第20話 敵意はないのに、構えを解けなかった
控えを広げて、下りてきた分と並べた。
下りたのは、今朝がたのこと。受けてから、まだ朝のうちを出ていない。
あれから幾日かが空いた。そのあいだに、朝の冷えの質が変わっている。
起き抜けの空気が、それを指の先へ運んでいた。けさは、それがいちだんと早かった。
季節の変わりを、こうして書面より先に肌が受け取る朝は、これで幾たびめになるのか。肌の受けたものを、あとから頭が追いかける恰好が、このごろは続いていた。
届けたのは、ドロテアである。胸の前で薄い一冊を抱え、頁の向きまで揃えてあった。所作の途中に、余りが出ない。
「こたびのぶんにございます」
「そこへ」
置くなり、半歩を引く。留まる素振りは見せなかった。
取り分は、先に組んで上げてある。下りた分がそれとどう重なるかを、端から突き合わせていった。見比べる先は、手元の控え。
賄いは前のまま。燭は、こちらの出した嵩のとおりに収めてあった。動かした先の帳尻も、崩れていない。この前の入れ替えで動かした二筋も、そのまま通っていた。
組んだとおりに下りたものを、頭から順に読み進めていく。引っ掛かりは、なかなか出てこない。頁を送る手だけが動いている。
通ったものを確かめる目は、通らなかったものを探す目より遅くなる。急がずに、行儀よく追った。目当ては置かずに、端から順に、とだけ決めていた。
洗い物のくだりへ来て、指が留まった。
外へ出す日が、これからの寒い季節のあいだだけ、低く抑えて組んであった。
落ち幅は、こちらの見込みを越えていた。日が減れば、干し上がりを待つ間も延びる。乾きの鈍る季節が、そこへ乗る。
出す日が動けば、戻る日もつれて動く。着るものの回りが、まるごと後ろへずれる勘定だった。狂いというより、季節の重みの側である。
「東の洗い物は、分けてあるの」
「分けてございません」
「端まで、ひとつづきなのね」
「はい。東はひとつでございます」
答えだけ置き、ドロテアは退がった。呼び止めるだけの用も、湧いてはこない。置き方に、揃えた癖が出ていた。
残ったのは、薄い一冊である。端がどこまで届くかは、後ろの頁にあった。
繰ると、あの一画が出た。行は、前と変わらずじまい。職の載りようも、前のとおりである。
欄に立つのはこちらの割りの外の一筆きりで、人の入りは、こたびも空けたなりだった。
下りるものは、ここで尽きていた。この先へは、どの頁も渡らない。渡さない造りは、端まで揺らがずにいた。
折が変わることも、この綴じの背より先へは出ない。届けるなら、口で運ぶほかにない。
運ぶ中身を、頭のなかで並べた。出す日の減り。戻りの日のずれ。はじまりの折。三つで足りる。並べ直す要はない。
余らせたものはないか、逆さからもう一遍たどった。拾い残しは、見つからない。並べた順は、口の中でも崩れない。
それで、用は出そろった。こちらの手に、預かりの残りはなかった。出そろわせてから立つのは、癖の側だった。
クリスを連れて、東の間をあとにした。クリスは半歩あとを保って、声を出さない。
廊を折れるごとに、袖口へ入る空気が硬くなった。昼前の館は、下のほうがよく働いている。その気ぜわしさは、こちらまで上がっては来ない。
荷を運ぶ手が行き交うのも、届くのは物の触れ合う遠鳴りばかりで、こちらの用と交わらずにいた。遠鳴りは、廊の曲がりごとに薄れた。
上へ向かう足は、こちらのふた組きりである。先を言わずとも、クリスの歩は乱れない。
東のはずれへ来て、床の高さが変わった。切ってあるのは、一段ぶんの上がりだけ。書面のどの頁も、この線を持たない。
段はある。
上がった。空気がひとつ入れ替わる。
袖の中が、まっさきにそれを知った。考えの立つより早く、肌のほうが分けてしまう。
クリスも付いて越えた。動かず、口も開かない。目の置きどころだけ、心得た動かなさだった。
一画の入口は、こちらが着くより先に開いていた。待たせた気にさせない、開き方だった。
立っていたのは、若い姿である。立ち方に、崩しがない。
侍女らと並ぶ年恰好に、動くための仕立てを着けていた。帯回りが軽く、裾に飾りを置かない。仕立てのどこにも、重たさがない。髪は、短く括られているだけ。
歩みの残りのまま頭が下がり、上がったときには、すでに止まり切っていた。間の取り方まで、軽い。
口もとが、目より先に笑う。
「エミリア・レーベンと申します」
名のりに、続きは付かなかった。
「風の抜ける口からで、ご無礼を」
「お寒いなかを、ようこそ」
「あなたに、伝えることがあって来たの」
「うかがいます」
「洗い物の折が、こたびから変わるの」
「外へ出す日が、減るほうですね」
「これからのあいだは、そうよ」
「戻りも、つれて動きますか」
「下がりに合わせておいて」
「はい」
「はじまりは、次の出しからですか」
「次からよ」
「承りました」
「一画の出しも、同じ折なの」
「はい、同じ折で承ります」
「戻りの検めは、これまでどおりで」
「ええ、そのままに」
「留め置きは、こちらでいたします」
「延びるぶんは、こちらで繰り合わせます」
「そちらで足りるのね」
受け答えは、こちらの間合いより半歩早い。それでいて、先回りの匂いを残さずにいる。間合いの速さが、こちらを急かさない。
訊いたぶんだけ、すぐに返ってくる。惜しむ間を置かない。
問いの向きを確かめ直すこともない。渡した順のまま、向こうの手の内で片が付いていく。往きにも戻りにも、無駄を挟まない。
「これまで、どなたが知らせていたの」
「どなたも」
「下がりの日が変わるのが、しるしで」
「それで足りておりました」
答えは、それでひと揃いだった。欠けを、こちらから足す要もない。探しても、切れたところが出てこない。
問いは、そこで仕舞いにした。
「手間を取らせたわね、レーベン殿」
「いいえ」
「お運びのほうが、早うございます」
頭は、下がりながらもう戻っていく。
*
東の間は、出たときの温みを失っていない。
控えは、開いた向きのまま待っている。頁のあいだに、朝の続きが挟まっていた。
クリスが、羽織ったものを受けて畳む。
「感じのよい方でしたね、アリシアさま」
「ええ」
畳み終わりの手が、いつもより軽かった。軽さの訳は、たずねずにいる。
温みは、肩口まで戻ってきている。
肩は、そのなかでも下りきらなかった。
下ろすあては、つくらずにおいた。
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