第27話:震える指先と、図書準備室の約束
公開裁判が不完全燃焼のまま崩壊し、重苦しい空気が充満する3年1組の教室。
時計の針はとっくに昼休みの中盤を指していたが、俺の胃袋は空腹なんてこれっぽっちも感じていなかった。胸の奥がざわついて、それどころではなかったのだ。
(追いかけなきゃ――!)
俺はとにかく教室を飛び出した。 出入り口のドアをくぐる直前、教室内で立ち尽くしていた木村と目が合った。お互いに言葉は発しなかったが、すれ違いざまに無言で拳と拳を合わせる――グータッチ。
(サンキューな、木村)
(なーに、気にするなよ)
視線と拳の接触だけで、そんな男同士の意思疎通が成立した気がした。こんな無茶な状況でリスクを負って証言してくれた木村には、後でちゃんと頭を下げて事情を説明しなければと思う。
購買のジュースで一番高いやつくらいは献上したい。
だが、今はアヤノさんが最優先だ。
廊下に出ると、すたすたと早足で歩いていくアヤノさんの後ろ姿が見えた。 立ち上がりに遅れた分、なかなか距離が縮まらない。だが、昼休みの長い廊下の向こう側を歩く彼女の姿は、しっかりと俺の視界の中にあった。
角を曲がった先は、生徒の利用頻度が少ない図書室へと続く静かな通路だ。
昼休みに入ってすぐにこの廊下に足を踏み入れるやつなんて、まず皆無と言っていい。
図書室の扉の前までたどり着いたところで、アヤノさんの足がピタリと止まった。
「アヤノさん!」
息を整えながら声をかけると、彼女の華奢な肩がビクッと跳ねた。
彼女はこちらを振り返ろうとはしない。だが――よく見ると、体の横に下ろされた彼女の両手が、小さく細かく震えていた。
「ごめん、アヤノさん」
俺は少し離れた場所から、静かに謝罪の言葉を口にした。
「……なんで沢渡くんが謝るの?」
向こうを向いたままのアヤノさんの表情は見えない。
声に怒りの感情は混ざっていなかった。
けれど、どこか静かに抗議しているような、消え入るような響きがあった。
「ごめん。アヤノさんを怖がらせたと思って……」
「……怖かった」
ぽつりと零れ落ちた本音。
その一言で、ようやく俺はアヤノさんの前に進み出ることを許されたような気がした。
回り込んで正面に立つと、アヤノさんは少し俯きながら、ぎゅっと自分の制服のスカートを握りしめていた。
大勢のギャルや野次馬に囲まれ、理不尽な難癖をつけられたのだ。教室では一切の隙を見せず、理路整然と反論して見せた彼女だったが、一人になった途端、その緊張の糸が切れてしまったのだろう。
こんな風に震える彼女を見ていると、胸がギュッと締め付けられるように痛む。
「……俺の幼馴染が完全に暴走気味でさ。両親にも、クラスメイトにも、『無いこと無いこと』言いまくってるんだ」
「ふふ……『あること無いこと』じゃないんだ」
俺の軽口に、アヤノさんの唇から小さな微笑みがこぼれた。眼鏡の奥の目元がほんの少し和らぐ。
「そう……本当、参ってるよ」
思わず前髪の辺りをポリポリしながら話してしまう。
「……でしょうね」
色々説明しなくてももう十分伝わっていると感じた。
「ご飯……食べようか。さすがに教室には戻りにくいだろうから、俺、購買でパン買ってくるよ」
「あ……はい。じゃあ、私は図書準備室を開けて待っていますね」
そうと決まればダッシュだ。俺は廊下を猛スピードで駆け抜け、購買部に滑り込み、残っていた焼きそばパンとメロンパン、それに紙パックの紅茶を二人分買い込んだ。
誰もいない静かな図書準備室。 ほのかに古い紙と木製の書棚の匂いが漂う秘密基地のような空間で、俺たちはパイプ椅子に並んで座り、買ってきたパンを口に運んだ。
「助かりました。落ち着いたら急にお腹がすいて……」
「いや、分かるよ。俺もやっと腹が減っていたことに気が付いた感じだし」
一口頬張った焼きそばパンを噛み締めながら、俺は苦笑した。
さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように、穏やかで優しい時間が二人の間に流れる。教室の最悪な空気から隔離されたこの空間だけが、俺たちの唯一の避難所だった。
と、パックの紅茶を一口飲んだアヤノさんが、ふとこちらを真直ぐに見つめてきた。
「沢渡くん」
「ん? なに?」
急だったし、彼女の口からどんな言葉が出てくるのか少し構えてしまった。
「……今度の週末、デートに行きましょうか」
「え、デート!……う、うん! もちろん!!」
あまりにも唐突な誘いに、俺は喉にパンを詰まらせそうになりながら勢いよく頷いた。
「あれだけ言われたんだから、デートくらいしないとですね」
「なに、その意地みたいなの」
「ふふふ……」
なんか黒いアヤノさんが見え隠れしてるし……。よっぽど頭に来たんだな。
みんなの前で泥棒猫のレッテルを貼られ、怖くて手を震わせていたはずの彼女が、今度はいたずらを仕掛ける子どもみたいににやけている。相変わらず、予想できない人だな。
リカの怒涛の嫌がらせと泥沼の冤罪劇。 最悪な状況であることには変わりないが、アヤノさんとの距離は、確実に新しい一歩を踏み出そうとしていた。




