#7
『クジラの描かれた廃ビルの屋上から飛び降りろ』
『写真が撮れないけど?』
『かまわない』
『わかった。すぐ行く』
そっけないメッセージの返答とは対照的に、セルフォンのスクリーンを見つめる男の目はどこか恍惚とした色を帯びていた。あとは三十分もしないうちに、青いスプレーで雑に描かれたクジラの印が子どもたちを向かいのビルへと導いてくれることだろう。
道一本挟んだ向かいの廃ビル。男が潜む場所は、子どもに指示したビルより二階分高い八階建てだ。「飛び降りろ」という指示を貰っていてわざわざ上を見上げるやつなんてほとんどいないし、日当たりが良く遮蔽物もないから、ここはとびきり素敵なフォトスポットなのだ。太陽の真直ぐな日差しで出来た闇に隠れて、男はいそいそと自慢のカメラのレンズを磨いてセットすると、奇跡の一瞬に備えてカメラを構えた。
しばらくすると、青髪の青年が扉を開けて屋上へと出てきた。写真で見ていた通り、かなりの美男子だ。彼はきょろきょろと不安げに辺りを見回しながらしばらくうろつき、やがて屋上の端のコンクリートの塊をそっと撫でた。
こい、こい。男は荒く吐き出しそうになる息をぐっと飲みこんで、手の震えを必死に押さえつける。あの瞳はどんなふうに揺れるのだろうか。あの髪はどんなふうになびくのだろうか。あの背中はどんなふうに曲がって、あの足はどんな放物線を描いて、あの表情はどんなふうに歪むのだろうか!
青年がいよいよ足を乗り上げた。屋上の端に直立して下をじっと見つめている。緊張、怯え、あるいは。言葉の渦に思考が飲み込まれそうになるのをこらえるように、男はこめかみを伝う汗をぬぐった。
青年は数歩下がってから、とんとん、とその場でウォーミングアップをするように軽く跳ねて、ぐっと膝を曲げた。直後、たんたん、と靴の音が路地の壁を跳ねて、青年は思い切り腕を振り上げた。
カシャ、とシャッターが切られて一秒もしないうちに、ダン、と衝撃音が響いた。男はすぐにカメラのレンズを影へと引っ込めて、慌ただしい手つきでたった今撮影した写真を確認する。
そこには、確かに宙を舞うあの青年が美しくとらえられていた。かなり勢いよく飛んだためか、髪は絵に描いたようにバラバラに散っている。その下からは、普段は隠されている白い耳たぶが浮かび上がっていた。足はまるで空を駆けるかのような躍動感を演出しており、そして何より男が目をひかれたのは、その青年の表情だった。弧を描く唇の隙間からはにやりと歯が覗いており、豊な睫毛の下の瞳はまるで薬でも打たれたみたいにどこか遠くを見つめていた。どこからどう見ても、この青年は傑作に違いなかった。
男は惚けた息をもらしながら、青年の写真を映し出すスクリーンをつうと愛おし気に撫でた。数分か、数十分か。時間の感覚を忘れてしまうほどに、見惚れていた。
「ほおん。案外綺麗に撮れとるやないの」
首元にかかった息に、男はひっ、と息をひきつらせた。一瞬の硬直の後、幽霊でも警戒するみたいにゆっくりと視線をそちらへ向けた。
「けど、あんさん。人殺しは良くないで~?」
「っ……、ち、違う!! 私は殺してなんか! だ、だって、お前が勝手に飛び降りただけだろ!?」
「まあ、あんさんの考え方も分からんではないよ? ほら、類は友を呼ぶっていうしなあ。わいもどっちかっていうと元々はそっち寄りの立場やったし」
「はあ? 何言って……というか、なんでお前生きてるんだよ……!?」
「なんや。あんさん、わいのこと疑っとるん? 失礼やなあ。ちゃんと飛び降りたっちゅーのに」
「六階建てのビルの屋上から飛び降りて無事な奴がいてたまるかよ! 化け物なんじゃねえの!?」
「人を化け物呼ばわりとは失礼やなあ……。わいは何も一番下の地べたまで落ちたわけやなくて、あんさんがおるこっちの廃ビルの適当な階に向かって飛びおりて転がり込んだだけよお。人が意図的に着地する音と地面に打ち付けられる音の聞き分けができんかったんは、あんさんの落ち度やろ?」
「はあ!? ふざけるな、そんな――」
「まったく、そんな音聞き分けられる人間がいてたまるかね」
こつ、こつ、と階段を上がってきたのは、銀色のショートヘアーをぴっちりとまとめたスーツ姿の女性だった。彼女は呆れた顔でデオと目線を交わした。
「やっと来たんか、おばはん」
「いい加減その生意気な口を閉じな。大体ね、他のところのポリスなら普通は八分かかるところを三分未満で来てやったんだから、贅沢を言うんじゃないよ」
デオがわざとらしく唇をとがらせて「はあい、すんませえん」と言っている間に、スーツ姿は手際よく男の拘束を済ませた。そして、未だに上京が飲み込めない様子で口を半開きにしている男に対し、内心雀の涙ほどの同情の気持ちを込めて「ポリス所属、ティアナ・ジルクだ。話を聞かせてもらう」と伝えた。
数分後、要請を受けて車でやってきた別のポリスに男の身柄は引き渡された。男に抵抗する様子はなかった。しかし、一つ指摘すべき点があるとすれば、最後に名残惜しそうに向けられたあの目線は、もしかするとデオの化け物っぷりを目の当たりにしてもなお彼の妖艶な美しさに引き込まれていたのかもしれない。
「これでわいの一件は解決っちゅーわけやな」
「ご苦労だったね。わざわざあそこから生身で飛び降りる必要があったかは全くもって理解できないところではあるが……まあ、きちんと通報してきた点については、あのじゃじゃ馬娘よりできるじゃないか」
「お。わいのこと、ちいとは見直してくれたか?」
「女の恨みを侮るんじゃないよ。若造が」
「なんや、まだ根に持っとるんか」
「認めてほしかったらその舐めた口のきき方を直すんだね」
眉間にしわを寄せて腕を組んだティアナを見て、デオは楽しそうに笑みをこぼした。そして、ふと「あ」と声を洩らす。
「そういや、随分と到着が早かったなあ? さっきはあんなん言ったけど、正直、オフィスからの距離考えたらどんなに早くても十分はかかると思っとったで?」
「何、大したことじゃない。善良な市民から連絡があったのさ。『様子のおかしい青年が一人で廃ビルへ入っていった。クジラの落書きがしてある廃ビルだ』ってね」
「……ほんまかいな、それ」
「嘘をついたってしょうがないだろう? 善良な市民の通報のおかげで、お前さんからコールが来るより先に向かっていたというわけさ」
「……はあ~っ、かなわんなあ!」




