第29話 敵より先に街を――逃げ足の男が逃げる敵を捕まえる
「水と砂を、倉へ!」
レオンの声が路地へ響いた。
「動ける者は、避難の道を開ける。負傷者を先に下げろ」
グスタフは一度、逃げる剣士を見た。
それから、盾を拾い直す。
「俺は、木をどける」
「腿を、先に縛ってください」
メレナが角から来ていた。
大男は、もう反論しなかった。
負傷した脚を伸ばし、布が巻かれる間、手の届く所へ支えの板を集める。
前の通りでは、敵が退き始めていた。
抵抗する者は盾で押さえ、武器を捨てた者は一箇所へ集める。
追撃へ出せる人数は、なかった。
ニコが、馬の動きを見て戻った。
「ハーゲンが西へ戻ってる。馬を、倉の裏につないでた」
テッサが、避難に使った道を見た。
「あそこなら、先回りできます。主隊は動かさず、私とニコで」
シルヴィアが頷く。
「無理な追跡はしないで。街を出られたら、行き先の確認を優先して」
「はい」
ニコは走る前に、グスタフを見た。
「こっちは頼む」
「早く行け。帰ってこい」
いつも怒鳴る声で、いつもと違うことを言った。
*
西倉の中は、目が痛むほど煙っていた。
シルヴィアは低く身をかがめ、倒れた棚の隙間へ呼びかける。
「返事をしてください!」
「いる……」
管理人の声がした。
メレナが濡れた布を渡す。
「口へ。立たず、低いままで出します」
グスタフと団員が、板を棚の下へ差し入れた。
先ほど無理に押すと、奥の脚へ当たった棚だ。
今度は押さず、支えを入れて持ち上げる。
グスタフの肩が震えた。
レオンは大男だけを強くしようとはしなかった。
板を持つ二人と、隙間へ入るシルヴィアの動きを、同じ短い合図へ合わせる。
「上げろ。そのまま」
棚の端が浮く。
シルヴィアが奥へ手を入れ、管理人を布の上へ引いた。
もう一人は、足首を荷の間へ挟まれている。
火のついた藁が、横から落ちてきた。
リゼットが水をかける。魔法で消したのではない。運んできた桶の水だった。
「これ、飲み水の分も入ってる!」
「足りなければ、広場の井戸から」
レオンは答えた。
紋を繋ぐ腕に、痺れが走る。
シルヴィアが挟まった荷を外へ引く。
男の脚が自由になった。
「下げていい!」
彼女の声で、レオンが接続を解く。
棚が落ちる前に、全員が戸へ向かう。
メレナが二人を外の布へ移し、呼吸を確かめた。
「息はあります。管理人は、腰を動かさないで」
シルヴィアがレオンへ手を伸ばした。
煤のついた指が、彼の袖を取る。
「殿下も、外へ」
レオンは頷いた。
呼吸と返事があることを、もう一度確かめてから。
*
ニコは、酒場の裏を抜けた。
粉屋の荷捌き場を越え、染物屋の横へ出る。
前には、倉の裏へ続く道。
避難の荷を運んだ空の車が、端に残っていた。
ニコは車の柄を持った。
「こっち、手伝って!」
テッサと二人で、道の真ん中へ寄せる。
馬が通れる幅は、なくなった。
裏から来たハーゲンが、足を止めた。
火を見て急いだのか、連れてきた私兵はもう脇にいない。
「どけなさい」
男は馬の手綱を取り、車へ近づく。
ニコは柄を離さなかった。
「通行料、払ってもらおうかな」
「ふざけている場合か」
「こっちも、そう思ってる」
ハーゲンは道を見て、馬を置いた。
細い路地へ走る。
ニコが後を追った。
裏門へ向かう途中で、荷台を一つ越える。肩が壁へ当たる。
ハーゲンが短剣を抜いた。
ニコは追いつく直前で止まり、刃の届く所へ入らなかった。
「こっち、二人!」
テッサが、横の洗い場から回り込む。
短剣の腕へ彼女の鞘が当たった。
ニコは、落ちた刃を蹴って遠ざける。
テッサが男の腕を後ろへ回し、壁へ押しつけた。
ニコが縄を渡す。
「離しなさい! アイゼン卿の名代だぞ!」
「街へ武装した者を入れた責任について、説明を求めます」
テッサが答えた。
ニコは息を切らせ、男を見た。
「逃げる道、俺の方が知ってるんだよ」
足元には、書状の鞄が落ちていた。
触る前に、テッサが置かれていた位置を記す。
ニコも縄を持ち直した。
奪った物を隠すために走った頃には、なかった仕事だった。
*
午後、倉の火は止まった。
壁の一部と、残していた木箱が焼けた。煤のついた家もある。
レオンは被害を記録し、持ち主へ名を確かめた。
オットーは傷の布を巻き直され、妻へ、また寝ていろと言われている。
グスタフも座ったまま、救護の布を渡す仕事をしていた。
戦死した団員はいない。
そう言えることは、街が無傷だったという意味ではなかった。
捕らえたハーゲンは、酒場とは別の倉へ移された。
武装して入った者の名、放火を見た者、略奪された品。三つの記録を、混ぜずに残す。
略奪を報酬に含めた募集の紙も、私兵の持ち物から見つかった。
レオンは、街の人が読める控えを作らせた。
夕方、東の門から声がした。
「荷車が来た!」
ニコが、通りの先へ顔を向ける。
車輪の音が、焼けた街へ近づいていた。
逃げ足も、救護も、記録も同じ街を支えている。戦いが終わっても、誰かの仕事は続いています。
次回予告:街へ戻る荷車を、皆で迎えます。
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