#12
翌日。朝のミーティングを終え、仕事が始まる。その内容は、食事の支度、備品の整理、屋敷の掃除など、昨日とほとんど変わらない。子どもたちは瞳にさす光をすぼめながらも、大人しく指示に従っているようだ。
ただ、聞いていたスケジュールと違ったのは、主人が想定よりもかなり早く帰宅したことだった。子どもたちがちょうど昼の休憩に入ろうとしていた頃、まだ陽がそう傾かないうちに屋敷の戸を開いた主人は、不機嫌そうに靴底を床に叩きつけながらあの書斎部屋に向かっていった。「あのクソジジイ」「守銭奴が」と吐き捨てていたのを聞いたリオードは、大方商談が上手くいかなかったとか、そんなところだろうと見当をつけた。
しかし、そんなふうに適当にいなせない状況になってしまったのは、同室のジョンにその白羽の矢が立ったからである。主人は廊下の装飾品を掃除していたジョンに背後から近寄ると、彼の肩をすると撫でた。それに驚いたジョンが一歩退く。するとその瞬間、主人はにやついた表情を一変させ、突然彼の腕をぐいと捻りあげた。ジョンが痛みに声を上げると、主人は「黙っていうことを聞きなさい……!」と喉の奥で叫びながら彼を引きずってずんずん廊下を進んで行く。
リオードが事態に気が付いたのは、ジョンが今にも部屋に連れ込まれそうになった瞬間だった。壁の縁に必死に手を掴んで抵抗するジョンと目が合った瞬間、リオードは走り出した。何せ、彼はこの街で最も希少で純粋なお人好しの一人なのである。
「なっ、何してるんですか……!?」
「……なんだ、新入りか。良い子は仕事に戻りなさい」
怒りを締め付けるように低く吐き出された言葉にたじろぎそうになるのを必死にこらえて、リオードは言葉を続ける。
「ジョンくんに教えてもらわなきゃいけない仕事があるんです。だから、彼を離してください」
「これも彼の仕事のうちだ。他の者に教えてもらいなさい」
「痛がっているじゃないですか。早く彼の腕から手を離してください」
「何を馬鹿なことを言っているんだね。主は私だぞ? 私に向かって命令するんじゃない」
「彼に何を――」
「死にたいのか?」
リオードがさらに問い詰めようとしたところで、主人は冷たく吐き出した。
「生意気なやつだ。君には攫われた身だという自覚がないのかね? 死にたくなければ、さっさと仕事に戻りなさい」
リオードは緊張した面持ちで唾を飲み、口を開いた。
「……それは脅しですか?」
「物わかりの悪い者にはそういう教育を――」
「今は持っていないですよね。拳銃」
主人は唇を一文字に結んだ。リオードは続ける。
「あなたが拳銃をすぐに手に取れる状況は二つのはずです。ジャケットの下のホルスターにセットしている外出時。それから、それを寝室に持ち込む就寝時。今あなたがジョンくんを連れ込もうとしているのは書斎部屋ですし、ジャケットを着ていない今、ホルスターを着用していないことはどう見ても明白です。パンツのポケットにもふくらみはない。今日この屋敷に戻って来てからこの部屋に入っていないということは、きっとこの部屋の中にも武器はないのでしょう」
まるで意地を張る子どもをなだめるように、静かに一拍置いた後、リオードの声が廊下に響いた。
「彼を、離してください」
主人は数秒の間、手の力を弱めることはしなかった。むしろ、怒りで無意識に強く握りしめていたかもしれない。ジョンが顔をさらに歪め、リオードが急いで二人の方へ近づこうとした時、主人の腕が脱力してゆっくりと降下した。まだ恐怖で足がすくんでいるのか、ジョンはその場から動けずにいる。せっかく主人の癇癪から逃れられそうなところで立ち止まる訳にはいかないと、リオードはなるべく堂々とした立ち振る舞いで一歩踏み出すと、ジョンに向かって手を差し伸べた。
その瞬間、燕尾服の襟元をガット掴まれリオードはバランスを崩した。驚きの声を上げる間もなく、続いてゴン、と鈍い音がした。後頭部を壁に打ち付けられたのだ。打ち所が悪かったのか、意識はあるものの視界が白み揺れてまともに目の前の状況が把握できない。腰や踵が擦れる感覚。頭は働かなくても、自分がそのまま引きずられているということは理解できた。
横に働いていた力が不意に上向きに進路を変える。ガコ、と鍵を外すような音がして、突如上半身を冷たい風が包み込んだ。なんとか目を開ければ、そこには開け放たれたガラス窓、靡く真っ赤なカーテン、そして雲一つない青空が広がっていた。
「武器がなきゃ殺せない? ふん、舐められたものだな」
乱暴に服を掴んだ拳が、シャツに皺を寄せる。リオードはなんとかそれを引き剥がそうとするものの、窓枠に腰かけるような危うい態勢ではまともに抗うことも出来なかった。ジョンは奥で「リオードさん!」と何度か叫んでいたが、既にそれが無意味な行動だと気づいた彼は、同僚に助けを求めるべくその場から駆け出したらしかった。体の感覚が失われていないのは幸いだが、思考の靄はまだ晴れない。ぼんやりとした視界の中で、主人の下卑た顔についた口は黒い口髭を荒い鼻息で揺らしながらこう言った。
「良い子でいてさえくれれば、良かったんだがね。まことに残念だ」
その言葉を合図に、リオードの体は重力へと預けられたのだった。




