第25話 「信じろ」だけでは、家を置いて逃げられない
「店を、空けろ?」
パン職人は、レオンの説明を途中で止めた。
古い竈の口には、黒い煤がついている。
焼く粉が減っても、火は絶やしていない店だった。
「その間に、入ってきた連中が全部持っていくんだろ」
「持ち出せる物は、先に預かる」
「竈も持ってくれるのかい」
レオンは答えられなかった。
壁へ組み込まれた大きな竈だ。壊さなければ、運べない。
職人が、焼き台を撫でた。
「ここで、親父も焼いてた。家より長く、ここにいる。余所へ行って寝れば済む話じゃない」
隣の家の女が、戸口から聞いていた。
「こっちは、母が歩けない。どこへ連れてくの」
レオンは紙を開いた。
敵を細い道へ分ける計画。
説明しようとして、紙を閉じた。
この人たちが知りたいのは、敵の並び方ではなかった。
シルヴィアが女へ向いた。
「粉屋の裏の部屋を借りました。寝台があります。こちらから二人で運びます。お母様が嫌なら、先に私が話をします」
「荷は?」
「倉の空いた棚へ。家ごとに分けて、預かった物の控えを渡します」
マルコが、棚の番号を書いた札を見せた。
「鍵は私と、店の主人が持つ。確認したい時は呼んでください」
女は札を取り、もう一度、自分の戸口を見た。
パン職人は、まだ動かなかった。
「どうせ、最後は信じろって言うんだろ」
「信じてほしい」
レオンは答えた。
「ただ、それだけでは足りない。今、できる支度を見てほしい」
先行便で入った粉の一部を、職人へ示した。
「避難先にも、小さな焼き台がある。使える道具を移し、店を再開するまで、そこで食事を作ってもらいたい。仕事として払う」
「あの小さい台じゃ、同じ量は焼けない」
「全部は焼けない。だが、君の手が必要だ」
職人は粉の袋を見た。
レオンは続けた。
「私たちからこの家を壊す作戦にはしない。敵が与える損害まで、ないとは約束できない。壊れた場合は記録を取り、修理材と人手を、団員の追加褒賞より先に確保する」
「全部、金で返すって言わないんだな」
「今、払える金ではない。できない約束をして、働いてもらうことはできない」
職人は黙った。
レオンは床の籠を持ち上げる。
焼き型が入っていた。見た目より重い。
「これを、先に運んでいいか」
職人が籠の中へ、布を詰めた。
「その持ち方じゃ、型がぶつかる。片方を肩へかけな」
教えられた通りに直す。
シルヴィアが手を出しかけると、職人は首を振った。
「王子様が持つって言ったんだろ。最後まで見とくよ」
レオンは頷き、籠を持って歩き出した。
肩へ紐が食い込む。
初めて街へ来た日の、記録帳より重かった。
*
翌日、区画から荷が運び出された。
鍋、布団、工具。預ける品へ、テッサが札を結ぶ。
移動が難しい者は、メレナの判断で寝台ごと運んだ。
市場の荷運びの親子が、道具の箱を二人で持つ。
前に仕事を失った父親へ、レオンが支払う時刻を伝えた。
男は箱を置いて印をつけ、次の家へ向かう。
誰も、誓約を求められてはいなかった。
質問する人は止められず、何を残すかを家の持ち主が決める。
パン職人は竈の灰を片づけ、戸へ鍵をかけた。
「戻ってきたら、火を入れる」
「戻れる条件は、敵が退き、通りと家を確認できた時だ。その前には入れない」
シルヴィアが説明した。
職人は頷き、鍵を自分の懐へ入れる。
グスタフが、引っ越しの木箱を運んできた。
「王子。肩、赤くなってんぞ」
「昨日の籠だ」
「鍛えてねえからだ」
大男は、次の箱へ手を伸ばした。
レオンも小さな包みを取る。
グスタフは、それは止めなかった。
「軽いのなら、運べるな」
「運べる」
ニコが横から、別の包みを載せようとした。
シルヴィアに睨まれ、すぐ自分で持ち直す。
夕方、避難した家の名に印がついた。
レオンは、翌日で区切りになる雇用についても、次の期間と支払日を読み上げた。任務の最中に期限が曖昧にならないよう、継続の意思を一人ずつ確かめ、次期の契約を予約する。戦いが始まる前なら、引継ぎをして離れる選択もできた。
西倉の奥で戸締まりをする管理人だけは、明日の早朝に迎えを出すことになっている。現場の見張りを一人残し、勝手に名を消さない。
テッサは、確認の済んだ紙をシルヴィアへ渡した。
「森の作業も、明日、軽い荷車を通せる予定です」
レオンは、東の森と西の通りを見た。
食料を迎える者と、敵を止める者。
離れて働くどちらの班も、街へ帰す必要があった。
鐘が、夕刻を告げる。
敵が来るのは、その次の夜明けだった。
地図の四角には、運べない竈も寝床もある。信じてほしい側が何を用意するか、考える回でした。
次回予告:離れた場所で働く仲間たちに、判断の時が近づきます。
続きが気になったらブックマークを、面白いと感じたらページ下部の評価で応援していただけるとうれしいです。執筆の励みになります。




