Chapter06 仕方ないな
三日後の夜、グレンはコンソール室で手を止めた。
いつもの記録確認のつもりだった。修正魔方陣の適用状況を見て、新しい異常がなければ上に戻る。巻紙を一本広げて、端末の記録を流し読みする——それだけの予定だった。
だが記録の末尾に、見たことのない種類のものがあった。
グレンは目を細めた。ランタンの火を寄せて、もう一度読んだ。
演算結果が返ってくる前に、別の演算結果が先行して到着している。そしてほぼ同時にキャンセルの信号が入り、正規の演算結果で上書きされていた。
正常な流れは、こうだ。術具からリクエストが飛ぶ。塔がリクエストを受け取り、演算して、結果を返す。グレンが何百回と見てきた手順だ。
だがこの記録では——リクエストが塔に届く前に、演算結果が先に到着している。
「……先に結果が来て、あとから取り消されている」
声に出した。石壁に言葉が落ちた。
術具のリクエスト内容を事前に推測して、演算結果を先行配信する。正規の演算が完了したらキャンセルして置き換える。それがうまくいくかぎり、表面上は正常に動く。速くなることすらある。
「先読みだ」
グレンは巻紙から手を離して、天井を見た。
向こうの装置が、リクエストの答えを先に予測して返している。予測が合っていれば問題ない。外れていたら——予測値のまま確定する。威力値が本来の計算と異なる値で術具に渡る。
あの威力の揺れ。ガロの炎術が想定より大きかった、あの一瞬。記録に残っていた異常値。あれが「予測の外れ」だったとすれば。
グレンはそこで巻紙を広げ直した。先読みの痕跡はひとまず脇に置いて、前回積み残した分析に戻る。威力値の揺れのパターン。東の塔に集中しているように見えたが、西の塔でも数件出ていた——あの不明瞭さが引っかかっていた。
記録を引っ張り出した。威力値の揺れが出ている記録と、応答元の識別符を全件並べる。
東の塔。東の塔。東の塔。東の塔。
やはり東の塔に集中している。だが西の塔でも数件。
グレンは西の塔の分の発生時刻を、一件ずつ確かめた。
「……」
指が止まった。
西の塔で威力値の揺れが記録された時刻。どれも、記憶領域の同期が走った直後の、ごく短い時間帯に収まっている。
記憶領域はすべての塔でリアルタイムに同期している。東の塔で発生した記録が、同期のタイミングで西の塔の記録にも書き込まれる。
「……西の塔の分は、同期直後の時間に偏っている。元は東の塔のデータが、同期で西の記録に見えただけだ」
グレンは巻紙に指を走らせ、改めて全件を確認した。
「全部東の塔だ」
先読みの痕跡も。威力値の揺れも。応答フォーマットのズレも。すべてが東の塔に振られたリクエストに集中している。
二つの問題。どちらも東の塔から出ている。
グレンは記録を片付けながら、静かに息を吐いた。
***
翌朝、グレンの方からダンの事務室に向かった。呼ばれたわけではなかった。
「ダン。昨晩の記録に、少し変わったものが出ました」
ダンは書類の手を止めた。「変わった、とは」
「演算結果が先読みされています。本来の手順の前に、塔側から予測値が届いていた」
ダンの眉が動いた。「……それは問題なのか」
「いまのところ、自己補正で戻っています」
グレンは一拍置いた。
「でも、補正が間に合わなかったら。予測値のまま確定します。予測が正しければ問題ない。外れていたら——威力値が、本来の計算と異なる値になる」
ダンは黙った。グレンも何も付け加えなかった。
しばらく、事務室の時計の音だけが聞こえた。
「……続けて確認する。何かあれば言います」
グレンは事務室を出た。ダンの表情を見なかった。見る必要はなかった。言うべきことは言った。
***
ギルドの掲示板に新しい通達が貼られたのは、その日の昼過ぎだった。
魔法塔管理組合から各ギルド支部へ。定型文で始まる短い文書だった。
「書式第二式への移行は引き続き延期中。各支部は現行環境の維持に努めること」
それだけだった。
グレンは廊下の隅に立って、通達の紙を見つめた。
延期が発表されてから何も動いていない——と、ギルド中央は言っている。公式には。
あのとき感じた嫌な感覚が蘇った。書式第二式への移行計画が発表され、反発を受けて延期された。あの延期の発表を聞いたとき、何かが噛み合わないと思った。延期したはずなのに、誰かが引き続き何かをやっている気配があった。根拠はなかった。ただの感覚だった。
今は根拠がある。
東の塔の応答記法が変わっている。通常の書式第一式ではありえない記法だ。東の塔に何か別の層が入っているとしか思えない。先読みの痕跡もある。装置の動作そのものが、以前と変わっている。
公式には何も動いていない。延期中だ。なのに東の塔は変わっている。
「通達に出さずに、裏で動かしている」
小声で言った。誰にも聞こえない。聞かせるつもりもなかった。
延期と言いながら、黙って進める。公式の計画とは別に、インフラの実態が変わっている。それを正式に通知せず、使用者側に伝えないまま。
噛み合わなかったものが、噛み合わないまま答えになった。
グレンは通達を掲示板に戻して、その場を離れた。
***
受付カウンターで書類を捌いているミラに、グレンは声をかけた。
「最近の端末不調、東の塔に当たったときだけ起きてるの、気づいてたか」
ミラが手を止めた。「……東の塔、というのは」
「受付端末がリクエストを飛ばすとき、どちらの塔に振り分けられるか、記録に残る。タイムアウトが起きたときの記録を確認すると、ほぼ東の塔に当たっているときなんだ」
ミラは少し考えた。「……言われてみれば、タイムアウトが出るのは午後が多い気がします。東の塔の方が午後は混みますよね」
「そういうことかもしれない」
「ありがとう」とだけ言った。
ミラは書類を持ったまま、こちらを見ていた。
「……なんか、怖いこと考えてません?」
グレンは少し笑った。「いや。まだ考えてるだけだ」
「考えてる段階が、すでに怖いですよ」ミラは書類を机に置いた。「グレンさんが地下に降りる回数が増えてる。最近ずっと深刻そうな顔してる。ダンさんとの話も、普段より長い」
グレンは何も言わなかった。
正確には——言えなかった。
東の塔に何かの変換層が入っている。演算の先読みが起きている。二つの問題が、それぞれ別の原因で走っている。それを説明するには、術令書式の仕組みから始めなければならない。ミラは賢い。説明すれば理解するだろう。
だが理解させてどうする。
これは受付担当のミラに解決できる問題ではない。グレンにも解決できない問題が含まれている。知らせることで、ミラに「どうにもできない問題を知っている」という重さを押し付けることになる。
「……グレンさん?」
「大丈夫だ。まだ確認中だから」
グレンはカウンターを離れた。背中にミラの視線を感じた。振り返らなかった。
正式に問い合わせるか。頭の中で手順が蘇る。書類作成に三日。中央への送付と審査に二週間。上申が通ったとして組合の対応にさらに二週間。インシデント制。追加コストは支部予算から。
仮に上申が通ったとして——組合が何と言うか。「術式書のバージョンが古い、最新版に更新しろ」。北の街と同じ答えが返ってくる可能性が高い。東の塔に何かが入っていることを、組合が自分から認めるとは思えない。
まだだ。もう少し確かめてからでないと、上申の判断材料にすらならない。
——そう自分に言い聞かせた。
***
夜のコンソール室で、グレンはすべての記録を並べた。
これまでの三週間分。巻紙が床に広がり、操作台からはみ出した。ランタンを三つ持ち込んで、それでも角が薄暗い。
声に出して確認した。石壁に言葉を当てることで、思考が整理される。
「応答の記法が見慣れないものに変わっている。東の塔だけで。威力値の揺れも先読みの痕跡も、全部東の塔だ」
「東の塔に何かが入っている。それが何かは分からない。だが記法の特徴から見て——」
グレンは一度言葉を切った。言い切るかどうか、迷った。
「——書式第一式ではない、別の体系が動いているとしか説明がつかない」
石壁は何も返さない。グレンは自分の言葉の反響だけを聞いた。
別の体系。あの見慣れない記法が何に属するものか、まだ断言はできない。だが書式第一式の範囲では説明がつかない。延期中のはずの移行が、東の塔だけで——公式に伝えられることなく——進んでいる。そう考えれば、すべてが繋がる。
「二つの問題」
グレンは巻紙を膝の上に引き寄せた。
「記法の変化は、何かの変換層が入っているせいだ。俺が修正魔方陣で抑えられる。現にここまで抑えてきた」
それは事実だった。応答フォーマットのズレは、変換ルールを手当てすることで吸収できる。毎回の応急処置は面倒だが、対処できている。
「威力値の揺れと先読みは——装置そのものの動作がおかしい。俺がどれだけ修正魔方陣を配っても、根本は直せない」
演算の設計に関わる問題だ。コンソールのパラメータ設定で変えられる類のものではない。グレンの権限の外にある。
言葉にすると、あらためて確かめられた。
「二つの問題。片方は俺が抑えている。もう片方は、俺の手に余る」
手に余る。その言葉を使ったのは、はっきりと口にしたのは、これが初めてだった。「難しい」でも「分からない」でもない。手に余る。意味が違う。自分の手では届かない場所に、問題の根がある。
グレンは記録を片付けながら、この三週間で自分が何をしていたかを思った。
直してきた。直すたびに、問題の形が鮮明になった。直せば直すほど、自分の手に余るものの輪郭が見えた。応急処置は無駄ではなかった。だが応急処置のままでは、いつか間に合わなくなる。
「……これ、塔の連中に直接言わないと、どうにもならないな」
魔法塔管理組合。手続きが重く、窓口がきわめて狭く、非公式の便利屋には接点もない。だがそこに向かって話を持っていくしかない。修正魔方陣は時間を稼いでいるだけだ。稼いだ時間で何もしなければ、ただ先送りにしているのと同じだ。
***
コンソール室を出て、石段を上がった。
もう深夜に近い時間だった。ギルドの中は暗い。受付の魔石も落とされている。石段を上がったランタンの明かりが、廊下の壁に影を落とした。
「遅くまでご苦労だな」
ダンだった。
事務室の前に立って、腕組みをしたまま壁に背をもたれている。帰っていなかったのか、戻ってきたのか。グレンには分からなかった。
「……まだいたんですか」
「いろいろ考えていた」ダンは短く言った。「お前の方は、どうだ」
グレンはランタンを持ち直した。明かりがダンの顔を照らす。疲れた顔だった。グレンも似たような顔をしているだろう。
「ダン。——近いうちに、塔の連中と話をつける必要があるかもしれません」
ダンは動かなかった。
しばらく、沈黙があった。廊下の奥で、窓から入る夜風が壁板を軋ませた。
「……そうか。そこまでのことか」
「分からないです」グレンは正直に言った。「でも、俺の手じゃもう——」
言葉が途切れた。
ダンはうなずいた。反論しなかった。
おそらくダンは、ある程度は分かっていたのだろうとグレンは思った。グレンが地下に降りるたびに、顔の険しさが少しずつ増しているのを、ダンは見ていたはずだ。何を聞けばいいかも、どう動けばいいかも分からないまま、ただグレンが上がってくるのを待っていた。
「……手続きが必要だ。正式なルートで行くなら、支部長の名で書類を出すことになる」
ダンが静かに言った。
「……はい」
「面倒な話だな」
「ええ」
ダンは壁から背を離した。「やれるか」
「やるしかないです」
ダンは一瞬だけグレンを見て、それから目を逸らした。何か言おうとして、やめた。代わりに、ぽん、とグレンの肩を叩いた。
「……頼む」
それだけだった。ダンは事務室に戻っていった。
グレンは廊下を歩いて、ギルドの裏口から外に出た。
夜気が冷たかった。石畳に靴の音が響いた。見上げると、雲の切れ目に星がいくつか見えた。
面倒ごとは、いつもこうだ。気づいてしまったら、知らないふりができない。
サボれる問題と、サボれない問題がある。直す気になれない手間と、直さずにはいられない手間がある。自分がそのどちらに動くかは、問題の種類ではなく——自分がそれを見てしまったかどうかで決まる。
見てしまった。知ってしまった。ダンに向かって、「俺の手じゃもう」と言ってしまった。
後戻りはできない。
宿の看板が見えた。いつもの木の板が、魔石灯の明かりでぼんやり浮かんでいる。グレンは足を止めた。
「——仕方ないな」
呟いて、歩き出した。
それから数週間後、魔法塔管理組合から大きな発表があった。
【作者メモ】
思いつく限りのヤバいものをちりばめました。
「これ、あの問題がモチーフじゃないかな」と思ったそこのあなた。多分正解です。




