頭の中の侵略者
第6章・頭の中の侵略者
枡園は、朝今から胸のむかつきを感じていた! しかし彼の性格からか、そんなことは誰に告げるでもなく、時折襲ってくる軽い吐き気と戦いながら、浮浪者暴行事件の被害者たちが入院する国立病院で、滝川医師の録音した来栖の “お前死ねぇ” という声を6人に聞かせていた。
その結果6人全員が怯えたような表情になり、みなが口をそろえて事件当日に聞いた声と同じであるとの証言が得られたのである。
そしてその後、6人に礼を述べると、枡園はその足で駅の方向へ向かって歩き出した。
右手でしくしくと痛む胃のあたりを押さえながら、苦虫をかみつぶしたような表情で30分ほど歩きつづけただろうか、やがて枡園が本通りを抜け、住宅地を横切る脇道へと入るとすぐコンビニが見えはじめ、その角を曲がると、そこにはこぢんまりとした人気のない公園が現れたのである。
そこは岸田杜夫の首切り死体が発見された場所であり、そのためからか、普段なら子供たちを遊ばせるお母さんの姿で賑わっているはずのこの時間帯でさえ、まるで別世界のような静けさを見せている。
枡園は立ち止まり、揉み上げをつまむと、やりきれないといった表情でポツリとつぶやいた。
「なんてことだ! 犯人の奴は、岸田の命だけでなく、子供たちの無邪気な笑顔までも、奪い取ってしまったのか。」
”ゆるせん!“
枡園の胸に、沸々と怒りが沸き上がっていた。
枡園は公園内を見回しながら、ゆっくりと滑り台の方に近づいていく。
階段や手すりなどにこびりついていた血液は、現場検証のあと綺麗に洗い流されてはいるものの、階段の上り口には、子供が上り下りできないようにと親たちが設置したのであろうロープが張られており、枡園は滑り台を見上げ、右手で胸をさすった。
“この上に遺体を乗せるとなると、やはり女の力では無理だ! 犯人は複数犯で仲間がいたのか? いや、複数で行動したならば必ず目撃情報があるはずだ、コンビニの防犯カメラにはあの黄色い帽子の女の姿しか映っていなかった。”
枡園はもう一度滑り台を見上げ、張られたロープをまたぐと階段を上って行った。
最上段に立ちぐるりを見回す。
枡園はコンビニの建物を振り返った。
“犯人は防犯カメラの死角を移動したのか・・・? いや、この公園は周囲を網状のフェンスで囲まれていて、決められた入口からしか立ち入ることは出来ない! もし入口を目指せば、必ずカメラの視野に入る。”
“もし別の場所からフェンスを乗り越えたとしたら・・・!?”
枡園は眉間にしわを寄せ揉み上げをつまんだ。
“いや、たとえ犯人が女ではなく別の男だったとしても、遺体を抱えてフェンスを乗り越えることなど不可能だ!”
“やはりあの写真の女が犯人と考えるのが妥当なのか・・・?”
“ん! しかしまてよ! あの写真の黄色い帽子の人物は、本当に女なのだろうか? 我々が見た目だけの先入観にとらわれ過ぎているだけなのではないだろうか?”
心の中で呟きながら、岸田杜夫の首が向いていた方向に視線を向けたとき、500メートルほど先の国道を挟み、白い3階建の建物が見えた。
その瞬間、枡園のこめかみがピクピクと激しく反応した!
“あ・あれはメゾンド・ソレイユ・・・!? 加島礼子と死んだ香坂かすみが暮らしていたアパートだ!”
枡園の揉み上げをつまむ指に力が入った!
“これは偶然か、それとも犯人が故意に・・・? メゾンド・ソレイユを見る生首・・・行方が分からなくなったかすみの帽子と来栖の頭の中に住むという一枝の存在・・・そして犯人とおぼしき女・・・これは・・・だとしたら!? ”
メゾンド・ソレイユを睨みつける枡園の脳裏に一つの仮説が浮かび上がり、揉み上げをつまみ、眉間にしわを寄せたまま、滑り台の上で凍りついたように立ち尽くす枡園警部補であった。
要領を得ない受け答えを繰り返す来栖健二に対し、医療観察法に基づく精神鑑定が行われたその結果、生活の不安定から陥った鬱症状による心神喪失であるとの判定が下された!
““心神喪失とは、精神の障害により事の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)又はそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態であり、心神喪失状態においては、刑法上その責任を追及することができないとされている!“”
屋上の喫煙所でタバコをふかす枡園の前に、中村課長が仏頂面で現れた。
「まっさん、来栖健二は“心神喪失”と診断されたぞ!」
「なにぃ?」
枡園が苦虫をかみつぶしたような表情で振ると、中村は咥えていた禁煙パイプをスカスカと音を立て何度も吸い込んだ。
「奴は明日にでもいったん釈放だ。」
枡園は煙草を灰皿に投げ込むと慌てて立ち上がった。
「釈放? ちょっとまて、奴の頭の中には・・・」
「まっさん! あんたの言いたい事はわかってる・・・しかし、頭の中に別の女の脳があって、そいつが来栖の二重人格を生み出してるなんてな話、いったい誰が信じるんだ?」
「いや・・・そりゃ私だって、そんな話をまるっきり鵜呑みにしているわけじゃないが・・・」
「それになぁまっさん、奴が暴れてるのを目撃した人の証言では、来栖に現れたのは間違いなく男・・・しかも凶暴な鬼のような男で、間違っても女なんかじゃないんだ。」
「しかしだな・・・」
「しかしもかかしも、五色糸の神秘の力か何か知らないが、今の段階ではそんな日本昔話みたいな理由で奴に精密検査を受けさせることは出来ないんだよ! たとえ出生証明書にどんな記載があろうが、それが直接犯人説にはつながらないし、それをもし強引に精密検査を受けさせたりして来栖が無関係だった場合、人権蹂躙だなんだのと世間が警察に対して騒ぎだすのが落ちだぞ!」
「課長! 私は今日、浮浪者事件の被害者である山岸元雄に会って録音しておいた来栖の声を聞きてもらったんです、彼らは6人とも口をそろえて事件の日に聞いた声にそっくりだと、怯えた表情で答えましたよ! 来栖は間違いなく暴行事件の犯人だ、それに首切り事件も奴が犯人である可能性がある以上、世間の風当たりがどうのこうの言ってる場合ではないだろう? ここはあんたの課長の肩書で・・・」
「そんなことしてみろ、私もあんたもたちまちお払い箱だ!」
中村がそう言って、咥えた禁煙パイプをピクピクと上下に動かしたとき、突然枡園の表情が険しいものに変ったかと思うと、荒々しい口調で課長に掴みかかったのである!
「あんたは単なる腑抜けの人形か?」
枡園に突然胸倉を掴まれ、一瞬戸惑いを見せた中村であったが、すぐに落ち着いた口調で言った。
「おいおい、まっさん! 落ち着け落ち着け、あんた最近どうかしてるぞ、いつも冷静なあんたがいったいどうしちまったんだ? 時間はたっぷりあるんだ、何もそう結論を急ぐことはないだろう?」
言われて、興奮状態だった枡園がハッと我に返ったように中村から手を離すと、中村は咥えていた禁煙パイプを側にあったゴミ箱に投げ込み真剣な表情で言った。
「まっさん! 私はあんたを信頼してる、出来る事なら今すぐにでも来栖の頭をたたき割って、あんたの話が真実であることを上の連中に証明したいさ! でもなまっさん、桜の代紋背負って生きてる以上“我々兵隊は、上からの指示に従うしかないんだよ!”」
中村の言葉に、枡園は口を真一文字に結び、悔しそうに宙を睨みつけるのであった。
昼食を終えた向井が一階ロ―ビーの販売機で一息ついていると、そこに春日婦警が現れ、憂鬱そうな表情で向井の隣に腰を下ろし“ハ~ッ”と一つ大きなため息をついた。
その様子に向井が言った。
「どうしたんですか春日さん? なんか元気がありませんけど。」
「向井さん、聞いてくれます? 青木さんのことなんですけど。」
「青木君!? 彼女がどうしたんですか?」
「あの子、どうも最近世間で起きてる猟奇事件なんかに興味を持って、一人でこそこそ調べてるみたいなんですよ!」
「へぇ~・・・」
「へぇ~なんて、感心してる場合じゃないですよ、あの子無鉄砲なところがあるし一課の捜査の邪魔にでもなったら、主任の私の責任問題なんですから!」
そう言って春日婦警がもう一度溜息をついた時、廊下の奥のドアが開き、制服警官2人に両腕を掴まれた来栖が、二人の前を通りかかったのである!
警官の話し声が二人の耳に聞こえてくる。
「上からの命令で、こいつ釈放らしいぞ・・・。」
「ほんとか? あれだけの騒ぎを起こして・・・」
「ああ、何でも被害者の男が被害届を取り下げたそうだ。」
「なんでまた?」
「よくわからんが、被害者の男が、先に手を出した自分が悪いと申し立てたらしんだが、本当のところは、報復を恐れてのことじゃないかって事だ。 こいつの豹変が、よほど恐ろしかったんだろうなぁ。」
「いや、しかし・・・他にも、公務出向妨害に器物損壊が・・・」
「ああ、俺もはっきり確認したわけじゃないから詳しくは知らんが、聞くところによると、どうもこいつ心身症らしい・・・。」
春日婦警は、来栖が連れて行かれるのをじっと見ていた。
その様子を見て、向井が不思議そうに尋ねた。
「どうしました?」
「向井さん! あの人・・・この前向井さんが編集していたコンビニの防犯カメラに映っていたという、あの写真の女に似てる気がしませんか?」
「えっ! 来栖が?」
向井は春日の言葉に慌てて立ち上がり、遠ざかる来栖の姿を視線で追いながら言った。
「う~む・・・俺には似てるようには見えないけど。 春日さん、一体どのあたりが似てると言うんだい?」
「えっ・・・いや・・あの・・どこがどうって言われると困るんだけど、あの男の人が持っている雰囲気って言うか・・・なんて言うか・・・」
春日婦警はそう言って首をかしげながら続けた。
「あっ! すみません向井さん、私変なこと言って。 多分私の思い違いです、気にしないでください。」
春日はそこでいったん言葉を切り、くるりと向井の方に向き直った。
「それより向井さん、青木さんのことだけど、あの娘今日もお休みを取ってるんですよ、おじいさんの法要だとか言ってたけど、本当かどうかわかりゃしないし・・・もしあの娘が捜査に首を突っ込んだりしたら、遠慮なく怒鳴りつけてやってくださいね。」
「はははっ! 五月病の新入社員じゃあるまいし、そんな嘘で勤務を抜けたりしないでしょう? とにかく彼女の事はまかしといて、馬鹿なことしたら俺がきつーいお灸をすえてあげますから。」
「ほんとにお願いしますよ。」
春日はそう言うと向井に頭を下げ、さも忙しそうにその場をあとにしたのであった。
その後ろ姿を見送る向井の脳裏には、写真の女と来栖が似ていると言った春日婦警の言葉が、なぜか妙に胸騒ぎのような感覚で焼き付けられていた!
来栖健二は釈放されると、その足でガード下へと向かった!
時刻は午後二時、ガード下の行きつけの屋台にはまだ暖簾がかかっておらず、来栖が屋台の裏側へと回ると、そこにはおでんの仕込みをする親父さんの姿があった!
「親父さん!」
来栖が後ろから声をかけると、親父は振り返り、一瞬驚いたように大きく目を見開いたが、すぐに気を取り直すと前掛けで手を拭いながらニッコリと笑った。
「おお、あんたか! 新聞で読んだよ、あんた病気で釈放されたんだってね?」
その言葉に来栖は深々と頭を下げ言った。
「親父さん、この前は本当にすみませんでした、親父さんに随分と迷惑をかけてしまって。」
「な~に、確かにあのときは驚いたけどな、なにしろいつもおとなしいあんたが人が変わったようになっちまったんだからなぁ! だけど釈放されてよかったよ、ほら、あんたが叩きのしたあいつ、ありゃこの辺りじゃ有名なチンピラでね、散々飲み食いしたあげく何かしら難癖つけては金を払わないもんだから、わたしら同業者はみな困り果てておったんよ。 それがあんたのおかげでこのところ姿を見かけなくなってね、本当はこっちが礼を言いたいくらいですよ。」
言いながら親父は胡麻塩頭を撫でると、屋台の棚から一升瓶を取り出し来栖の目の前に突き出した。
「せっかく来たんだ、一杯やって行きなよ!」
「いや俺金ないし、それに今日は親父さんに一言謝るために・・・」
来栖がそこまで言ったときには、親父はすでに酒をコップになみなみと注いでいた。
「けち臭い事言うもんじゃないよ! ほれ、よくヤクザ映画とかで見かける出所祝いってぇの? あれですよ、これはわたしからの出所祝いだ、金なんかいらねぇよ!」
「お・親父さん・・・ありがとうございます。」
深々と頭を下げる来栖の目には涙が光っている。
「はははっ!わたしもあんたも社会の落ちこぼれ同士、水臭いこと言いっこなし、つまみは昨日のおでんの残りしかないけど、遠慮なくやりなよ。」
親父はそう言って笑うと、そばにあったビールケースをひっくり返し、その上にコップ酒を置いた。
警察での拘留期間中に体内からは酒が抜け、まるで自分の身体ではないような不思議な感覚に陥っていた来栖は、親父の言葉がこの上なく有り難かった。
そして出されたコップ酒に震える手を差し出したとき、またしても来栖の頭に異変が起きたのである!
一瞬目の前が真っ白になり、激しい耳鳴りとともに、伸ばした手を引っ込めさせようとする力が働きかけて来たのだ。
それはまるで自分の手が強力なゴムのような物で縛られ、後ろに引き戻されているといった感じであり、キーンと言う金属音のような耳鳴りに掻き消され、うまく聞き取ることが出来ないものの、耳の奥からは誰かが自分に語りかけている声が響いている!
”な・なんなんだこの感覚は? 声の主は誰なんだ?”
来栖が頭の中の声に語りかけた。
”またお前か? お前は何者なんだ!”
すると不思議なことに、それに答えるように男とも女とも、大人とも子供ともつかない声が返って来たのである。
”私が誰かって? ハハハッ! 何を言ってるんだ、私はお前じゃないか。”
”なんだと!ふざけるな! お前は何がしたいんだ、なんで俺を苦しませるんだ!”
”ハハハ! お前が苦しむのは、お前がいつも酒を呑んでるからさ、身体の中に酒さえ入っていなければ、辛い思いなどすることなく入れ代われたものを。”
”入れ代われただと! やはりお前が俺の身体を乗っ取ろうとしてるのか?“
”乗っ取るだって? ハハハ! 言っただろう私はお前だって、自分で自分の身体を乗っ取ると言うのはおかしな話だ。 お前はただ酒を呑まずに眠っていてくれさえすればいいんだ。“
“くそ~ わけのわからんことばかり並べやがって、俺の右手を自由にしろ!”
そう言って動かなくなっていた右手に神経集中させていた来栖は、自身の左手がなんとか動かせることに気が付いた!
来栖は動かない右手にさらに力を加えた、するとそれに逆らうように頭の中の何者かも力を加えてくる。
そして頭の中の何者かが、右手の固定に気を取られた一瞬のすきを突き、来栖は動かせる左手でコップを掴むと注がれた酒を一気に喉へと流しこんだのだった!
頭の中で甲高い声が響いた!
“うげ~っ!! くそーせっかく酒が抜け始めていたのに・・・”
そう言うと、鳴り響いていた耳鳴りは嘘のように消え去り、目の前には何事もなかったかのようにおでんを見つくろう親父の姿があったのだった。
親父が来栖を振り返った。
「どうだい、久しぶりの酒はうまいでしょう?」
ニッコリ笑いながら言う親父に、来栖はもう一度頭を下げた。
「はい、ごちそうさまでした! 本当に親父さんにはお世話になりっぱなしで・・・」
「いいってことよ。 それよりほれ、これはわたしの露天商仲間からのあんたに対するカンパ金だそうだ、一人五百円で六人からだから三千円入ってる!」
言いながら親父は封筒を差し出した。
「えっ! そんな!!」
「チンピラを追い払ってくれたあんたへのみんなの気持ちだ、ありがたく受けとっといたらいい。」
そう言って親父は、恐縮する来栖のズボンのポケットに封筒をねじ込んだのであった。
その様子をガード下の薄暗い場所から青木雪乃婦警がじっと見つめており、さらにそのはるか後ろからは三人の私服警官が雪乃を見つめていた。
しかし、そんなことは気付くそぶりさえ見せず、来栖は屋台を後にするとふらふらと線路沿いの道を歩き始めた!
“どこへ行く気だろう?”
雪乃が私服のミニスカートを翻し、気付かれないよう細心の注意をはらいながらながらしばらく後を追っていると、健二は何を思ったのか突然小さな花屋の軒先でピタリと足を止めたのである。
そして、ポケットから先ほどの封筒を取り出し何やら店の女の子に話しかけている。
電柱の陰に身を隠しながら、雪乃は思った。
“まさか、あの女の子を突然襲ったり・・・!?”
雪乃は、右手の拳をきつく握り締めた。
“大丈夫! 彼女はこの私が必ず助けてみせる! もし私が来栖を捕まえたら、刑事課への転身も夢ではないはず。”
雪乃の妄想は大きく膨らみ、大きな目をクリクリと動かしながら、ニヤリと笑った。
「女刑事 雪乃 参上!!」
思わず大声を出し、慌ててあたりを見回す青木婦警であった。
しかし一番慌てたのは離れてついてくる三人の私服警官だったが、幸い来栖には気づかれることはなく、そして来栖もまた店の女の子を襲ったりはしなかった。
来栖は女の子にお金を払うと小さな花束を受け取り、またもふらふらと歩きだしたのである。
雪乃の第六感が訴えていた。
” この男、何かおかしい・・・。もしかして、来栖が首切り殺人の犯人では・・・?!”
そのまま尾行を続けていると、花を抱えたままの健二がやがてたどり着いたのは、かすみが飛び降りたあのビルの前であり、そこにはかすみの両親が娘のために建た献花台があった。
かすみの献花台に花を手向け、手を合わせる健二の様子を、雪乃は隣のビルの角に置かれた自動販売機の陰からうかがっていた。
雪乃の耳に来栖の声が聞こえてくる。
「かすみ・・・お前の言ったとおり、俺は二重人格かもしれない! そのせいでお前も・・・ごめん・・・ごめんよ・・・」
来栖が投身自殺した恋人、香坂かすみの献花台の前で大粒の涙を流し、ガックリとその場に膝まづいた時だった。
“くっくっくっ! 健二! お前ってやつは本当にめでたいやつだなぁ。”
頭に殴られたような衝撃が走り、またしても謎の声がどこからともなく聞こえてきたのである。
「だれだ!!」
“だから俺はお前だよ、何度も言わせるな!”
辺りを見回したが誰もおらず、声は自分自身の頭の中から聞こえてくる!
「ううう・・やめろやめろ・・・」
来栖は頭を抱えその場にうずくまった・・・その瞬間、頭の痛みがまるで霧が晴れるかのようにスーッと消えて行ったのである。
そして
“健二・・けんじ・・”
今度は突然、来栖の頭の中で女の声が響いたのである。
“健二お前はいい子だ、私はまさかあの屋台で、お前が酒を一杯だけで済ませるとは思わなかったよ。”
その声は来栖の口から発せられており、隠れて見つめる雪乃の耳にも届いていたのだが、離れた場所に身を潜めた私服警官には聞こえていないようだ。
“あれっ・・・かすみさんと話してるのかしら? それにしては、なんか様子が変だな。”
来栖の不可思議な行動の一部始終を見ていた雪乃が、さらに聞き耳を立てたとき、突然携帯が鳴リ響いた。
♪♪~♪♪~♪♪~
電話は親友の珠美からだった。
一瞬あわてた雪乃だったが、相変わらずしゃがみこんだままの来栖を確認すると、通行人を装い、そばにあった販売機にもたれかかり、通話ボタンを押した。
そしてあくまでも自然に会話を交わしたあと、携帯をぱちんと閉じ “フ~ッ ” と雪乃がため息をついたとき、その横を焦点の定まらぬ目をして、ふらふらと来栖が通り過ぎたのであった。
そのころ、来栖健二の心神喪失での釈放に納得のいかない枡園警部補は、一人臨港苑に潜り込み、来栖が無断で利用していたと思われる部屋のドアを開けた。
そこは、六畳一間の赤茶けて毛羽立った畳みの上に、染みだらけの煎餅布団が敷かれており、その周りに空の酒瓶が数本ころがっているだけの、とても人が暮らして行けるとは思えない状況であった。
枡園が漂って来る独特の饐えた匂いに顔をしかめながら、部屋に入り煎餅布団をめくりあげると、布団はじっとりと湿っており、長い間放置されている事を物語っている。
”やはり小林刑事の報告通り、奴は何処か別の場所をねぐらにしているのか?”
枡園は眉間にしわを寄せ揉み上げをつまんだ。
”それしても課長の奴、来栖に尾行も付けずに釈放するとは、おまけにこの私に向かって、疲れた顔をしてるから暫く休めとぬかしやがった。 何を考えてるんだまったく!”
枡園が中村課長の言葉を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔で揉み上げをつまみ部屋を出ると、薄暗い廊下の先に、なにやら他の部屋とは造りの違うかなり広い部屋があるのに気付いた。
”ん! あれが食堂か?”
枡園は先程の匂いに吐き気を覚えたのか、ゆるゆるとみぞおちの辺りを摩りながら食堂とおぼしき広間へと入って行った。
部屋の隅には木製のテーブルや椅子が無造作に積み上げられており、カウンターの奥の棚には食器類がそのままの状態で残されているようだ。
足元を見ると床は埃が積もり、心ない侵入者たちの足跡が所狭しとつけられている。
枡園が部屋の中央に立ち、ぐるりと周りを見回したとき、なぜかその視線がカウンターの奥に吸い付けられるかのように、ピタリとその動きを止めたのである!
枡園は一点を見つめながら首を捻った。だがそのときの枡園の目には何が映ったわけでもなく、長年の刑事の感が何かを訴えかけているのである。
”ん? あの食器棚・・・なぜあの場所に置かれているんだ?”
枡園がゆっくりとカウンターに近づいた。
カウンターの向こうは厨房だったらしく、錆だらけのガスコンロと、その横に大きなシンクが置かれており、ここで調理をしていたとするならば、食器棚の位置が明らかに不自然に思える。
何故ならばシンクに向かって立ったならば、食器棚はその背後になるため、忙しく動き回るには至って邪魔になるのだ!
枡園はカウンター越しに中を覗き込んだ。
見ると食器棚の側面の床には、何度も引きずったであろう後がくっきりと残されている!
“この棚は明らかに何者かが位置を動かしている、しかも頻繁に!!”
枡園は揉みあげをつまんだ。
そしてカウンターの中に入ると食器棚の側面を力任せに押したのである。
すると “”ズズッズズッ“”嫌な音を立てながらも食器棚は思いのほか簡単に動き、棚の後ろからは、頭を低くしなければ通れない背の低いドアが現れたのだった。
ドアを開き中をのぞくと、そこは地下に降りる階段が取り付けられており、下は食材置き場と従業員たちの仮眠室をなっているようで、壁のどこかに明かり取りの窓が取り付けられているのだろう、薄暗いものの電灯はなくても部屋中が見渡せた。
突当たりには業務用の大きな冷蔵庫が置かれ、そのわきに仮眠用のベットが備え付けられており、明らかに人が寝起きしていた形跡が感じられる!
“ここが来栖の本当の隠れ家だったんだな!”
枡園は慎重に辺りを見回した、するとなにやらベットの横の壁に取り付けられているものが目に止まった。
“ん! あれはなんだ?”
枡園はさらに目を凝らし、やがてうす暗さに慣れてくると、徐々に壁の物体がはっきりと見え始めた。
“あっ! 帽子・・・あれは、無くなったかすみの帽子か?”
枡園が揉み上げをつまみ、階段を下りるべく一歩足を踏み出した時だった、背後に人の気配を感じたかと思うと、その何者かに背中を強く押され、バランスを崩した枡園は一気に階段を転がり落ちていったのであった。
「うぐっ・・」
枡園の口からうめき声が漏れた、頭を強く打ったのか意識は朦朧としている。
「それまでだ! 動くんじゃない!」
枡園の耳に階段の上の方から男の声が聞こえ、その後どたばたと数人の格闘するような音が響き、すぐに辺りは静まり返った。
そして・・・
「警部補! 大丈夫ですか?」
枡園の耳に今度は女の声が聞こえてきた。
女は心配そうに枡園の顔を覗き込んだが、その時はすでに目は閉じられ、身体は小刻みに震えている。
「警部補!! しっかり・・・お願いですから目を開けてください。」
女の悲痛な叫びが耳に届いたのか、薄れゆく意識のなか枡園が目を開くと、すぐ間近に女の顔があり、その大きな目がクリクリと動いているのが、なんとか確認できた。
しかし、そこまでが限界だった・・・
そして数時間後、枡園は警察病院の一室で目覚めることとなったのである。
「おっ! 気が付かれましたか。」
ベッドに身を起こした枡園に気付き、担当医が声をかけてきた。
「ここは? 私はいったい・・・?」
辺りを見回しながら起き上がろうとした枡園だったが、くらくらと激しいめまいに襲われ、慌ててベッドの手すりにつかまった。
「枡園さん、もう少し横になっていたほうがいいです。 MRの結果命に危険はありませんが、頭を激しく打っているので2~3日は目眩が治まらないと思いますよ。」
担当医は手を差し伸べながら、そう言ってニッコリと笑った。
それでも、なんとか上半身を起こしベッド上に座ると、枡園はもみ上げをつまみながら言った。
「いや、もう大丈夫です。 少し吐き気はしますが、私はどうも病院てやつが好きになれなくて。」
「はははっ。 初めてお会いしましたが、うわさどおりのお人ですなぁ。 まあ、後遺症の心配もないようですし、お帰りになるのはかまいません・・・ですが、その前にちょっとお聞きしたいんですが、枡園さん、あなた最近・・・なんというか、腹部の辺りに違和感を感じたり、極端に食欲がなくなってるなんてことはありませんか?」
担当医の問いかけに、枡園のこめかみがピクリと引きつるような動きを見せた。
「いや・・・特にありません。 飯もうまいし酒もうまいですよ。」
「そうですか。 それならいいのですが、腹部の辺りを触診させてもらったとき、指先に妙な感覚があったもので・・・いや、おそらく私の思い過ごしでしょう。」
そう言って笑う担当医を横目に、枡園はベッドから立ち上がると、深々と頭を下げた。
「大変お世話になりました。」
「いいえ。 それより気をつけてくださいよ。 薬が切れると断続的に目眩がしますから、くれぐれも飲み忘れないようにして、3日後には再検査も必ず受けてください。 それから、もし腹部に異常を感じたら、いつでも私に相談してください。」
「ありがとうございます。」
枡園はそう言って、再び頭を下げると、担当医に見送られながら警察病院を後にしたのだった。
枡園が警察病院の建物を出ると、ワンピース姿の青木雪乃婦警が、待ちかねていたように駆け寄ってきた。
「警部補!」
「おお、青木君! どうしたんだこんなところで?」
「どうしたんだって、覚えてないんですか? 私が警部補を助けたんですよ!」
青木雪乃婦警は大きな目をクリクリと動かして見せた。
「なんだって・・・君が?」
雪乃が、不思議そうに首をひねる枡園の顔を覗きこんだ。
「あっ・・・そういえば、あの時一瞬君の顔を見たような気がするが・・・あれは夢じゃなかったのか・・・ ん? まてよ、だけど何で君が?」
枡園はもみ上げをつまんだ。
「えへへ。 とにかくここじゃゆっくり話せないから、私と一緒に来てください。」
そう言って雪乃は、大きな目をクリクリと動かし、渋る枡園を半ば強引にハンバーガーショップへと誘ったのである!
セットメニューを注文し席につくと、枡園はややうつむき気味で、辺りを気にしながら小声で言った。
「青木君!こういう店は私には合わんだろう・・・・」
「ウフフ! どうしてですか? 周りはみんなカップル、私達もカップルだし・・・何も違和感はないとおもいますけど! なんなら、コーラのストロー二本にしてもらいましょうか?」
そう言ってこちらを見つめながら、いたずらっぽく笑う雪乃を見て、若い娘と顔を寄せ、1つのコーラを飲む自身の姿を想像した枡園は “エヘン”とひとつ咳払いをすると、あわてて眉間にしわを寄せた。
「なっ・・・何を馬鹿なことを・・・それよりさっきの話・・・」
「フフ! どうして私が臨港苑行ったかってことでしょ。 それは、中村課長に言われたからなんです。」
「課長が? なんで?」
「警部補、課長にきついこと言ったでしょ? 課長すごく気にしてましたよ。」
「私はただ、自分の意見を言ったまでだよ。 だけど、それと君が臨港苑に来たことと、どう繋がるんだ?」
そう言って、枡園はもみ上げをつまんだ。
「実はこの前、主任の春日さんに、私が集めていた事件の資料を見られちゃったんです!」
「ああ、そのことなら私も向井から聞いてるよ。」
「ええ、でもそれが中村課長の耳に入ってしまって、呼び出されて・・・私てっきり怒られると思ったんです。 でもそうじゃなかった。 課長はさっきも言ったように、警部補の言葉を気にしてたんです。 それで私にこう言いました。 “まっさんの様子が変なんだ! どうもいつもの冷静さを失っているように思う。 そこで刑事志望の君に折り入って頼みがある・・・まっさんは間違いなく来栖のねぐらを突き止めに行くはずだ。 しかし、今のまっさんと来栖を1対1で合わせるのは危険すぎる! 警官を3人つけるから、君は来栖を尾行して、来栖の前にまっさんが現れるまで見張っていてくれないか。” て。」
「そうだったのか・・・課長のやつ・・・」
“我々兵隊は、上からの指示に従うしかないんだよ!” 悔しそうにそう言った、中村の顔を思い浮かべながら、考え深く遠くを見つめる枡園に、雪乃は大きな目をクリクリと動かしながら言った。
「またぁ! そんな難しい顔しないでくださいよぉ。 せっかくこんな可愛い娘とデートしてるんですから。」
雪乃の声が大きかったため、周りの客がこちらを見ているような気がした枡園は、口元に人差し指をあて小声で言った。
「デ!・・・デートって君!!・・・とにかくわかった・・・わかったから、そんなに大きな声を出さんでくれ! まだ頭がくらくらするよ。」
「ウフフ! まあ理由はどうあれ、警部補を助けたのは私ですからね! お礼に、ここはおごってくださいよ。」
雪乃はそう言って、いたずらっぽく笑ったのであった!
こうして再び警察に身柄を確保された来栖健二は、臨港苑に隠し持っていたかすみの帽子の一件から岸田杜夫殺害の容疑が固まり、精神科医 滝川秀二の協力のもとに脳の精密検査が実施されることとなったのである。
枡園は雪乃をハンバーガーショップに残し、一人店を出た。 西の空では傾き始めた太陽が、ビルの谷間から半分だけ顔を覗かせている。
“どうもあの娘といると、調子がくるっていかんな。”
もみ上げをいじりながら空を見上げ、ポツリと呟いた枡園警部補であった。
つづく・・・




