第16話 救うためでなく、使うために兵にした
針の穴へ糸を通すのに二度しくじったのは、糸の先が古びてほぐれていたからだった。
三度目で通った。撚り直した端を舐め、細くしてから押し込む。東の間の卓には、布が端まで積んである。上のほうは薄手で、底に近いものほど厚かった。
朝のうちに運ばれてきた分である。ほつれは、探せばいくらでも出てきた。袖口。裾の折り返し。留め具の当たるところ。目についたものをまとめて置いていたら、片手では持てない嵩に増えていた。
傷み方は一枚ごとに違っていた。同じ綻びは二つとない。糸の切れているものもあれば、布のほうが薄くなって透けているものもまじっていた。
一日で片づくとは考えていない。ただ、一枚に手をつけたら、その一枚は終いまでやる。半端にしておくことができなかった。美点ではなく、そういう性分である。
館の内で、これは手間でしかない。誰の得にもならず、誰も褒めない。仕上がりを見る者はいない。それでも縫い目の揃わないものを畳んで戻すことは、どうしてもできなかった。
糸を選ぶのに少し迷った。手元の巻きは三色あって、どれも布の色とは合っていない。近いほうを取り、裏から通すことに決める。表に出なければよい。
戸が開いた。クリスが布を抱えて立っていた。
「こちらもよろしいですか」
「置いて」
「上の段から出てきました。まだ増えます」
積み足された分だけ、山は前より高い。針は先へ進んでいた。
「この時期は、こうなります」
「人を増やさないの」
「増やしません。要るときだけ入れます」
「入れる」
「呼ぶんです。村から、その折だけ」
「何人」
「その折によります。五人のこともあります」
言いながら、クリスは崩れかけた山の角を押さえて揃え直していた。
「終わったら」
「帰ります。三日か四日です」
糸が短くなった。引き抜いて、新しいのを結ぶ。結び目を布の裏側へ隠してから、また刺しはじめた。
「同じ人が来るの」
「決まっていません。手の空いた者が来ます」
「名前は」
「控えません。何人来たかだけ書いておくんです」
書いておく、とクリスは言った。書き残す、ではない。控えのほうは、季節が変われば捨てられるのだろう。
「それで足りるの」
「足ります。要るときに、要るだけですから」
「置いておかないの」
「置いておくと、要らない間も養う分がかかります」
「今もそう」
「今もそうです。だから、この山なんですけど」
布の山を手のひらで示すと、クリスは口の端を上げた。クリスの腕には、一枚だけ残っていた。
「客の入る折も、こうします」
「困ることはないの」
「ありません。慣れた者が来ますから」
「慣れているの」
「何度も出てくる者がいます。顔は覚えました」
「控えには」
「残りません。呼んで、終われば、それきりです」
館の内は、それで回っていた。常に置く者がいて、その折だけ呼ばれる者がいた。後のほうは控えに残らない。残らないので、館の人手としては勘定に入らなかった。仕事は済んでいるのに、済ませた者の側だけが、書き留められずに終わる。
指が布の縁をたどる。折り込んだ端を上から押さえて、細かく刺していく。ふいに、路地の入口へ寄って立っていた者の背が、目の裏で重なった。名は知らない。訊かなかったので、知りようがなかった。
針は先へ抜けていた。
*
昼を挟んで、光は入口の側へ寄った。布の白さが少し変わっていた。
山は朝より低い。減り方は、見てすぐには分からなかった。減っているのは下のほうで、上には新しく積まれた分が乗っているからである。
薄手をひととおり終えて、厚手のほうへ移った。織りの目が粗く、糸の通りが重い。指の腹に、当たりの硬い縫い代が触れる。運針の幅を狭めて、一針ずつ押し出していた。針の頭を指ぬきで押すたび、布が小さく鳴った。
留め具の一つが取れかけていた。糸を通し直し、四隅から留めていく。強く引きすぎると布のほうが寄るので、力を抜いて何度も往復させた。東の間には、他に人がいない。外の物音も、この高さまでは上がらない。
どの数にも入っていない者たちがいた。入らないから、増えても減っても、どこにも現れない。誰の持ち物でもなく、誰の受け持ちでもない者たちが、そこに寄って立っていた。あのとき見えたのは、そこまでだった。
一方で、二つの帳面はもう回っていた。どちらにも決まった取り分があり、決まった人手が乗っている。片方から引けば、片方の筋が通らなくなる。そこへは手を入れられない。
要るときだけ入れて、済めば来ない。その入れ方だけは、二つの帳面のどちらにもない。載っていないものからは、引きようがない。
針が布の裏へ抜けた。抜けたところを指で押さえ、次を刺す。糸が突っ張ったので、少し戻して長さを取り直す。
人手が要るのは、家政に限らなかった。常に置けば、糧も、住まいも、給金も要る。要るときだけなら、要る間だけで済んだ。兵役として出させて、終われば帰す。帰った先で何をしていようと、帳面には残らない。
来ている間だけ館の者になり、帰れば元へ戻る。誰も無理をしていない。
兵が要るから、兵にする。
縫い目が一つ曲がった。ほどいて、やり直す。曲がったのは糸の引き方のせいである。
やり直した分は、前より目が細かかった。細かくすれば丈夫になるが、その分だけ遅くなる。遅くなっても、揃わないものを残すよりはよかった。指ぬきの当たる場所が痛みはじめたので、少しずらして持ち替える。
厚手は一枚に手間がかかった。縫い代を割り、両側から押さえて、それから通す。裏で留めて、糸を短く切った。切り口が硬く、指先に残っている。最後に布を裏返し、縫い目の並びを端から目でたどった。曲がりはもうない。
日が回り、影が長く伸びた。布の色が沈み、白いはずのものが灰色に見える。それでも針目は追えたから、手元だけは変わらずに動いていた。
戸が開いた。今度は腕に何も抱えていない。
「明日の分、先に出しましょうか」
「出しておいて」
「厚いほうからでよろしいですか」
「そう」
「今日はどこまでなさいますか」
「厚いのが終わるまで」
「では、灯りを早めにお持ちします」
「いい」
クリスは戸の側へ寄り、抱え直した布を置き場の上へ戻した。それから山の高さをもう一度目で測り、明日の分を頭に入れた顔で出ていった。用は家の内のことだけで、済めば長居もせずに離れていく。
糸巻きが軽くなって、卓の上を少し転がり、端で止まった。窓の側から風が入るたび、山のいちばん上の一枚が角を持ち上げて、また下りる。
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