第31話:空気が動くとき
相変わらず、クラスの中の空気はギスギスしていてとても居心地が悪い。
朝のホームルームの前の時間や昼休み、果ては10分休憩の時間までその空気はピリピリしている。
誰も俺に話しかけてこないし、変に目を合わせようともしない。みんな、スマホの画面に釘付けになるか、窓の外を眺めるかして、見えない境界線を引いていた。
特定の誰かに事情を説明したらいいのだったら話は早いのだけど、ギャル市東さんとか委員長とかキーパーソンはいるものの、俺が対峙しているのはクラス全体だ。
言ってみれば「空気」なのだ。
例の「公開裁判」の後は誰も俺に接触してこなくなったので、こちらからアクションを起こすのも変な感じなのだ。腫れ物に触らないというのを、これでもかとリアルに肌で感じている。
木村は……。
席から木村に視線を送ってみる。
助けを求める視線だ。
彼は小さく肩をすくめるジェスチャーで「難しいねぇ」って反応を返されてしまった。
クラスの中心的グループにいる彼ほどの影響力がある人間でも、こうなってしまったクラス全体の空気を変えるのは荷が重いらしい。
こうなった原因のリカの方を見ると……。
俺とふと目が合うと、あからさまにびくっと反応し、慌てて視線を逸して机の上の教科書に顔を近づけてしまう。
向こうは向こうで、少しでも周囲から追求されたら自分のついた嘘が完全に公になってしまうので、めちゃくちゃ気まずい状態なのだろう。
こちらから動くこともできず、向こうも積極的に動けない状態。周囲の生徒たちも、ただ気まずいながらも遠巻きに見守るという、まさに身動きの取れない膠着状態だった。
その膠着状態に風穴を開けるきっかけは、本当にほんの些細なことだった。パンパンに膨らんだ風船に、たった一本の鋭い針を突き刺すと一気に破裂するように、すべては突然やってきた。
放課後に、如月アヤノさんがうちのクラス、1組の教室を覗きに来たのだ。
俺も最近はすっかり教室内で動きにくくなっていて、放課後の卒アル委員の仕事に行きにくくなっていたから、その様子を心配して見に来てくれたのだろう。
もちろん、全校に広まった「アヤノさんに好きな人が『いる』……もしくは、『いた』」という話のインパクトも影響しているらしく、廊下を歩く彼女に教室の視線が一斉に突き刺さる。
教室のドアは開いていたので、ちょっと覗いただけだったのだが……。
「ちっ、寝取り女がっ」
静まり返った教室の中に、吐き捨てるような声が響いた。
ギャル市東さんがつぶやいた言葉だった。
許せなかった。
そして、今こそがそのチャンスだった。数少ない、この停滞した状況を打破できる貴重なチャンスだった。
ガタンッと、教室の静寂を切り裂くようにわざわざ大きめな音をさせて俺は立ち上がった。
ぼちぼち帰り始めようとしていたクラスメイトたちも、その勢いに圧倒されて動きを止め、こちらに注目した。
いよいよチャンスだった。
今だ!
今しかない!
「勝手な想像で如月さんに失礼なことを言うな!」
もちろん言った相手は、ギャル市東さん。演技込で睨みつけて放った。
すぐさま委員長駒込さんとその彼氏山田くんが駆け寄り、いつもの三人組が完成した。
俺は三人に向けて、怯むことなく声を大にして告げた。
「アヤノさんのことを好きなのは俺の方じゃい!アヤノさんが寝とった!?はあーーー!?冗談じゃない、俺はリカとは何もしてねぇーーー!童貞だーーー!もしリカが妊娠したなら、相手は他のやつだろーーー! だろー! だろー!(心のエコー)」
俺の声は教室中に響き渡り、周囲は逆に完全に沈黙した。
「アヤノさんが寝取った」という誤解を否定し、「リカとやっていないこと」だけを主張すれば良かったのに、怒りと勢いで完全に口が滑った。
まさか自分で余計な恥(?)を自ら大々的に暴露してしまうとは……。
冷静になって考えれば、このくらいの年齢の男子にとって童貞というのは普通だと思うけど、それを知られるのは死活問題レベルの恥ずかしさだ。
そのうち、女子たちの間から「え、童貞なんだ……」「ウソ、沢渡くんって童貞……?」というひそひそ声が聞こえてきて、俺ちょっと涙目。
みんな、そこじゃない!そこには食い付かないでくれ!
しかし、その強烈なワードのせいで、場の焦点が一気に切り替わった。
次に教室の関心は「じゃあ、妊娠(未遂)の相手って他って誰だ」という話に移ったのだ。
ずっと掴みどころがなかった「空気」が、確実に動き始めた。
クラス中の視線が、一斉に元彼の木村に集まる。
名指しされたわけではないのに注目されて、木村も焦ったように慌てて立ち上がり、両手をこれでもかとぶんぶん振って全力で否定した。
「いやいやいや、待って待って!僕は手も握らせてもらえなかったから!完全に潔白だから!」
バレーボールのトスが、俺から木村へ、そして見事にリカへと渡る様だった。全員の視線という名のボールが、今度は一斉にリカに注目が集まった。帰ろうとしていたやつらも足を止め、一度教室の外に出たやつらすら「何事だ」と戻ってきていた。
今度は教室中の全員が一斉に、青ざめたリカを見つめている。
「……もん」
ピリついた空気の中、リカが小さく何かをつぶやいた。誰にも聞こえないくらいの、か細い声で。
クラスメイトたちが思わず一歩前に出て、その声を聞き取ろうと耳を傾ける。
「……そんな風になったらいいなって、思ったんだもーん!」
次の瞬間、リカがわっと大泣きし始めた。
それはいつもの、リカお得意の大泣きだった。学校随一の美少女に涙を流されては、男たちはもちろん、周囲も簡単に抗うことができない。ここでまた、いつものように有耶無耶に丸め込まれると思われた。
しかし、今回は意外な人物がそれを許さなかった。
「はぁ? リカてめえ! じゃあ最初から全部嘘だったってのかよ!」
これまでリカの側に立っていたはずのギャル市東さんが、怒りで顔を真っ赤にして速攻でキレたのだ。
「だ、だって……私の中では本当だったのーーーっ!」
(巷ではそういうのを、大嘘って言うんだけどな)
それとも、彼女の言う通り一周目の記憶や妄想を、都合よく現実と混ぜてしまったのだろうか……。いずれにせよ、これで教室の「空気」の流れは完全に、決定的に変わったのだった。
ギャル市東さんの怒号と、リカの言い訳の泣き声が、放課後の教室にいつまでも響き渡っていた。




