の脇に置かれた。
杯は、王家のものである。紋が入っている。台の上には、他に何もない。敷くものも、ない。
乳兄弟が、奥へ顔を回す。
「これで、いたします」
奥が、一度頷いた。
ギニアスが、台の脇に立った。腕は、脇に下ろしたままだ。
一段高い所から、台までは遠い。台の縁と、上級の者たちの頭が見えた。杯の中までは、見えない。
奥の戸が、開いた。
初めに、ウラカが入ってきた。旧王妃である。兵が、両脇にいる。
装いは、昨日と変わりがない。髪も、結われていない。首の飾りだけが、外されている。指輪は、そのままだった。
兵の手を払った。自分で、台まで歩いた。兵は、後ろに留まった。
ウラカは、台の手前に立った。杯を見た。それから、奥を見た。
目を逸らさない。
「見ておけ、逆賊」
「王家の妃がどう飲むか、卑しい生まれに見せてやる。貴様は生涯、逆賊と呼ばれる」
応えるものはいない。奥も、台の脇も。
言い終えて、腕を伸ばした。
持ち上げ、一息に傾けた。それから、台へ戻す。戻す時、台が揺れた。
音は、奥まで響いていた。上級の者たちは、動かない。
それから、膝から落ちた。そのまま動かない。
兵が、脇へ運んだ。運ばれた先は、見えない。
次は、ヒメナだった。側妃である。
台の前まで来て、床に手をついた。手の下に、拭いた跡がある。顔は、床に近かった。袖が、床に触れていた。
「殿下。殿下、わたくしは何も。あの異国の女には、何も」
声は、初めは大きかった。肩が、上下していた。額が、床に付いていた。
答えるものはいない。ギニアスも、上級の者たちも、奥も。
答えを待つ間、床の手は動かなかった。灯が、その背にあたっていた。
ヒメナは、奥を見上げた。次に、周りを見た。誰の顔も動かない。
口が閉じた。ややあって、開いた。開くまでに、間があった。
「私が、何をした。私を、あれらと並べるのか」
「人でなしどもが。額をつかせて、聞きもせぬ」
途中で、二度詰まった。
ヒメナは杯を取った。零しながら飲んだ。
杯が、床に転がった。零れが、拭いた跡の上に広がった。そのまま伏した。袖が、零れに浸かっている。
兵が運んだ。
残りの側妃たちが、まとめて入れられた。入口のあたりに、固まった。互いの腕を、掴んでいた。入口から、動くものはいない。
台を見て、声が出た。入口へ戻ろうとする者を、兵が止めた。
声が重なった。ギニアスが、顎で示した。兵が、台のものを持って寄った。
奥の位置からは、兵の背で見えなくなった。背の向こうは、見えない。
声が、一つずつ止んだ。静かになった。止んだあとは、何も聞こえない。
兵が離れた。空のものは、台へ運ばれた。
フェリオルは動かなかった。
上級の者たちが、頭を下げた。誰も口を開かない。頭は、下げられたままだ。
兵は、台の周りから退いている。台の脇から、奥へ目が向いた。
台の上は、そこからも見える。中までは、見えない。ヒメナのものだけが、床にある。ウラカのいた場所には、何もない。他の場所にも。
台の脇に、壺がある。中は、見えない。蓋も、ない。
その脇に、昨日の跡がある。灯が、そこを照らしている。
灯は、朝と同じ皿である。油は、足されていない。上級の者たちの頭は、まだ上がらない。台の脇の頭も、下がっていた。
(……母上)
台から目を離した。上級の者たちの前を通り、扉へ向かった。
近衛の長が続いた。
広間を出た所で、フェリオルが足を止めた。通路の脇に、兵が控えている。誰も、声を出さない。頭は、下がったままだった。
「母上の墓へ、参りたい」
「供をします」
言葉は、二つきりである。
歩き出した。半歩後ろに、供が付いていた。足の運びは、揃っていない。
通路の先は暗い。昨日より、暗い。灯は、そこまで届いていない。
広間に、もう誰もいない。灯は、まだ絶えていない。油は、朝の半分ほどだ。
台の上に、杯が置かれたままである。一つは、床にある。台の周りに、兵はいない。壺も、そのままだ。台の脚の零れは、拭かれていない。
床には、昨日の跡がある。その脇に、今日の零れがある。零れは、まだ乾いていない。
扉は、開かれたままである。
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