第14話 同じ形を三度見た。路地は数の外にある
日の出のすぐあと、車寄せに近衛が立った。
外套の色が館の者とは違う。裾の重さも、留め金の位置も違っていた。
馬の口を取っているのは衛兵だった。荷の縄を掛け直し、掛け直した端を揃えている。馬の息が白い。近衛は鞍から降りず、車寄せの左右へ分かれ、そこで馬を止めた。
どちらがどちらへ指図を出しているのかは、見ていればすぐに知れた。
見送りの者の並びはいつもどおりだった。館のほうは何も変わらない。外はまだ明るくなりきっていない。
夫は先に出ている。戻る時分は伝えられていない。
収めよ、とだけ言われていた。何をどこまでとは言われていない。いつまでとも、どのように返せとも言われていない。前の日に一度訊いた。答えはない。分からぬものは脇へ寄せた。
寄せたままにしておく気はなかった。
範囲が渡されていないなら、こちらで決めるほかない。決めるには、まず見ることだ。
東の間の卓に、書きつけが一枚置かれていた。午後の一件だけが、ずっと前から入っている。商人衆が集まる、という一行きり。誰が集めるのかは、そこにない。
書いたのは館の手だった。夫の字ではない。墨はとうに乾ききっていた。
「午前は、どちらへ」
クリスが外套を広げながら訊いた。
「王宮」
「お約束は」
「ない」
「……ないのですか」
「訪ねるだけ。会えなければ戻る」
クリスは返事をしなかった。襟を直し、手甲の紐をひとつ詰める。訊き返さないのが、この侍女の呼吸である。
*
車が動き出すと、外の並びがすぐに変わった。
門から大路へ出るころには、供の配りが定まっている。近衛が幾人か、車の左右と後ろに付く。衛兵はそのさらに外を歩き、人を退けながら進む。荷は衛兵が担いでいる。
近衛は誰も荷に触れない。触れないのが当たり前という手の下ろし方だった。
「道を空けよ」
前を行く衛兵の声が、車の内まで届いた。
声を出すのも衛兵の役目らしい。近衛は黙っている。黙っていて済むように配りが組まれている。
大路は広い。荷車が二つ並んで擦れ違っても、まだ人の通る幅が残る。石畳の目が細かく、車輪の音が高く鳴っていた。
半ばまで来たところで、大路から一筋入った路地の前を過ぎた。
人が寄って、何かを分けている。衣の色が大路の側と違う。それだけが目に入り、すぐに次の並びへ移った。
クリスの膝の上で、手が動かない。馬車はそのまま進んだ。
王宮の外門で、列が止まった。
衛兵が荷を下ろす。門の内から出てきた近衛が、それを受け取って肩へ移した。
荷は見た目より重いらしく、受け取った近衛の肩が一度だけ沈んだ。担いできた衛兵の指には、縄の跡が残っていた。
受け渡しのあいだ、衛兵は敷居を越えない。越えないのではなく、越えられないのだと知れる足の置き方だった。渡すほうも受け取るほうも、手順を覚えている。どちらも言葉を使わない。
「ここまでにございます」
荷を渡した衛兵が言った。頭を下げたまま、顔は上げない。
「ご苦労」
車は止まらずに門を抜けた。近衛は馬の脚を緩めない。
内の道には、立ち番の近衛がいた。
革はよく手入れされていた。腰のものの下げ方に癖がない。踵の向きも、一列に見えるほどだ。門の外で荷を担いだ者たちと、同じ字で呼ばれるのだとは、すぐに結びつかない。
仕事の重さで分かれているのではない。
分けているのは家柄である。
*
内務省は、王宮の東の並びにあった。
取り次ぎを頼むと、待たされずに通された。後ろに従うのは近衛だった。廊の途中で、先を歩く役人の足が一度止まる。扉を選び直したのだと分かった。
シュタール子爵とは一度会っている。顔を覚えていた。
窓が小さく、昼でも灯りの要る部屋だった。
「本日はお運びをいただきまして、恐れ入ります」
子爵は椅子を勧め、勧めたあとで自分も座った。実務の人の座り方だった。
「王都の商いのことを、少し」
「北の三家の分でしたら、書面が回っているはずです」
「回ってきた書面のことで来たのではないの」
子爵は、湯を運ばせるように手を上げた。考える間を、そこで作ったのだ。
「どこまでを、お聞きになりたいのでしょうか」
「どこまでを、お話しになれるの」
「私の申し上げられることでしたら」
言葉が選ばれている。選んでいるのが分かるように選んでいる。隠している者の手ではない。隠せと命じられた者の手だった。
「組合のことは」
「古くからの商人衆が、王家の納めを分けております。私どもが決めていることではありません」
「では、どなたが」
「順に、としか申せません」
「順に、というのは、どなたの順に」
「そこまでは、私の口では」
机の端に、紐で括った紙の束が寄せてある。こちらへは向けられていない。
順に、という言葉の前に何があるのかは、言われなかった。
訊けば答えは返る。返るが、返ってくる先はいつも同じところである。この人は嘘を吐いていない。吐かずに済む位置に座っているだけだ。
湯が下げられ、話は仕舞いになった。渡された用件について、この部屋で得たものはひとつもない。
帰りは、来たときと違う階段を降ろされた。
階段の踏み板は、真ん中だけが擦り減っていた。
下の階は扉が開け放してある。机が詰めて並び、書き取りをする者、紐を掛け替える者、荷札を仕分ける者がいた。
紙の擦れる音が絶えない。誰も顔を上げなかった。誰が上を通ったのかは、この階には伝わっていないらしい。
年嵩の者が多い。上の階には、若くて姿勢のいい者しかいなかった。上へ運ばれる紙は、ここで作られている。
隔てているものが何かは、訊かなくても分かる。上と下を分けているのは仕事の中身ではない。
これも家柄である。
*
午後の場所は、大路から一つ入った通りの古い建物だった。
案内の者が扉を開けたとき、中にはもう人がいた。思っていたより多い。席に着かず、立って待っている。部屋はよく暖められていた。
立つ位置に狂いがない。前に出ている者ほど、衣の織りが細かい。
呼ばれて集まったのではない。集められていた。朝に見た一行に、誰が集めるとは記されていない。
「ご壮健のご様子、なによりに存じます」
先に口を開いたのは、いちばん前にいた白髪の男だった。名乗りはない。ここで名乗らずに済むほうの側にいる、という立ち方だった。
男の後ろで、幾人かが揃った角度で頭を下げた。
「妃殿下のおいでと伺いまして、朝のうちに声を掛け合いました」
「わたくしのために」
「北の三家との商いは、我々にとりましても大事なものでございます」
話は滑らかに進んだ。滑らかすぎた。
どの商会が何を納めるかは、この部屋へ来る前に済んだ話だ。済んだものを、彼女の前でもう一度並べ直して見せているにすぎない。
「組合に入っておられない方は」
部屋の音がひとつ落ちた。誰かが足を組み替えた。
「入れぬ者は、力が足りぬということでしょう」
「入りたいという者は」
「毎年おります」
「毎年、どうなさるの」
「順を待っていただいております」
順、という言葉を今日二度聞いた。誰も新しい話をしない。
名の載る者たちがここにいて、載らない者はここへ来られない。来られない者がどれほどいるのかを、この部屋の誰も言わない。言う必要がないからだ。
*
帰りは、往きと違う道を通った。
城下を抜けると、道が上がりはじめる。石を敷いた面が途切れ、轍の跡だけが続いた。車輪の音が低くなり、揺れが背に来た。馬の脚も緩んだ。
上がりきったところで振り返ると、王都は屋根の色の集まりに見えた。大路がどこを走っているのかも、もう分からない。街はひとつづきの面になり、下へ沈んだ。
風が変わり、外套の裾が鳴った。日が傾いて、遠くの水が一度だけ光った。
三つとも、同じ形だった。中心に置かれた者がいて、周りに置かれた者がいて、両者は一つの字で呼ばれながら、決して入れ替わらない。入れ替わらないのは力が足りないからではない。生まれる前に決まっていて、一代のうちには動かないからだ。収めよと言われたものは、その形の内側にあった。内側にいる者どうしが、内側だけで奪い合っている。
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