ノエルの百年前 下
ヴィンセントの訪問から数日後、ノエルは王宮に来ていた。先日の約束を果たすためである。
約束のクッキーはいつもより丁寧に作った。その中でも特に仕上がりの良いものだけを選りすぐり、油紙に包んでから綺麗な布とリボンで包装したものを持ってきている。
今日は侍女を連れず、一人きりだった。
特にヴィンセントとも約束していないし、クッキーを渡して帰るだけなのでひとりでいいと判断したのだ。
何しろ今は年末まで一月を切った忙しい時期である。人が多く、長居をすると迷惑になってしまう。さっと渡して帰るつもりだ。
「よ、予想以上に人が多い……!」
そのつもりだったのだが、ノエルは呻き声を上げて庭へ抜け出していた。いつも以上に忙しない王宮の内部は過敏な彼女には移動だけでもかなり消耗させられた。
少し耳鳴りがするし、鼻も鈍っている。休まなければ先へ進めない。
王宮の庭は冬の始まりらしく薄らと雪に覆われ、深呼吸もできるほど空気が澄んでいた。
まだ真昼の日差しで溶ける雪は、年末に向けてどんどん増えて、王都より北の地方はそろそろ雪に閉ざされる頃合いだ。一度雪に埋もれると春になるまで行き来ができなくなる。
そのため今の内にと王宮に提出される書類が増加し、年末は忙しくなると、よく父がぼやいていた。
ノエルは毎年この時期には領地に帰っているので王宮がこんなに大変なことになっているとは知らなかった。
音やにおいもきつかったが、隈をこさえた文官たちが行き交う廊下をクッキーの差し入れなどという呑気な理由で通るのはなんとも居心地が悪かった。
できれば庭からヴィンセントのいる執務室の近くまで行けないか、休憩ついでに探ってみるつもりだ。
冬の庭は晴れていても上着が必須の底冷えする寒さだった。しかし、ノエルは狼の獣人である。寒さには強く、薄着であっても風邪すら引かない。
この寒さで人気はなく、安心してノエルはヴィンセントの執務室がある方向へ歩き始めた。
鳥や小動物の足跡が残る雪をさくさくと踏み、薔薇の垣根を通ると耳鳴りが消えていく。
自然の中も、人混みと同じくらい雑多な音やにおいで溢れているが、不思議と耳鳴りや鼻の麻痺に悩まされることはない。むしろ感覚が研ぎ澄まされるような気さえした。
屋外はにおいが籠らないから、ということもあるだろうが、狼の性質が強く影響していると、ノエルは知っていた。
狼は獲物である生き物のにおいを強く感じ取る。だから、人間だらけの王宮に悩まされるのも仕方ないことであった。
かつての先祖たちはみなノエルと同じくらい優れた感覚と高い身体能力を誇っていたそうだ。
その頃彼らが暮らしていたのは黒い森と呼ばれる森林地帯である。そこを縄張りに平穏な生活をしていた彼らが生まれ故郷を離れたのは、ズメイの初代国王に見込まれたからだった。
先祖たちは体格や力で他の獣人に少々劣っていたものの、群れの結束と連携が比類なく、仕えて欲しいと請われたのだ。
長く暮らした愛着のある黒い森から離れるほど、初代国王は偉大な主人だったのだろう。
その後貴族になる際に、忠誠に対する褒章として初代国王はブラックウッド家のふるさとを領地とした。
そうして授かった黒い森を一族は大切に守りはしても、そこへ生活の場を戻すことはしなかった。誰かに仕える生活は存外彼らに合っていたのだ。
ただ、獣人ばかりの時代であっても、鋭い感覚を持ったまま人の中で暮らすのは苦労が多かったはずだ。
だから一族の者たちは年月と共に感覚を鈍らせていってしまったのかもしれない。
どちらかというと先祖に近く生まれたノエルの暮らしやすい場所は、王宮や社交界ではなく、黒い森なのだろう。
それでもノエルは先祖が森を出て人と共に生きる道を選んだように、ヴィンセントの隣にいることを選ぶ。生き辛さを感じていても側にいたい人がいるのだ。
ヴィンセントのことを考えながら歩いていると、硬い薔薇の蕾が雪の上に落ちているのを見つけた。恐らく冬支度の剪定の時に摘み取られたものだろう。
まだ瑞々しいので摘み取られてから然程時間は経っていないようだ。暖かい部屋の中なら花を咲かせることができそうである。
このまま雪に埋もれて枯れてしまうのは少し寂しい気がして、ノエルは蕾を拾おうと手を伸ばした。
その瞬間、鼻先を大好きな匂いが掠めた。ヴィンセントの匂いである。どうやら近くにいるらしい。
ノエルの気は薔薇の蕾から完全に逸れ、匂いの元を探して歩き出した。
「辛い思いをさせてすまない――」
風に乗ったヴィンセントの声を辿る。しかし、ノエルの足はそれほど進まないうちに止まった。
ヴィンセントはひとりではない。薔薇の垣根の遥か遠くの木陰で、人目を憚るように誰かと寄り添っている。
夜目は利いても視力は普通のノエルの目では、はっきりと見えないが、鼻が漂ってくる匂いがもうひとりは女性だと教えてくれた。
「暫くの辛抱ですもの、耐えられます――」
どこか甘く切ない女性の声にノエルは愕然と立ち尽くす。
答えるヴィンセントの声は、よく知っているのに別人のもののように聞こえた。
「ああ、もう暫くだ。ブラックウッド家がミカエラを追い詰めている。あいつが捕まれば、君のことを公にしても身の危険はない。
護身用に渡した短剣は持っている?」
「はい、ここに。
でも、わたくしの身代わりになって下さっているブラックウッド家のご令嬢はどうするのですか?」
「婚約は解消するよ。慰謝料は払うし、彼女は元々ブラックウッド家の隠密になる予定だったから、ごねたりしないさ」
「本当に? ヴィンセント様は彼女のことを好きになっていませんか?」
「彼女のことは信頼しているけれど、女性として好きなのは君だけだよ」
甘く囁き交わすような会話は続いていたが、それ以上は聞いていられなかった。ノエルは素早く踵を返してその場を立ち去った。
それからどう帰ったか記憶にない。気づけばノエルは自室に戻っていた。手のなかには割れないようにと慎重に運んだクッキーの入った袋がある。
(馬鹿みたい……)
ヴィンセントの笑顔を想像しながらこれを作っていた少し前の自分を思い出してそう思う。
全部彼女ひとりが舞い上がっていただけだった。あれは確実に恋人との逢瀬である。
ヴィンセントにはとっくに特別がいて、ノエルは彼女をミカエラから守る盾にされたのだ。あの優しい態度も、従順に盾を全うさせるためのものに過ぎなかった。
熱いものが込み上げて来てぐっと堪える。
クッキーの袋のリボンをむしるように解き、破く勢いで包装していた布や油紙を開いた。
包んだ時と同じく綺麗な仕上がりのクッキーをひとつ摘むと喉に迫り上がっていたものを押し返すように口へ放り込む。口から溢れそうな熱いものが出てこないように次々食べ続けた。
袋が空っぽになる頃にはノエルの頬は飲み込めないクッキーでぱんぱんになっていた。
普段は人にやるばかりで、ほとんど彼女の口に入らないクッキーの味はよくわからなかった。
ノエルは口に入れただけで砕けるそれを怒りを込めてもっしゃもっしゃと咀嚼する。
(わたしだって、不誠実な男はお断りよ!)
ふつふつと腹の底が煮えたぎるようだった。
ヴィンセントの行いはあまりにも誠実さに欠けている。ノエルとの婚約はミカエラが原因だが、正式なものだ。なのに他に恋人がいることを黙っていた。
ノエルの中のヴィンセントへの信頼はがた落ちである。
ヴィンセントはノエルの番だ。
でも最初に彼女のことを話してくれていたら、きっとノエルはヴィンセントを諦めて二人の幸せを祈るただの隠密でいられただろう。
しかし、もう無理だった。ヴィンセントとの未来は想像できないから婚約解消には応じる。
婚約が駄目になった程度でノエルは傷つかないから慰謝料を貰うのは癪だが、婚約者を務めた報酬としてなら貰ってもいい。
でも、幸せは祈らない。
二人には多大な苦労をしてから結ばれてほしい。
何より腹立たしいのは、そんな真似をされても、まだヴィンセントが好きな自分だった。
(……はやく、婚約解消できるように、頑張ろう)
視界が滲んでポロリと一粒の涙が零れた。
それは、クッキーが噎せて苦しかったせいである。そういうことに、した。
◇◇◇
婚約解消へ動くにあたってノエルがまずしたのは、兄への相談である。
番に恋人がいて、さらには盾として利用されているなど、両親にはまだ打ち明けられなかった。
かと言ってノエルひとりで解決できる問題ではない。次期当主の兄なら冷静な助言をしてくれるだろうと思い、自分の見聞きしたことを全て話した。
その上で協力を願ったら、予想以上の激怒が返ってきた。
「わかった。あの男を殺そう」
「待って、お兄様落ち着いて」
「……そうだな、殺すだけでは生温い。事故を装い脊髄を損傷させ、身体を不自由にしてからミカエラに引き渡すか」
「やめて、そんなことしなくていいから」
王族相手とは思えないほど過激な発言が次々に兄の口から飛び出す。
静かに怒る兄を宥めるのに小一時間ほど時間を要した。
「……不服なことこの上ないが、ノエルの婚約はミカエラを片付けない限り解消できない」
「そうだよね……」
「やはりあの男を暗殺しよう。アッシュフィールド家を相手取るより楽だ」
「さっきと同じ結論になるのやめて」
何かとヴィンセントを暗殺したがる兄を諌め、ミカエラを排除する方向へ修正する。
それも父が熱心に調査を進めているので、ノエルにできることは特になかった。
「速やかな婚約解消のために奴の不貞の証拠を揃えておこうか。王家側に渋られると面倒だ」
「ミカエラとアッシュフィールド家がいなくなればわたしなんて用済みでしょ?」
「そうでもない。ノエルを婚約者に選んだのは陛下だ。あの方が納得する証拠を用意しないと婚約継続、いや、恋人がいても結婚させられるぞ」
それは絶対に嫌だ。他の誰かを愛する番を隣で見続けるなんてノエルが狂ってしまう。
なんとしてでも証拠を集めて婚約は解消したい。
つつがなく婚約解消されたら、当面は領地に籠ることになるだろう。
番への未練を断ち切るには距離を取るのが一番いい。領地へ帰ってもノエルに出来る仕事はないが、黒い森へ行きたかった。
あの森の奥にはかつて先祖が暮らした古い集落の跡地と一族の墓地がある。
ブラックウッド家の人々は死後、ふるさとの土へ還ることを望んだ。
本当かどうかわからないが、人としての生を終えた一族の者は狼に生まれ変わるという言い伝えがある。
いつか彼女も還る場所で、先祖たちかもしれない狼に交じり、墓守でもして過ごしていれば、いずれ恋の熱病も治るかもしれない。
ヴィンセントの不貞の証拠集めは兄と、協力を申し出てくれたフィルがやってくれることになった。
フィルは現在も交代でヴィンセントの警護にあたっている。
「第二王子の恋人はレスリーという名の伯爵令嬢でした。一年前、行儀見習いの名目で第二王子付きの侍女になり、半年後に王妃付きに異動、今回の総取っ替えでまた第二王子付きに戻りました。
どうも、王子がミカエラから逃げる時に協力する内に深い仲になったようですよ。ただ王子が慎重に隠しているから、表向き二人はただの主従でしかありません」
「ミカエラ対策だね。証拠は集まりそう?」
「まぁ、俺らに隠れて逢引なんて不可能ですから。他の奴らにも頼んで細かく記録を取っときますよ」
「陛下はそれで納得してくれるかな……」
フィルの報告を受けるノエルの横で、兄は黙り込んでいた。落ち着きがなく、心なしか不機嫌そうだ。
「……お兄様、どうしたの?」
「今日王子の浮気相手を見てからずっとあんな感じっす」
サディアスは何かもの思いに沈んでいるようで、二人の会話にも気づいていない。
様子がおかしい兄に首を傾げつつ、ノエルはフィルの発言をひとつ訂正した。
「フィル、浮気相手じゃないよ。恋人」
「浮気ですよ。姫さんという番がいながらあんなつまんねー女と浮気しやがって」
「落ち着いて。殿下は番がわからないから仕方ないよ」
「あんな媚び売ることしか取り柄が無さそうな女……。
姫さんは鼻が利くし、地獄耳だし、美味しいクッキーが作れるのに……」
「……そうだな。ノエルと比べるとつまらん普通の女だ。あれを選ぶアイツは趣味が悪い」
「ちょっ、二人ともやめて」
フィルの身贔屓が過ぎる発言に黙り込んでいた兄が便乗する。
それを止めるノエルを無視して二人による褒め殺しが始まった。ノエルは羞恥に悶えたが、終わる頃には随分傷ついていた心が慰められていた。
ノエルにはこうして辛い時に支えてくれる家族がいる。例え番と結ばれなくても幸せになれると信じられた。
しかし、心の片隅にはいつもヴィンセントがいて、本能が彼に会いたいと訴えかける。
気持ちを抑えようにも、ヴィンセントは直接彼女を害したことがない。
いつも優しい彼しか知らないノエルはどうやってもヴィンセントを嫌うことができなかった。
それでも、例の会話を思い出すと心は冷える。
もう関わりたくないと思う一方で、ヴィンセントとの楽しい茶会の夢を見て、寂しさに泣く日もあった。
そんな不安定な精神も、年末の忙しさに紛れてなんとか冷静に振る舞えるまでに落ち着いた。
あれから一度もヴィンセントと会う機会がなかったのが幸いだった。
そして年が明けた数日後、ノエルは最期の夜会に出席したのだ。
ノエルの前世はこれで終了です。次からまた現代に戻ります。




