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壊れた魔法 ~辺境の冒険者は、仕方なく魔法基盤を直している~  作者: 黒犬


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Chapter08 振り上げた拳の下ろし方

 翌朝のギルドは静かだった。

 昨日あれだけ声が上がった集会室は、何事もなかったように片付けられている。テーブルの上には朝一番の依頼票が並び、ミラがいつも通り書類を捌いている。壁に貼られた通達——魔法塔管理組合からの、あの文面——だけが、昨日の残り火のように掲示板に留まっていた。

 グレンがカウンター脇の記入台で依頼報告書を書いていると、奥のテーブルでガロがコーヒーの杯を手にしたまま、ダンに近づいた。

 「で、どうするんだ」

 声は低かった。怒鳴る口調ではない。昨日の怒りとは質の違う声だった。朝を越えて、冷めたものだけが残っている。

 ダンが杯をカウンターに置いた。「中央が組合と交渉中だ。だが——」

 言葉が途切れた。ダンは口を閉じ、もう一度開いた。

 「実害が出ていない以上、強く出られないらしい」

 ガロの目が細くなった。「実害が出てないって、誰が決めたんだよ」

 怒鳴りはしなかった。静かに、正確に問うていた。

 ダンはその問いに直接答えなかった。視線がわずかにカウンター脇に動いた。グレンがいる方向だった。

 グレンは記入台のペンを動かし続けた。視線を受け取らないようにしていた。ダンが何を見ているか、何を考えているか——知っていた。グレンが応急処置を繰り返してきたぶんだけ、ウィセルのギルドには「実害」が記録されていない。実害が出ていないのではなく、出る前に消しているだけだ。ダンはうっすらとそれを感じている。だが確かめてはこない。確かめれば、返す言葉を変えなければならなくなるから。

 「——交渉の結果を待つ。それだけだ」

 ダンが言った。ガロは返事をしなかった。杯を空にして、テーブルに戻った。

 ギルドの朝は通常通りに動いている。クエストの受付がある。依頼の確認がある。誰かが掲示板の前で依頼票を選んでいる。怒りは昨日で吐き出された。今日は静かだ。

 その静けさが、怒りが消えたわけではなく、行き場をなくしただけだと教えていた。


***


 午前中、コンソール室の前でハースがグレンに声をかけた。

 「少しいいか」

 二人で廊下の端に移動した。窓のない通路で、壁の魔石灯だけがぼんやりと灯っている。ハースは声を荒げなかった。それが余計に重かった。

 「通達が出てすぐ、俺は書式第二式の対応に取りかかった」

 ハースの声は淡々としていた。怒りではなく、事実を並べている口調だった。

 「変更点の洗い出しだけで三日。テスト用に書き換えた術式も一部あった。そこへ延期の一報が来て、全部巻き戻した。あの時間は何だったんだ」

 グレンは何も言わなかった。

 「読み替えレイヤーがあるなら、最初から換装と読み替えの両方を同時に発表してくれれば、こっちの対応は変えられた。少なくとも、巻き戻す前に確認ができた。読み替えレイヤーの仕様を共有してくれれば、術式書の保守方針を立て直して動けた。なのに、延期が出た時点でこっちは止まれと言われた」

 ハースの手が、壁に寄りかけた体を支えていた。指先に力が入っている。怒りを抑えているのではなく、怒りの行き先がないまま、体のどこかに留めている。

 「結局、延期したのは移行であって換装じゃないと。——言葉遊びだ」

 グレンは静かに言った。「……言葉遊びだな」

 同意するしかなかった。「移行の延期」と「換装の実施」を切り分ける——組合の論理は、言葉の上では成立する。だがハースの側からすれば、その切り分けは事前に知らされなかった。知らされなかった以上、「延期」という言葉は「全部止まる」という意味に読むしかなかった。正確な言葉を使って、正確に人を騙している。

 ハースが小さく息をついた。

 「怒鳴り込んでどうにかなる話じゃないのは分かってる。実害がなかったと言われたら、そうですねとしか言えない。でも——」

 ハースの声がわずかに硬くなった。

 「俺はあの作業時間を飲み込むことになった。延期を信じて止めた判断も、延期前に動いた準備も、全部なかったことにされた。それだけは確かだ」

 ハースがグレンの方を見た。何か——答えを求めているのではなく、同じ場所に立っている人間がいることを確認するような目だった。

 「……ああ」

 グレンはそれだけ言った。

 ハースがコンソール室の方に歩いていった。背中が廊下の薄暗さに溶けていく。グレンはしばらく壁に背を預けて立っていた。

 ハースの怒りは正しい。正確で、具体的で、反論のしようがない。だがその怒りには組合にぶつける窓口がない。「実害がなかった」という壁の前で、飲み込むしかない。飲み込んだものは消えない。沈殿する。


***


 昼過ぎ、ダンがグレンを執務室に呼んだ。

 扉が閉まった。二人きりだった。ダンが椅子に座り、テーブルの上の書類を意味もなく整えた。整えなくてもよかった書類を整えるのは、言いにくいことがあるときのダンの癖だった。

 「お前は前から気づいていたんだろう。東の塔が変わっていると」

 グレンは少し間を置いた。「……推測はありました」

 「どれくらい前から」

 「記録にはっきり出始めたのが数週間前です。それより前から、応答の癖が変わっている感触はありました」

 ダンが書類の角を揃えた。揃える必要がなかった。

 「報告が上がっていない以上、組合からすれば問題はなかったことになる。お前が直してきたぶんだけ、うちの問題は公式には存在しない」

 「……分かってます」

 「なぜ上げなかった」

 グレンが答えを選んだ。正直に言うか。正直に言う以外の選択がないことは分かっていた。

 「……報告する窓口が分かりませんでした。異常報告のフォームは術式書の不具合向けで、塔の応答形式の変化を報告する書式がない。書式が変わっているという話はあくまで俺の観測で、組合が公式に認めていなかった。出したところで、北の街と同じように突き返される」

 ダンが椅子の背に体重を預けた。天井を見て、戻した。

 「そうか」

 一拍あった。ダンの声が低くなった。

 「これ以上はギルド長の俺が決める。——中央への報告はしない」

 グレンは黙った。

 「今さら出しても、支部の管理体制を問われるだけだ。気づいていたのに報告しなかった、隠していた、という話になる。お前がどれだけ直してきたかは、記録に残っていない。残っていないものは、説明できない」

 ダンの声は平坦だった。感情を消しているのではなく、判断として確定させている声だった。

 「お前が直してきたことは、ギルドにとっては良かった。それは事実だ。ただ、それが表に出ると、全部が裏目になる」

 「……了解です」

 グレンは言った。合理的な判断だった。間違っていない。

 間違っていないのに、何かが沈んでいく感覚があった。ダンの判断を受け入れたことで、「問題が存在しないことになっている」という状態がもう一段、固くなった。グレンが直し、ダンが報告せず、組合が知らないまま——その構造が、今この瞬間に制度として固定された。

 「運用でカバー」という言葉が頭をよぎった。自分がやってきたことを、他の言い方にすれば——それだ。問題を見つけ、自分で直し、直したから報告しない。報告しないから組合は知らない。知らないから「影響なし」と言える。そして今、ギルド長が正式に「報告しない」と決めた。

 応急処置が制度になった。

 「……他に何かあるか」

 ダンが聞いた。グレンは首を振った。ダンは頷いて、書類の束に手を戻した。グレンは執務室を出た。


***


 夜。ウィセルの酒場。

 カウンター奥の端の席に、ガロとグレンが並んでいた。特別な経緯があるわけではない。ガロが夕方、「飲みに行くぞ」と言ったから来た。それだけだった。

 酒場の中は賑わっていた。奥のテーブルで誰かが笑い声を上げている。厨房から肉が焼ける匂いが漂ってくる。読み替えレイヤーの話をしている人間は、この店には一人もいなかった。それが日常というものだ。

 ガロが杯を空にした。

 「怒ってもどうにもならんのは分かってる。影響が出てないんだから」

 グレンが杯を傾けたまま、静かに言った。

 「出てないことになっている、だな」

 ガロが杯をテーブルに置いた。音は立てなかった。グレンを見た。

 「……そうか。お前が直してたのか」

 グレンは少し間を置いた。「そういう話じゃない。ただ、影響が出てないというのは正確じゃない」

 「けどお前は黙ってる」

 「……黙ってる」

 ガロが次の杯に手を伸ばした。問い詰めない。どこまで知っているかも聞かない。グレンが言えないと感じていることを、そのまま受け取る。

 「そうか」

 沈黙が続いた。酒場の喧騒が遠くに聞こえた。隣の席の客が何かの冗談を飛ばして、連れが笑っている。

 ガロが杯を口元に運びながら言った。「読み替えレイヤーとやら、お前は前から分かってたんだろ」

 「分かってたわけじゃない。何かが変わっていることは気づいてた。名前は今回初めて知った」

 「名前が分かったら、何か変わるか」

 「……問題の形は見えやすくなる。直しやすくはならない」

 ガロが頷いた。杯を置いて、グレンの杯が空いていることに気づき、黙って店主に追加を頼んだ。

 「まあ飲め」

 グレンは杯を受け取った。

 ガロは鋭い男だ。細かい技術の話は分からなくても、人間が何を抱えているかは正確に読む。グレンが「黙ってる」と言った。その言葉の裏に何があるかを、全部は分からなくても、輪郭だけは掴んでいる。掴んだ上で、問い詰めない。受け止めて、酒を注文する。

 信頼というのは、たぶんこういうものだとグレンは思った。


***


 宿に戻ったのは深夜だった。

 窓際の椅子に座って、上着を脱ぎ、ブーツを緩めた。窓の外に街の灯りが見える。魔石灯が等間隔に並んでいる通りは静かだった。酔いは軽い。頭は冴えている。冴えているから、余計なことを考える。

 表面上は収束する。

 組合は謝らない。ギルドは報告しない。ハースは巻き戻した作業時間を飲み込む。ガロは怒りを引っ込める。グレンは黙る。全員がそれぞれの立場で合理的な判断をして、全員が何かを飲み込む。

 不信だけが残る。

 今回は収まった。読み替えレイヤーの名前が出て、存在が認められて、「影響はなかった」という一線で区切られた。拳を上げた人間は、振り下ろす先がないまま、拳を下ろした。

 だが次に何かあったとき、誰も組合の言葉を額面通りには受け取らないだろう。組合がどれだけ正確な情報を出しても、「また裏で何かやっているんだろう」という目で読まれる。延期と言いながら換装を進めた。後から「影響はなかった」と言い切った。一度失った信用を取り戻すのは、失うより何倍も難しい。

 それが今回の本当のコストだ。実害が出なかったことは事実かもしれない。だが不信が蓄積したことも事実だ。その不信がいつか、必要な情報が出されたときに「信じない」という反応として返ってくる。

 グレンは窓の外を見た。

 ——そして俺の中には、読み替えレイヤーでは説明がつかない問題が残っている。

 威力値の揺れ。先読みの痕跡。あれは変換の揺れではない。変換が入る前の段階に何かがある。装置の応答そのものに、通常とは異なる処理が混じっている。

 読み替えレイヤーの話で拳を下ろしたばかりだ。今さら別の問題を持ち出しても、誰が聞く。根拠のない不安をまた振りかざすのか、と言われる。ハースの作業時間が無駄になった怒りも、ガロの「聞いてなかったぞ」も、組合の「影響はなかった」の前に押し戻された。同じことが起きる。

 今度こそ、確かな記録が要る。

 グレンは窓を閉めた。街の音が遠くなった。

 ベッドに倒れ込んで天井を見た。木の梁が暗がりに浮かんでいる。

 面倒だ。面倒だが——見てしまったものは消えない。記録に残った先読みの痕跡。あれを見なかったことにはできない。

 眠るまでに少し時間がかかった。


 数日後、ウィセルのギルドに、見慣れない旅商人が立ち寄った。


【作者メモ】

怒りの鎮め方が上手な人にあこがれます。

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