Chapter12 ごめん
ミラが「あの、組合の方が」と目配せしたのは、グレンが午前のクエストから戻った直後だった。
受付カウンターの端に、見慣れた外套の人影があった。前回は扉の前で待っていたが、今回はミラに声をかけて中に入っていた。少し慣れたのだろう。ただ、顔色が悪かった。
アルカは振り返って、小さく手を上げた。笑おうとしているが、目元に影がある。疲労とは違う。何かを飲み込んだあとのような表情だった。
「話があるんだけど」
「中に入れ」
酒場ではなく、ギルドの小会議室に通した。昼前で誰も使っていない部屋だった。窓の外を行き交う荷車の音だけが聞こえる。テーブルを挟んで座る。
アルカは外套を脱がなかった。少し前のめりになって、両手をテーブルの上に重ねた。
「問い合わせの傾向をまとめて、レポートを書いた」
「ああ」
「換装時期と問題発生率に相関がある、という内容。自分なりに整理して、上に提出した」
グレンは黙って聞いた。
「開発に回したら——」アルカが一度言葉を止めた。唇を引き結んで、それから続けた。「『こちらで見ている。サポートは個別対応を続けてくれ』と返された」
「門前払いか」
「受領はされた。でも、開発側の判断として『術式書バージョンの問題として処理中。相関は偶然の一致と判断する』という回答が返ってきた」アルカの声は静かだったが、指先がわずかに白くなっていた。「受け取った上の人間は、それをシステム部門に回さなかった。自分の担当範囲の判断として処理して、終わりにした」
部屋が静かになった。荷車の音が遠ざかり、また近づいた。
「つまり、お前のレポートは読まれたが、動かなかった」
「そう」アルカが頷いた。「術式書バージョンの問題はシステム部門が担当する。問い合わせ件数の分析はサポート部門が担当する。でも、サポートが分析した結果を受け取って横に繋ぐ仕組みがない。上の人間はレポートを自分の判断で閉じた。悪意じゃない。手続きとしてはそれが普通なの。ただ——繋がらない」
「なぜだ」
「分からない」アルカは言葉を選ぶように間を置いた。「見落とした可能性もある。あるいは、案件として上げるほどではないと判断したのかもしれない。組合の中では、部門が違えば隣を見る理由がない。それぞれが自分の範囲を見て、自分の範囲で結論を出す。それが普通の業務なんだと思う」
***
アルカは続けた。声の調子は変わらなかったが、言葉の密度が上がっていた。
「私の中では確信に近い。換装時期と問題発生率の相関は偶然じゃない。でも組合の中に、それを全体として見ている人間がいない」
「どういうことだ」
「サポートは問い合わせを個別に処理する。開発は術式書のバージョン管理をする。インフラは塔の物理的な稼働を見る。それぞれが自分の範囲を見ている。でも——横断して『何が起きているか』を見る部署がない。見ること自体を担当している人間がいない」
グレンは黙っていた。
「私が見ているものを、誰も見ていない」アルカの声が少し低くなった。「私以外で、件数の傾向と換装時期を並べて見た人間が、組合の中にいない。だから確信があっても、根拠として通せない。一人の認識では組織は動かない」
「……それは、こっちも同じだ」
グレンが言った。
「俺が見ているものを、ダンは分かっている。だがギルド中央は知らない。組合には届いていない。お前が見ているものと、俺が見ているものを合わせれば、全体が見える。でも——」
「それを合わせる場所がない」アルカが引き取った。
「ああ。情報はある。人もいる。だが、繋げる仕組みがどこにもない」
沈黙が落ちた。窓から差し込む光がテーブルの上で動いた。
「サイロだ」グレンが言った。
「……サイロ?」
「壁で仕切られた倉庫。それぞれの中には何が入っているか分かる。隣に何があるかも、きっと誰かは知っている。だが壁を越えて見ることができない。開け方が分からないから、全部が揃っていても、誰も全体に気づかない」
アルカはその言葉を反芻するように少し黙った。目が細くなる。考えている顔だった。
「……そういう言葉、どこで覚えるの」
「忘れた」
グレンはそれ以上言わなかった。アルカもそれ以上聞かなかった。ただ「サイロ」という言葉が、二人の間のテーブルの上に置かれたまま残った。
***
沈黙のあと、グレンが口を開いた。
「アルカ」
「なに」
「お前がこれ以上持ち出したら、グレーゾーンじゃなくなるぞ」
アルカの肩が小さく動いた。分かっている、という顔だった。「でも、このままだと——」
「だとしても、お前がリスクを取る話じゃない」グレンが言葉を被せた。「俺が動く」
アルカが顔を上げた。「動くって、どうやって」
「塔の連中に直接言う」
言い切った。声は低く、静かだったが、言い直す気配はなかった。
「証拠は俺の手元にある。ウィセルの記録と、お前の傾向データを合わせれば、少なくとも『偶然じゃない』ことは示せる。読み替えレイヤーの問題と、装置そのものの問題——二つがあることも、記録から見せられる」
「でも窓口がない」アルカが言った。「あなたはギルドの非公式な担当者で、組合との接点がない。上申の仕組みも、あなたには使えない」
「お前がいるだろ」
アルカの口が止まった。
「お前の繋がりで、話を聞いてくれる人間を紹介してくれ。正式じゃなくていい。ただ、俺の話を聞ける立場の人間であれば」
部屋が静かになった。窓の外で、荷車がまた一台通り過ぎた。
アルカは視線を落とした。両手がテーブルの上で重なったまま、微かに握られていた。
グレンが求めているものの意味を、アルカは正確に理解していた。組合の内部の人間を、外部の——非公式の——問題提起者に繋ぐこと。それはもう「グレーゾーン」ではない。守秘義務の線を、明確に越えることになる。
グレンはそれを分かって言っている。アルカもそれを分かって黙っている。
長い間があった。
「……一人だけ、いる」アルカがゆっくり言った。声が少しかすれた。「話を聞いてくれそうな人が」
「条件は」
「向こうも非公式。約束はできない。それでもいいなら」
「十分だ」
グレンは頷いた。それ以上問わなかった。名前も立場も聞かなかった。アルカがそう言ったなら、それで十分だった。
***
話は終わった。
アルカが立ち上がり、外套の襟を直した。グレンも椅子を引いて立った。扉に手をかけようとしたとき、背中にアルカの声がかかった。
「……グレン」
振り返った。
アルカは立ったまま、少しだけ視線を下に向けていた。何かを探すような、あるいは確かめるような間があった。
「ごめん」
「何がだ」
アルカが口を開いて、一度閉じた。それから、言った。
「巻き込んだこと。あなたのここでの生活を——私が来ることで、変えてしまったこと」
グレンはしばらく、アルカを見た。
前回、この酒場で別れ際に「俺はもう巻き込まれてた」と言った。巻き込まれていない、と否定した。それでもアルカは「ごめん」と言っている。否定を受け取った上で、それでもなお残るものがあるのだろう。
「壊れてない」
「え?」
「日常は壊れてない」グレンは言った。「最初から壊れてたんだ。お前が来る前から」
アルカが少し目を細めた。問いかけるような顔をした。
「あの地下に降り始めたときから、ずっとそうだ」
コンソール室の薄暗い石段。ランタンを二つ持ち込んで、記録を広げて、修正魔方陣を書いて。誰にも頼まれていないのに記録を積み続けた。ダンに「こっそりな」と言われて頷いて、それが日常になった。日常として回っている限り誰も問題に気づかない。気づかないから報告されない。報告されないから直らない。直らないからグレンが直し続ける。
その構造に最初から組み込まれていた。アルカが来たことで壊れたのではない。壊れた状態が常態だった。アルカが来たことで、それが見えるようになっただけだ。
「気にするな」
グレンは扉を開けた。
アルカが出ていく前に、一度こちらを振り返った。「……ありがとう」
グレンは何も言わなかった。扉を押さえて、アルカが通り過ぎるのを待った。外套の裾が視界の端を横切って、廊下に消えた。
***
アルカが帰ったあと、グレンは地下に降りた。
コンソール室のランタンをつける。石壁に橙色の光が広がった。いつもの匂いがした。埃と、石と、古い巻紙の匂い。
記録台の上に、これまでまとめてきた全記録を並べ直した。
東の塔への振り分けパターン。フォーマットのズレの発生率と修正魔方陣の適用記録。威力値の揺れ。応答が先行した痕跡。西の塔と東の塔での発生率の差。アルカの伝書から書き写した、換装時期と問題発生率の相関。
全部を、順番に並べた。
「これを突きつければ、塔の連中は何か答えなければならない」
声に出して確かめた。石壁が吸い込んで、返さない。
「偶然ではないことは示せる。二つの問題が別物であることも示せる。組合の中で個別処理されている件数の傾向も、外側から見た形で提示できる」
記録をまとめ直す手が動いた。順番を組み替える。自分だけが分かればいい並びではなく、知らない人間に見せるための組み立てに。何がどの順番で起きたか。何と何が一致するか。何が説明できて、何が説明できないか。
誰かに説明するための記録を作っている。あの地下に降り始めてからずっと、自分のためだけに積んできた記録を、初めて他人に見せる形に組み替えている。
面倒だ、と思った。
「面倒ごとは、いつもこうだ」
ランタンの火が揺れた。
気づいてしまったら、知らないふりができない。アルカが言った通り、全体を見ている人間がいない。見ることを担当している人間がいない。誰かが代わりに気づいてくれるか——いや、いない。ずっと待っていた。塔の内側にいる人間が気づいてくれればいいと思っていた。そしてアルカが来た。気づいていた。だが組織が動かなかった。
ならば、外から押すしかない。
記録をまとめ終えて、紐で束ねた。巻紙の束が手の中でずしりと重かった。
「……サボりたいんだがな、本当に」
独り言が石壁に消えた。グレンはランタンを持って立ち上がった。
三日後。グレンはアルカに紹介された人物と、小さな茶店で向かい合うことになる。
【作者メモ】
グレンは本当にサボりたがりなのか、自分でも怪しくなっています。




