#8
『幸せの青いクジラ』とやり取りを始めてから、七日目。デオは指示をこなして来ると言って一時間ほど前に出かけてしまったし、グレイもポリスに経過報告をしてくると言ってつい先ほど事務所を出て行ってしまった。ジムは……、彼女がここにいないことはそれほど珍しいことでもないので、大方どこか散歩にでも行っているのだろう。一人きりで簡単な掃除をしていたリオードは奇妙な静けさの中にそっと息を吐き出した。
かち、かち、という音につられて時計を見れば、もう昼時であった。普段のにぎやかさに慣れてしまったせいか、こんなに静かな部屋で一人昼食をとるのはなんだか寂しいように思われる。せっかくの穏やかなランチタイムなんだから、たまには気ままに外食でも……と考えると、リオードは最低限必要なものをポケットにつめ込んで扉を開いたのだった。
この街に移り住んでからそれなりになるが、街の様相は変化が絶えず、リオードにはどこも同じくらい馴染みのない店だった。街の治安の悪さに気後れしたり、最低な態度の客のたまり場になってしまったり、店で事件を起こされたり、あるいは店主が事件に巻き込まれて帰って来れなかったり。辞めざるを得ない理由がいくらでも思い浮かぶことを考えれば、この街で商売を続けていくのはそう簡単なことではないのだろう。
さてどの店に入ろうかと通りを歩いていると、ふと肩にとん、と誰かが手をかけてきた。振り返れば、一人の少年が申し訳なさそうな表情でこちらを見つめていた。声をかけてきたわりには挙動不審に見えるというか、彼は随分な人見知りらしく、なかなかリオードと目をあわせようとしなかった。身長も顔立ちも自分より少し幼そうだと思ったリオードは、警戒心をとくように膝に手を置いて少しだけ姿勢を低くした。
「こんにちは」
「こっ、こんにちは……?」
「うん、挨拶出来て偉いね。僕はリオード。君の名前は?」
「えっと……ジョン、です。あ、あの……道、分かんなくなっちゃって……」
「そっか、迷っちゃったんだね。ちなみに、今日は誰かと一緒に来たの?」
「ううん。一人で歩いてたら、いつの間にかいつもと違う道に来ちゃってて……もしかしたら遠くまで来ちゃったのかなって……」
ジョンがそう話している最中、ポケットに入れていたセルフォンが震えた。リオードは「ごめんね。ちょっとだけ待ってね」と声を欠けて、素早くアプリを開いた。これまでのメッセージが連なるスクリーンの最下部には、『迷子を助ける』と表示されていた。リオードは何でもない様子でセルフォンを再びポケットにしまい込むと、ジョンの方に目を戻した。
「ジョンくん、ご家族の連絡先はわかるかな?」
「わかるけど……でも……」
「うーん。じゃあポリスの人に――」
「それはっ、ダメで……!」
「どうして?」
リオードがそう問いかけると、ジョンは口をつぐんでしまった。家族の連絡先はわかるが、連絡を取りたくない。ポリスの世話にもなりたくない。家出をしていたら迷子になってしまったのだろうか、なんて説が頭に浮かぶ。まあ何にせよ、この子をこの場に置いていくのはおそらく悪手なのだろう。
「じゃあ、僕が送ってあげようか?」
「……いいの?」
「もちろん。……あ! この辺の道が全部分かっているわけじゃないから、時間がかかっちゃうかもしれないけど……それでも大丈夫かな?」
「お、お願いします……!」
ジョンはリオードの言葉にほっと胸を撫でおろした後、ぺこぺこと頭を下げた。
「じゃあ、行こうか。あっちとこっちだったら、どっちの方角だと思う?」
「った、たぶん、あっち……」
リオードの質問に、ジョンは伸び切っていない指でおずおずと方向を示した。それを確認したリオードはできるだけにこやかに頷いて、ジョンと共に歩き出したのだった。
ジョンは、あまり自分のことを話すようなタイプではなかった。リオードが覚えている景色や建物について尋ねれば返答するが、いわゆる雑談のようなものを持ちかけるともじもじと唇を結んでしまう。それを何度か繰り返すうちに、口下手な子に無理矢理話をさせるのも悪いような気がしてきて、自然と二人の間には沈黙の方が多く流れていた。
「結構移動して来たけど……この辺はどう? 何か見覚えのあるものとか、あるかな」
「うーんと……あっ!」
十五分ほど歩いた頃だろうか、ジョンが先ほどまでより少しだけ大きな声で反応した。
「あそこの、赤い屋根のお家!」
ジョンが指さす先には、豪華な邸宅の上部が建物の隙間からちらちらと見え隠れしていた。距離は近いとは言えないが、逆に言えば、それだけの距離があっても視認できる程度には大きな建物なのだろうということがわかる。また、路上の植物がそう多くないこの街においていくつかの木のてっぺんが見えるということは、おそらくその邸宅には広い庭でもあるのだろう。
「あそこの隣、通った……はず」
「じゃあ、あっちの方面に向かって歩いてみようか。まだちょっと遠そうだけど、疲れてない? 一旦休憩――」
「だ、大丈夫! 行こう……!」
ジョンはリオードの提案を遮り、まるで疲れていないとでもいうように大股で再び歩き出した。どうして急に、と違和感を抱かないではなかったが、口下手な彼の事情に下手に突っ込むのは気が引けて、結局また同じように黙って隣を歩くのだった。
赤い屋根の邸宅の外観がきちんと確認できたのは、それからもう十五分ほど経った頃だった。クリーム色の外壁には格子のついた大きな窓がいくつも並んでおり、端々には高級そうな装飾がほどこされている。窓は真っ赤なカーテンで染め上げられており、中の様子は確認できないが、恐らく内側もそれなりに煌びやかな作りになっているのではないだろうか。それから屋敷の中央には、赤茶に塗装された両開きの扉が堂々と佇んでいるのが見える。予想していた通り、その玄関先には鮮やかな緑に満たされた庭があり、敷地を囲う壁に沿って木が生い茂っていた。
正面の門から覗いたそんな景色は、リオードにとって初めて目にするものだった。今や隣の少年よりも自分の方が慣れ親しんだ場所から離れて来てしまったのだから、次に迷子になるのは自分の方かもしれないな、と心の片隅で思いながらふとジョンへの目線を向けた。彼は目印に辿り着いたにも関わらず、何故か黙りこくっている。
「ジョンくん、どうかな。ここから家までの道はわかりそう?」
「…………」
「ジョンくん……?」
もう一度名前を呼んでみたが、彼は唇をきゅっと結んで俯いたままである。どうしたものかと、最初と同じように少しかがんで目線をあわせようとした時、ジョンがぽつりと呟いた。
「…………ごめんなさい」
「え」




