待っていたもの
王都へ着くと、アデルは真っ直ぐクロスフォード家へ向かった。
ニーナに「お帰りなさい」と言われたのに、「ただいま」とは言えなかった。
「もう……行きますね……」
それなのにアデルはニーナの小さく柔らかな手をなかなか離せないでいた。
ニーナと離れるのが辛い。ただ実家に戻るだけなのに、こんなに寂しいものだなんて思いもしなかった。
一緒に過ごした日々は穏やかで、自分の話を楽そうに聞いてくれるこの温かな存在は、アデルの心を癒やしてくれた。
「週に一度、必ずニーナ様に会いに来ますからね」
「約束よ。でもアデルお姉様がそんなにご家族が恋しいだなんて、少しも気づかなかったわ」
どうして帰るのか聞かれ、ついそんなことを話したのだ。会いたいのはバジル一家とネロリだけなのだが、自分にとっては家族同然。嘘ではない。
「大丈夫。私だってもう小さな子どもではないもの」
そう言いながらミルキーを強く抱きしめるニーナを、アデルは優しく抱きしめた。
「ニーナ様にはレオ様がいらっしゃいます。すぐにお帰りになりますからね」
ベッドで大人しくしてくれていれば、二日か三日後には帰れるだろう。レオが過労で休んでいるのはニーナには内緒。
「叔父様のお手紙に、子犬を連れ帰ると書いてあったけど捜査犬だったのね」
「はい。とても賢い子ですよ。でも捜査局で飼うことになりました」
捜査犬の引退は早い。きっとクロスフォード家で引き取られる。ニーナはそのうち屋敷が犬だらけになりそうと笑う。
「アデルお姉様、週末には必ず来てね。待っているわ」
「はい。では短い間でしたがお世話になりました」
アデルは泣きそうになりながら、ニーナやマートル、世話になったメイドたちに別れを告げた。
実家へ戻ると、父は素っ気なく、「戻ったのか」と一言だけ。何も言わずにひと月近く家を空けた娘を心配していた様子もない。叱られなくて良かったと思うことにした。
「あら。もう追い出されたの」
「リンデ。ただいま。別に追い出されていません」
「王宮で使いものにならず、今度はクロスフォード家で行儀見習い。お姉様はまた嘘でもついていたんでしょう」
しつこく何をしていたか聞かれたので、子犬の世話だと教えた。
レオの大事な姪っ子の話相手をしていたなんて言ったら、リンデはきっと自分が行くと言い出す。いくら憧れの伯爵家でも犬の世話ではリンデは興味を失う。
「今度は捜査犬の世話をすることになったわ」
「呆れた。貴族の娘のやることじゃないわ」
何も知らないリンデに哀れみの目で見られたが、姉が特別扱いじゃないと知ると満足したのか、大人しく自室へ戻って行った。
翌日、アデルが特別捜査局へ行くと、まだお疲れ気味のテナが先に来ていた。
「局長付の事務員は私一人だったから、アデル様が来てくれて大歓迎です」
「様は止めてください。私は後輩ですから」
テナは平民だが、父も兄も地方で捜査官をしている。そんな縁で特別捜査局に事務として雇われていた。
少し考えたテナだったが、様呼びではアデルがずっと気を遣うだろう。
「では、これからはアデルさんと呼びます」
「嬉しい。職場だけど友達ができたみたい」
アデルは一緒にお昼も食べられるかなと嬉しそうだった。
「それなら毎日でも……そうだ。お給料が出たら流行りのカフェに行きましょうよ」
「自分の稼いだお金で行けるなんて夢みたい。お仕事がんばります」
「ふふ。ではこの手帳に目を通してください。お願いしたいことや知っておいて欲しい事を書いておきました。それとアデルさんには執務室のお掃除を頼みます」
「わかりました」
「じゃ、アデルさんの席はここよ。分からない事は聞いてね」
「はい。よろしくお願いします」
テナもあの噂は知っていた。こんなに素直な子のどこが嘘つきに見えるのかと不思議に思う。
アデルはテナの隣で手帳を読み込んだ。
(それほど難しくなさそうだけど、覚えることは多いな……)
局内の部署名や役職。他にも覚えることは山ほどあった。
ふと時計を見ると、かなり時間が経っていた。
「大変。帰る時間になっちゃう」
慌てて掃除道具を手に、執務室へ入った。
レオは几帳面なのか散らかったりはしていない。さっと掃いて、机の上を拭くとすぐに終わってしまった。
「なんか寂しいわね」
風景画の一枚もない殺風景な部屋。
そうだと、アデルはハンカチを取り出し、器用に折りたたむ。
「お戻りになったら庭の花を摘んできますから、それまではこれでお許しくださいね」
伯爵家で見たテーブルナプキンを真似て、机に飾った。
レオは日もとっぷり暮れた頃になって、やっと捜査局へ辿り着いた。
多少の疲れくらいでそう何日も休んではいられない。ミランダが止めるのも聞かずに汽車に飛び乗った。
早く残処理をしたいのに、汽車は遅れるし、局に着くと部下からあれこれ確認が欲しいと呼び止められ、荷物を提げたまましばらく立ち話。もう明日にしてくれと逃れてきた。
それでも事務室は覗いた。
「……もう帰ったか」
せっかくアデルに土産を買ってきたのに。顔も見られずに、とぼとぼと執務室の扉を開けた。
そしてランプを灯すと、白い薔薇が目に入った。
「これは?」
我が家の食卓でよく見るものだ。ふっとレオの口元が緩む。
「疲れが吹き飛んだ」
思わず白い薔薇に口づけた。
そして籠の前に薔薇を置いた。
「この匂いは忘れるな。僕のいない時は頼むよ」
黒い子犬はクンクンとハンカチを嗅く。そしてワンと吠えて、レオの手をざらりとした舌で舐めた。すぐに手を引きそうになるがレオは耐えた。
「これなら公園には早くいけそうだな。頼むぞチビ助」
「……」
「名は明日、アデルに付けて貰え」
「ワン!」
◇◇◇
翌日。
レオはあちこちに報告へ。執務室へ戻ってきても、次々に部下たちがやってくる。
アデルも地下書庫や、資料を借りに図書館へ行ったりでそれなりに忙しい。
同じ職場にいても、二人は朝から一度もすれ違うことさえなかった。
「やっぱり、レオ様は雲の上の存在なんだね」
アデルは時間を見つけては真新しい犬小屋を覗きにやって来た。
「真っ黒だからショコラかな」
子犬は気に入ったのか尻尾をぶんぶんと振って見せる。
「じゃあ今日からショコラね」
好きに名付けていいと、レオから伝言が届いていた。
「ショコラとミルキー。どっちも美味しそうな名だね。早く会わせてあげたいな」
「ワン!」
「すぐに吠えちゃ駄目だよ。悪い人に見つかったら大変だからね」
レオはその様子を執務室の窓から見ていた。犬小屋はレオの目の届く所へ建てられていた。
「クロスフォード局長。局長……おいレオ。いい加減にのぞき見るのはやめろ」
ダリオが眉間に皺を寄せる。レオの目はまるで犯人を追っている時のようだ。
「何故だ? こうして仕事はしている。あっ! まただ」
レオの手には書類。だが少しも読んでいない。先ほどから若い捜査官たちが犬小屋の近くをうろついているのが気になって、何も手に付かない。
「仕方がないな。俺が追っ払って来てやる。でも彼女のことはなんて説明するんだ?」
「知り合いに頼まれて預かっている。だな」
「それしかないか」
アデルを守るためだ。協力者とは絶対に言えない。
うっかりレオの婚約者候補だから近づくなと言えば、面白半分に捜査官たちが探ってきてしまう。それも避けたい。
もしアデルを『嘘つき令嬢』などと指さす者が現れたら、レオが暴れ出すに決まっている。普段は紳士ぶっているが、腕っぷしも確かだ。
「おっ! レオ、あれを見ろ」
「うん? はは。いい気味だ」
アデルの姿が消えると、ショコラがうろつく捜査官を追い回していた。
「レオを笑わせるとは、あの子犬もやるな」
「どういう意味だ?」
「自覚なしか。いつも仏頂面で面白みのない男だって事だ。彼女の前ではもう少し笑ってみせろよ」
「善処する」
とっさに答えだか、自分はいつもアデルの前では笑っている気がする。初めて出会った時もだ。
机の上には小さな花が飾られていた。レオはそっと指で触れてみた。
「さて、仕事を片付けて食堂へ行こう」
きっとケーキを頬張る彼女に会える。




