赤く染まる空
「アデルお姉様、次もまたこれがいいわ」
「いいわよ。王子様がお姫様を助けに来るところは何度読んでもわくわくするわね」
「私も小さな頃からお気に入りよ」
静かな部屋に、ページをめくる微かな音と優しい声が響く。
ニーナはそっとアデルにもたれかかった。するとアデルが目が細める。
(……同じだわ)
アデルは母のように何度も繰り返し読んでくれた。絵を描いている時も、好きな色を使えばいいと言って、ピンクの蝶々を可愛らしいと口元を緩める。何より話を最後まで聞いてくれる。
「美術の先生にこれを見せたらきっと悲しそうな顔をするわ。お話だって言葉遣いがって途中で直される。どうしてなの? なぜいつもアデルお姉様は、私に優しく笑ってくれるの?」
「私は教師ではありません。それに母がいつもにこにこしていましたから、そのせいかしら」
ニーナを前にしたら、自然に顔がほころぶ。きっと母も同じだったのだろう。真似たわけではないが気付けば笑っていた。
「私のお母様と似ているわ。お母様もいつも笑ってらした。それに困っている人がいると聞くと、すぐに馬車に乗って出掛けてしまうのよ」
「貴婦人の鑑ですね」
「私はお母様を誇りに思うわ」
皆に慕われた自慢の母。
あの大雪の日もそうだった。教会にいる孤児たちに毛布を届けに行ったのだ。
ニーナの胸が急に騒がしくなる。アデルに抱きついてしまった。
「お嬢様、戸締まりと火の元はすべて確認しました」
バジルの声だ。見回りは彼の担当。
「お父様もお戻りなの?」
「今夜はヴァレル様のお屋敷にお泊まりになるそうです」
バジルは先に帰るように言われて戻ってきた。屋敷に女と子どもだけでは不用心過ぎる。
「そう。バジルも休んでちょうだい」
明日父が戻る前にニーナを帰せばいい。夜に言い争いをしないで済んでほっとした。
「はい。ではお休みなさいませ」
靴音が遠のく。
「ニーナ様、そろそろ休みましょう」
「アデルお姉様。今だけお母様と呼んでいい?」
アデルがふっと笑って腕を広げた。
「ニーナ。おいで」
「お母様……」
「馬車に乗って会いに来てくれて、本当に嬉しかったわ。怖かったでしょうに」
「大丈夫だったわ。ずっとアデルお母様の事を考えていたの」
「次は一緒にお出かけしましょうね」
小さな体を抱きしめた。そして狭いベッドで寄り添って眠った。
真夜中、ショコラの吠える声と扉をドンドンと叩く音で起こされた。
(もしやお父様がお戻りに?)
素早くベッドから抜け出し、扉越しに聞いた。
「どうしたの?」
「お嬢様! ご近所で火事です! 逃げてください!」
「わかったわ!」
切羽詰まったネロリの声に、すぐにニーナを揺り起こした。
「ニーナ、起きて。火事よ。すぐにここを出ましょう」
「……お母様、怖い」
「すぐに避難すれば大丈夫よ」
「お母様も一緒よね」
「ニーナは先に逃げるの。必ず追い付くわ」
「約束よ。すぐに来てね」
アデルの真剣な声に、嫌などという時間がない事はニーナにもわかった。
扉を開けると、マートルと護衛が飛び込んでくる。護衛がニーナを毛布にくるんだまま抱き上げた。
「ニーナ様は我々がお連れします」
「お願い。それとディルも一緒に。子どもの足では遠くまで逃げられない」
「承知しました。アデル様も早く」
「いいから早く行って。私はリンデを連れ出してから追いかけます」
リンデは怖がりだ。火事と聞いたら動けないでいるに違いない。
「どうかお気をつけて。クロスフォード家で落ち合いましょう!」
思った通り、リンデはベッドの中で震えていた。
「お姉様、怖い」
「大丈夫よ。着替えている時間はないわ。これを羽織って」
焦げた臭いと煙が流れ込んできていた。
クローゼットからコートを掴み、リンデの頭から被せた。アデルはハンカチを口に当て、ネロリと一緒にリンデを連れ出す。
アデルが外へ出ると、空が真っ赤に燃えていた。
(これは……私が見たのは……)
「ニーナ! ニーナはどこ? 馬車はもう出てしまったの?」
「はい。すぐに出発しました」
エルダーはディルを預けられて良かったと安堵していたが、それどころではない。
アデルが見たのは夕焼けではなかった。
頭の上を火の粉がチラチラと舞う。
(どうしよう! 私の勘違いでニーナが危ない!)
「ちょっと通してください! お願い!」
いくら叫んでも誰も聞いてくれない。
避難する住人と野次馬でごった返していた。探しに行きたくても、道が塞がれていた。
「アデル、無事か! ニーナは!」
「レオ様!」
人混みをかき分け、遅くなってすまないとレオがアデルの体を引き寄せた。火はもう、ミラー家のすぐ近くまで迫っていた。
「レオ様! 説明は後で。とにかくすぐに馬車を追ってください。ニーナが攫われる!」
「わかった。すぐにダリオたちが駆けつける。君も安全な場所に避難してくれ」
「はい」
レオは空に向って信号弾を放った。そして人の間を縫うように走り去って行く。
「お姉様。また何か見たの? 私、知っているのよ。お姉様が言うことは本当に起こる。お姉様が不幸を呼んでいるのよ」
「違うわ!」
「お姉様が言った通り、お母様は亡くなってしまった。お父様が手に入れてくれた薬を飲んだのに! 私やユリアお姉様の怪我だってそう。いつだって、お姉様の言う通りになる!」
違う……。お母様が亡くなったのは、あの薬を飲んではいけなかったからだ。
「お姉様の大嘘つき!」
「リンデ! 待って! 話を聞いて!」
リンデは泣きながら人混みに消えた。その後をネロリが追う。
「嘘じゃない。嘘なんてついてない……」
だからリンデは私を嫌っていたんだ。大好きな母が私に奪われたと思っていた。きっと父もだ。
アデルの目から涙があふれ、その場にしゃがみ込んでしまった。
「もしそれが本当なら……」
私が母を殺した。私がニーナのご両親を……。
――もう何も見たくない。
人混みの中から、アデルに真っ直ぐに近づく男がいた。
「アデルさんじゃないか?」
「……カイン様」
「こんなところにいては危ない。来なさい」
カインは黒いマントをアデルに被せ、その場から連れ出した。
◇◇◇
ニーナの乗った馬車は、人混みで動けなくなり、止まっていた。
人に押された馬車は大きく揺れて、傾く。ニーナを抱きかかえたマートルが降りたところを三人組に襲われたが、護衛と馬丁が撃退。誘拐は未遂に終わった。
「ニーナ!」
「叔父様!」
「ニーナ、無事だったか。良かった」
三人組には逃げられたが、護衛に怪我はなく、ニーナを背負い、屋敷へ向かうところだった。
「僕の馬を使え」
「旦那様は?」
「ミラー家に戻る。アデルを連れ帰るから、準備を頼む」
「承知いたしました」
マートルがうなずく。
「叔父様、アデルお姉様を必ずお助けしてね」
ニーナの声は震えていた。叔父に一緒にいて欲しいがアデルが心配でたまらない。
「心配するな。必ず連れ帰る」
だが、レオがミラー家に戻るとアデルがいない。ダリオも着いた時にはいなかったと言う。
「お前と一緒なのかと思っていた」
「違う。誰かアデルを見た者はいないか!」
「身なりの良い方とご一緒でした。てっきり、クロスフォード様のお屋敷に行かれたのかと」
エルダーはレオからの使いだと思っていた。
「我が家からは誰も出していない」
「でもアデルお嬢様はご存じの方だったようなので、お止めしなかったんです」
重たい空気が流れる。
アデルが勝手にひとりで逃げ出すとは思えない。
「レオ、周辺を探しに行こうにも、この人混みでは探しきれない」
「いくら火事でもこのヤジ馬の数はおかしい。真夜中だぞ。異常じゃないか?」
「そういえばそうだな」
よく見れば、みな寝間着ではなく服を着ている。
「昨日から街のあちこちに張り紙があって、この周辺で火事が起こると予告あったんでさあ。いつでも逃げられるように服を着たまま寝ていたら、本当に火事が起きたんで、飛び起きて見に来ました」
ダリオが聞き込みをしてまわると、誰に聞いても同じ答えが返ってくる。
火事の予告。まるで予言だ。
ネロリに抱きかかえられ、リンデが戻って来た。
「リンデ、アデルを知らないか?」
「お姉様? 知りません」
そこへハンスが帰ってきた。
「これは大変なことに……」
「お父様、今までどこへ行ってらしたの? 私たちまで家を出されたのよ」
「ヴァレル伯爵のところだ。火事だと知らせが来て、急いで戻って来たんだが、皆無事か」
「アデルがいない」
「クロスフォード伯爵。あなたには聞いていない」
「そんなことを言っている場合か?」
「アデルならもう保護されている」
「どこへだ?」
「あなたに答えることは何もない。リンデ、おいで。ヴァレル伯爵が当分の間、部屋を貸してくれるそうだ」
「そうなのね。良かったわ」
レオはハンスの胸ぐらを掴みそうになったが、ぐっとこらえた。時間が惜しい。
最初からアデルが狙われていた。ニーナの誘拐もどこかおかしい。出来すぎている。
「ダリオ、行くぞ」
レオは目星を付けていた子爵家に向った。




