第12話 宮廷に使われ、兄の口は要らなかった
咎めも、礼も、館へは来なかった。
門前のことを口にする者が、館にはひとりもいない。外から来る者もない。使いも来ない。あの日から幾日か過ぎて、日課は日課のまま回っていた。膳の刻限も、水の運びも、動いていない。門の内へ人が入り、品が入り、出ていく。荷も刻限も、前の月と変わらなかった。
朝、庭の草の上が白かった。今年になって初めての霜である。日が回ると溶けて、根方の土だけが黒く濡れていた。
厨の火はとうに熾っていた。膳が下がり、桶が北の端へ運ばれていく。戸が開いて、水を使う気配が始まった。井戸の縄が軋む。汲み上げるまでの間が、夏よりも長い。
炉の脇には、炭がもう積んであった。クリスが来て、その前にしゃがんだ。手の甲が赤い。指を袖の内でこすった。
「こちらの炉から先に入れます。日が入りますから、昼を過ぎれば要りません」
「そうして」
「灰は、昨日のうちに掻き出しておきました」
炉の口には灰がまだ薄く残っていて、掻いた跡が筋になっていた。
「厨で、湯を一つ余分に立てております。お手をお温めになるなら、いつでも」
「そうする」
「わたくしは、冬のほうが好きです。手はかじかみますけれど、匂いがまっすぐで」
「まっすぐ」
「夏は、いろいろな匂いが混ざりますでしょう。冬は、火の匂いばかりになりますから」
言いながら、炭の粉のついた掌を裾で払っていた。払っても跡は残った。裾の色が薄いので、そこだけ灰の色に見える。
クリスは火口を探しに出ていった。
門のことは、ひとことも出なかった。その日ばかりではない。どの朝も、話に出ることはなかった。
ドロテアが来たのは、日の高くなる前だった。
戸口から二歩入ったところで止まる。それより奥へは来ない。手には何も提げていない。告げる順は、館へ入る者、入れる品、直しの要るもの、と決まっていた。
炭が三荷。薪。樋の掛け替えに人が来る。声に抑揚はない。同じ高さで、同じ間で続いた。言い落としも、言い足しもない。来る者の名は出ない。品と、刻限と、人数だけが並んでいく。
「樋の者は、いつ」
「昼までには、二人参ります」
「門は」
「妃殿下のお客さまとして、お通ししております」
「薪を納めます者も、同じにいたしております。石を運びます者も、同じに」
言い方に力は入っていない。掛け金の下りている位置を告げるのと、同じ調子である。
ドロテアは次の件へ移った。
冬物を出す日。灯芯の替え。庭の枝を落とす日取り。北の端の戸の建てつけが落ちていること。訊かれたところだけ答えて、その外へは出ない。答えの長さも、どれも同じくらいだった。
「灯芯は、どれだけ替えるの」
「北の側の分から替えます。手前は年が明けてからで足ります」
「炭は、去年と同じだけ」
「同じ数にございます。冬の分は、月が変わりましてから改めて申します」
「戸は、樋の者に見てもらえるかしら」
「伺ってみます」
告げ終えると、辞儀をして戸口へ退いた。
卓の端に手を置いたまま、しばらくそのままでいた。
門で言ったのは、一度きりである。招いた、と言った。客だと言ったのは、こちらではない。
その一度が、館の内に残っていた。誰も確かめに来ない。誰も断りに来ない。言い替えられたまま、日々の手順に混ざっていた。
誰が決めたのでもない。覆す者もいない。形だけが、そこにあった。
ここは墓の内側である。
その内側から出したものが、外で動いていた。奪われてもいない。返されてもいない。ただ使われている。
不思議だと思った。
自分の手を離れたものが、離れたまま働いている。手放した覚えはない。取り上げられた覚えもない。
立って、庭へ出た。
木々の葉は縁から色が抜けて、下のほうから落ちていた。踏むと乾いた音がする。日は薄く、影の輪郭がはっきりしない。石の階の下に、落葉が寄せて積んであった。今朝の霜は、跡も見えなくなっている。
門扉が一度開いて、しばらくして、また閉まった。こちらへは誰も来ない。呼びに来る者もない。
庭の向こうで、樋を外す音が始まった。屋根の上を、二人分の足が行き来していた。北の端の戸のあたりで声が上がり、じきに止んだ。
庭の隅の枝に、落とす印が結んであった。朝のうちに誰かが回ったのである。印の高さは、どれも揃っている。
不思議だと思ったものは、思ったまま、脇へ置いた。
取り出さなかった。
夫が戻ったのは、膳の支度が済むころだった。
戸を開けると、上着を抱えたまま炉の前まで来た。手をかざして、しばらく動かない。指の先から順に赤みが戻っていく。
「炉を入れたか」
「今朝、霜が下りましたので」
「そうか」
抱えていた上着を、火の前の椅子へ置いた。それから腰を下ろす。
「井戸の水が変わった」
「はい。朝は手が痛いほどです」
「北はこれからだ。年が明けるまでは、まだ緩い」
薪の割れる音が一つ。火の粉が上がって、途中で消えた。
「門のことを、誰も言ってこない」
「はい」
「そなたが出たと聞いた」
「わたくしは、何もしておりません」
夫は火を見たままでいた。それきり訊かない。膳が来るまで、炉の音のほかは何もなかった。
膳が運ばれてくると、夫は先に汁の椀を取った。食べる早さに、急いだところがない。皿の縁に手を掛けて、寄せてから戻す癖も、変わっていない。爪の際に、外の土が薄くついている。
「今年の炭は、火持ちがよいと聞いた」
「厨の者も、そう申しました」
「そうか」
「樋の掛け替えは、今日だったか」
「昼に二人参りました。北の端の戸も、あわせて見てもらいました」
「わかった」
わかった、と言ったきりで、その件へは戻らない。
器が下げられると、夫は椅子の背へもたれた。
「冬の薪は足りるか」
「足ります。去年より一荷少なくしました」
「そうか」
なぜ減らしたのか、夫は問わなかった。足りるかと訊いて、足りると答えた。それで終わっている。
湯が来た。夫は椀を両手で持ったまま、しばらく置かない。
「明日は遅くなる」
「火は残しておきます」
夫は頷いて、立った。戸口へ向かうとき、火のほうへ一度だけ目をやった。
*
アルベルトは戸を閉めて、手燭を持ち直した。廊は暗い。火の先だけが、床の板目を照らしていた。
「……存外、聡いのかもしれんな」
誰に言うでもなく、そう言った。それから、歩きだした。
*
足音が遠くなって、聞こえなくなる。
炉の口が赤い。薪が一つ崩れて、火が低くなった。灰の上で、燃え残りが形を保っている。炉のそばの床は、そこだけ暖かい。手を離すと、じきに冷えた。
訊かれたことに、そのとおり答えた。理由も、断りも足さなかった。足さないままで済んでいる。
夫は理由を求めなかった。求めないまま、こちらの言ったとおりにした。
門のことは、それより先へ行かなかった。
膳の器はもう下がり、館の内は寝支度に移っている。戸が一つずつ閉まっていく。北の端の水の気配も、もう絶えている。
手をかざすと、まだ熱い。
この夫の前では、潰されなかった。
その一つきりを、持っている。
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