第25話 同じ卓についた。片方だけが先を見ていた
日のあるうちの用を、外で済ませての戻りだった。
戸を引いた先に、灯の色が据わっている。
夫が、先に居た。就いた姿の、線が細い。少年の域を、まだ出ない細さだった。
こちらの入りへ、目だけが動いた。動いた目は、じきにもとへ戻る。
空いた側へ、身を入れて就く。
夕餉は、下がって間があった。器の触れる音は、もう立たない。
卓の上に、載るものは少ない。灯と、水差しがあるきりだった。
座の間に、置かれるものは何も無い。水差しの中身だけが、すこし目減りしていた。
窓の外では、暮れの色が細っていた。細る早さは、昨日のそれと違わない。
暮れきるまでには、まだすこしある。残りの色は、外の側に薄かった。
刻限も、昨日と変わらずに来た。話があるとは、聞かされずに来た。
ただ、同じ刻限に、同じ卓へ着いた。それきりの夕べのはずだった。
向かいの構えは、常のとおりに見えた。改まりの色は、どこにも無い。
用のない刻に、用のない顔で着く。それが、この刻限の慣いだった。
手もとに、開くものは無い。書きつけも、今日は載らなかった。
話し出したのは、向かいが先である。先であることも、常と違わない。
「昨日の礼には、まだ続きがある」
声は低く、高さは常を出ない。
「あの日の運びを、ここで話しておく」
「あの議の順は、私が決めておいた」
「私の決めた分は、順のほうだけだ」
前置きは、それより増えない。言い置きの類も、あとへは続かない。
「どの話を、どの順で、どの口から出させるか」
「出す順が違えば、通り方も変わる」
「順を決める役は、上に一つきりだ」
述べる声は、区切りごとに短い。問われて出るのとは、違っていた。
礼の続きとして、経緯が足されていく。打ち明ける構えは、どこにも無かった。
「先に、古い言い分をすべて出させた」
「言い分は、先に出し切らせるに限る」
「出切ったところへ、そなたの案を載せた」
あの日の運びが、順を追ってなぞられていった。聞いた順と、違いは無い。
順の決め手は、見える所に無かった。ただ通ったことだけが、見えていた。
切りどころを決めた者が、卓の向かいにいる。それが、いま分かった。
「後ろへ置いたのは、皆に量らせるためだ」
「先の言い分を、そなたの案が塞いだ」
「塞がったあとには、筋だけが立つ」
掌が、面の上で浅く返る。返ったあとは、もとの伏せに戻った。
決めた、と言うわりに、声へ載るものは軽い。手順をひとつ言い足すのと、変わらない重さだった。
「筋の通ったものは、筋のままに採れる」
「筋で採れば、誰にも借りができない」
借り、という語が、はじめて出ていた。
「どこかの側へ寄って決めれば、借りだけが立つ」
「借りは、重なれば、やがて主を飲む」
「飲まれた先で、筋は立てられない」
借りの話に、教えの響きは無い。手順の話と、低さを違えずに続いた。
言い分、案、筋、借り。置かれる語は、どれも短い。短いままで、届く所まで行った。
語の運びに、力の入る所は無かった。覚えて言うのとは違う。手の内に長くある言いようだった。
「私は、いずれへも寄らずに済ませた」
「寄らずに済んだのは、あの案が立ったからだ」
そこで、続きが絶えていた。あとは、足されずにいる。
間が、すこし空いた。空いた分は、どちらも埋めずにいた。
待つ形は、向かいには無い。話し終えた顔は、崩れずにいた。
問えば、先があるのかも知れなかった。会話は、そこから説明になる。
「順のお話、伺いました」
返しは、それひとつで閉じた。器の水を、ひと口ふくんだ。水は、まだぬるんでいない。
器を戻す。戻す手もとは、鳴らずに済んだ。
向かいは、それで足りたらしく、浅く頷いた。
少年の線の内に、年の外の翳りが据わっている。翳りは、昨日のところから移らずにいた。
間をおいて、声がまた起きた。
「そなたに命じた件は、これで果たされた」
「両省の火種は、これで断てる」
「くすぶっていた分も、じきに立ち消えになる」
「二つの省は、もう突き合わずに済む」
言い切りの間に、短い区切りが入った。挟まる間は、長さを違えない。
断てる、という言い切りに、疑いの置き所は無い。命じた日の言いようが、終いの言いようへ、まっすぐ渡っていた。
「あの件は、これで仕舞いになる」
「命じてあった分は、今日で終いだ」
仕舞い、という語のあとへ、終い、が重ねられた。重ねた声に、上がりも下がりも無い。
「今日は、それを言うためだけに着いた」
「これで、足りる」
足りる、で声は止んだ。止んだあとの間は、長い。長さを測る者は、どちらにもいない。
止んだ先へ、足されるものは来ない。来ないほうの間が、長く続いていた。
灯の先が、一度だけ細く揺れて、戻った。
向かいの手が、水差しへ延びる。器へ落ちる水の音が、短く立った。
注ぎ終えた手は、もとの位置へ帰る。帰ったきり、卓の上で動かない。
暮れの色は、窓の内から引き終えている。
「はい」
短い返しだった。長さは、それで足りている。
「ならば、先に休むといい」
腰が上がり、戸口のほうへ歩みが向いた。上がった腰に、急ぎの色は無い。見送りは、目を向けるだけに済ませた。
戸が閉じる。部屋の内に、ひとりの分の間だけが据わった。
手もとの器に、水の名残がある。器の水面は、揺れずにいた。揺れない面が、暮れの残りを薄く返していた。
言われた分を、順のままに置き直していく。置き直しに、手間は掛からない。数はすくなく、順も短い。
順を決めた、と向かいは言った。決めたのは順で、筋そのものとは違う。筋は、動かさずに使われていた。
筋で採れば、借りができない。借りが無ければ、飲まれずに済む。
言いようは、手の内から来ていた。手の内が見えたのは、今日が初めてである。開いて見せたのも、向かいの側だった。
借りを避ける立ち方は、教わって出来るものと違う。長い時をかけた入りようをしている。
入りようの長さは、向かいの年に収まらない。収まらない分が、翳りの側に載っている。
見えた分は、見えたままに置く。足すものも、引くものも無い。
仕舞い、と向かいは言った。命じられた分は、閉じて欠けが無い。
閉じた線の内では、言われたことのどれにも、違いは無かった。違いの出る隙は、初めから無い。
声の内にも、欠けは無い。命じた分だけを見るなら、どこにも無い。
命じられて、組んで、通した。増えたのは、手もとの事実が一つである。
器の縁に、指の先を添えて、ひとめぐりさせた。めぐり終えた手は、面の上へ戻って止まる。指の腹には、水の跡が薄く付いている。
枠の先は、問われずじまいでいる。
この人は、この三千が入り口だとは見ていない。
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