#5
報告会から三日後のこと。ジムはこれまでの指示を思い返しながら、所々削れたアスファルトの上を歩いていた。
あの後来た新しい指示は、『ポストの上にコインを置くこと』と『小舟の玩具をクロッサムパークの噴水に浮かべること』。ジムの元へ飛び込んでくる指示は、ほとんどが物を与える内容であった。そして本日、『フラワーショップで花を買い観光客に贈ること』という命令が下された。したがって、現在の目的地は表通りに面したフラワーショップである。
「全くよお。私の仕事は慈善事業じゃないんだが……」
そんな愚痴をこぼしてみるが、結局のところ、こればっかりは仕事であるがために私情では避けがたいのだ。そう、避けがたいのであって、逃れようと思えばその術がないわけではない。それでも彼女がこうして道を歩んでいるのは、今回の件に関して何かが彼女の関心を引いたということなのだろう。
甘い植物の香りが鼻腔をくすぐり、ジムは顔を上げる。それなりに繁盛しているとは聞いていたが、幸い混雑してはいないようだ。開かれた入口をくぐり中へ入っていくと、店主が穏やかな笑顔で迎え入れる。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「ちょっと用があって、花を贈りたいんだ」
「なるほど。身近な方へのプレゼントですか?」
「いや、ほとんど知らねえ奴だ。あいさつ代わりみたいなもんかな。それと、相手の荷物になっちゃ悪いから、あんまり大きくないと助かる」
「わかりました。では、こちらのピンク色のチューリップはいかがですか? 一輪でも華やかですし、お客様のピンクブロンドの髪色とも似ていますから、印象に残るのではないかと」
「気に入った。それで頼む」
「かしこまりました。少々お待ちください」
テンポよく会話を交わした後、店主は一輪のチューリップを手にして作業台の方へと向かった。繁盛していて普段の接客が忙しないのか、非常に迅速な対応であった。ラッピング作業も慣れた手つきで滞りなく進められ、数分もかからないうちに店主は戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「お、なかなかいいじゃねえか。また何かあったら頼む」
ジムはそう言うと、レジ横のトレーにいくつかの硬貨を静かに置いた。それから「釣りはいらん」と残し、再び日のさす大通りへと繰り出した。
「あの、すみません」
そんなふうに引き留められたのは、店を出て数十歩歩いたところだった。街燈の柱にもたれかかるようにして地図とにらめっこをしていた男性が、目の前を通り過ぎようとしたジムに声をかけたのだ。
「道に迷ってしまって……ええと、近くにミュージアムがあると聞いたのですが、ご存知ないですか?」
申し訳なさそうに腰を低くして問いかけてきた男性に対し、「ああ、それなら……」とジムはワントーン高い声で返事した。なお、腰を低くして、というのはジムの慎重に合わせた物理的な動作という認識でかまわない。
「なるほど! 助かりました……!」
「いえいえ、お力に慣れたなら何よりです! そういえば、お兄さんはセルフォンを持っていらっしゃらないんですか?」
「一応、持ってはいるんですけどね。お恥ずかしい話、今回の長旅の計画にはかなり旅費が掛かっていて、外で通信するための料金を払うだけのお金がなくなってしまったんです。だから、いっそ使い物にならないのなら、と思って家に置いてきました」
「なるほど、随分遠いところからいらっしゃったんですね?」
「はい。今頼りになるのはこの地図とお嬢さんみたいな優しい現地の方々だけですよ」
「ふふっ、お世辞でも嬉しいです」
「じゃあ、僕はこれで。ありがとう、親切なお嬢さん」
男性は丁寧に折りたたんだ地図を背負っていた鞄にしまい込み、片手をあげてその場を去ろうとした。そこでふと用を思い出したといった感じで、「あっ!」とジムが彼の上着の裾を引いた。
「あの、よろしければなんですけど……これ、貰っていただけませんか?」
「わあ、綺麗な花だね。でも、僕が貰ってしまっていいのかい?」
「もちろんです! 理由という理由はないんですけど、なんだか今日は誰かに贈り物をしたい気分だったんです」
「そういうことなら、いただいておこうかな。ありがとう、素敵なお嬢さん」
そう返答したところで、男性は不思議そうに首を傾げた。その目線はがっちりと掴まれ動かない自分の右腕をとらえていた。
「お嬢さん……?」
「観光客とは思えないくらい軽装だな。いくら外部からやってきたといえど、この街がどれだけ危険かは知ってるだろ? セルフォンを持たないにしたって、いざ何かに巻き込まれた時に周知できるよう誰しもブザーかチャカくらいは常に持っているんだから、当然それくらいの装備がなけりゃ悪目立ちする」
「そ、そうなんですね……! 僕、全然知らな――」
「まあお前が相当なド阿保で何の対策もせずにこの街にノコノコ遊びに来ていたとしても、それはそれで怪しいんだよ。何せ、格好のカモがいるってのに誰も狙わないはずがない。スリか誘拐か通り魔かは問わんが、困ったエピソードが迷子しか出てきてないってのはおかしいだろ」
つらつらと並べられた言葉に、男性は頬の筋肉を硬直させ黙り込む。
「だいたい、地図の端に破れもなければ折り目の擦り切れもない。長旅の相棒とは思えないほどに綺麗すぎるんだよ。服装もだな。靴については特にそうだが、長く使えば摩耗の偏りがあらわれてそれだけ持ち主の癖ってもんがついてくる。しかしあんたは、まあ新品とは言わねえが、上から下までめったに使わない箪笥の肥やしを引っ張り出してきたのかってくらいの劣化だ。それに、一瞬見えた鞄の中身もボロ布がほとんどを占めていた。ありゃ観光客らしい鞄にするためのかさまし――――」
「……ああ、もういい! 十分だ」
男は額に手を当て、大きく息を吐き出し肩を落とした。
「まあそう落ち込むなよ。みんながみんな私みたいにあんたの嘘を暴けるわけじゃない。ま、ご丁寧に指摘してやったんだから、次からはもっとうまくやれよ? クジラさん」
「こりゃまいったな。君は一体……」
目線を上げた男性の視界に、人差し指と中指で挟まれた名刺が映る。男性は困惑した表情のままそれをなんとか受け取り、読み上げた。
「ローファード・ハウス、ジム……そうか! 君があのジムか!」
「なんだ、知ってたのかよ」
「そりゃあ、もちろん……! ミドルじゃ君を知らないやつなんかほとんどいないはずさ」
「ってことは、やっぱりクジラはおまえ含めミドルの連中だったのか」
「うーん……半分正解ってところかな」
「半分」と男性の言葉を復唱して、ジムは僅かに瞳を揺らした。
「僕がここであれこれ説明するより、実際に見てもらった方が早いだろう。ジムさんが相手なら、全容を明かしても誰も文句は言わないだろうし……良ければ、一緒に来てくれないか?」
「……じゃ、遠慮なく」
ジムが愛想の足りない言葉を返すと、男性は子どもと相対するような笑みを僅かに携えて歩き出した。
彼の名前は、ゴート・テップ。ジムの予想通り、ミドルの人間であるという。「今もミドルで生活しているにしては、かなり矯正された振る舞いだったな。大したもんだ」とジムが感心の言葉を述べると、彼は「どうも」と言って照れ臭そうに笑った。
ゴートはしばらく歩いて、とある場所で立ち止まった。何の変哲もない、ミドルにまだそう深くは迷い込んでいない場所だった。「ここです」と伝えたゴートが見やったのは、地面に設置されたマンホールだった。
「元ミドルとして言わせてもらうと、こんな場所に下水道と行き来するマンホールなんて無かったはずだが……まさか私の記憶違いじゃないよな?」
「ええ、もちろんですよ」
「ふうん、こんな場所に地下空間が……いや、争いごとは絶えない街だからな。誰かが作っていてもおかしくはないか」
ジムがひとりでに納得していれば、ゴートはがこ、とマンホールのふたそっくりの扉を持ち上げて外した。どうやら入口付近は街中のマンホールとほとんど同じような作りに偽装してあるらしく、暗い穴の底に向かって鉄の梯子が続いていた。
「どうぞ」と促されて、ジムは迷いなく冷たい鉄に手をかけた。するするとおりていき、ジムがある程度の高さまで下りたのを確認すると、ゴートも扉を閉め同じように降下してきた。
地に足をつけ、辺りを見やる。そして、目を見開いた。
古い防空壕のような地下空間の一帯にテントが設営されており、各々の屋根の下にはまばゆいランプの光が揺れていた。一般的なミドルといえば生活に苦難している放浪者の印象が強いのだが、そこに存在する人々は布や食料や物品を見比べながら陽気に会話を交わしていた。一言で表すならば、小さな村のバザール、とでも言うべきだろうか。かつてジムが過ごしていたあの下水道の空間のような湿った嫌な臭いもせず、人々の表情もからっと明るいように思われた。
目の前の光景に言葉を奪われているジムに、ゴートは「もうおわかりかもしれないが」と前置きをして説明を始めた。
「『幸せの青いクジラ』のアカウントを動かしているのは、ジムさんに見破られてしまった通り、我々で間違いない。しかしその中には、ミドルもいればそうでない連中もいる。はじまりはミドルだけだったんだけどね。やり取りを通じて仕入れをしながら、僕たちの秘密を守るに値するであろう人たちを勧誘してとりこんできたのさ。その結果、ここまでの規模の市場が出来上がった」
「こりゃすごいな……。よくここまで発展させたもんだ」
「お褒めにあずかり光栄だね。……念のため言っておくと、ここは中立地帯だ。争うことはおろか、危険行為は一切禁止されている。それはあのアカウントでの行為も含まれていて、原則として頼むのは物的支援だけだ。例外があるとすれば、さっき話した運営への加入のお誘いだね。バーニーズ・タンドのミドルはとびっきり危険だけど、ここはその中で一番善良な取引の場なんじゃないかと僕は思っているくらいだよ」
ゴートは誇らしげに口角を持ち上げて、そう言った。ジムは改めて、雑踏に揺れる明かりをぼんやりと眺める。自分の去った地にこんな文化が築かれていたとは思いもしなかった。そうやって驚きはしたが、決して疑いはしなかった。結局、地面に張った根を自ら伸ばして水と光を得て咲く、そんな道端の木陰に咲いた小さな花のような生き方を、ジムは嫌いになれなかったのだ。
一呼吸おいて、ゴートは真面目な顔つきで口を開いた。
「ジムさんは、探偵なんだよね?」
「ああ。ポリスに調査を頼まれて、今日あんたに辿り着いた」
「……我々のやっていることは完璧な善ではないことは承知だ。だけどどうか、このことは黙っていてくれないか」
ジムは目をつむり、耳を澄ませる。冷静に装っていながらもどこか心配を隠せないゴートの息遣い。人々の行き交う足音、すれ違う衣擦れの音。地下空間に響く売り文句と、楽し気に笑う客の声。
そっと瞼を持ち上げ、不規則に揺れ動くランプの光を見つめると、ジムはようやく言葉を発した。
「行方不明に関与していないんなら、私の依頼には関係ない。……好きにしろ」




