ノエルの百年前 中
ヴィンセントの周辺を探った結果は一日で出た。
恐ろしいことにあの侍女以外に三人もの使用人がヴィンセントに薬を盛っていたらしい。それぞれ興奮や催淫など、効果の違う薬を勝手に摂取させられ続けていたのだ。当然、犯人たちは捕らえられた。
ノエルはその報告を忙しい父に代わり、兄から聞いた。
「いつから薬が盛られていたかはまだわかっていない。だが、ここ一年あまりミカエラの接触が増えていたそうだからな……。まぁ、ヴィンセント殿下は逃げ回っていたからほとんど会っていないらしいが」
「もしかしたら前に殿下が倒れられたのは……」
「薬が原因かもしれないな。まったく、恐ろしいな。好意を寄せている相手を殺す気なのか?」
サディアスの言葉にノエルは深く頷いた。
幸いヴィンセントは体調を崩すだけで済んだが、薬の飲み合せによっては最悪死んでいた。
「殿下にはしばらく療養して頂かなければな。その間に身辺を洗い直すらしいから、ノエルもしばらく王宮へは行かないように。寂しいだろうが、我慢しなさい」
「はい」
「実行犯は捕まえたが、首謀者のミカエラに繋がる証拠はまだない。早いうちになんとかしないと死人が出そうだ」
サディアスは渋い顔をして、ため息を吐いた。
薬を盛っていた実行犯たちは今取り調べを受けている。しかし、薬の入手先や誰の指示で動いたかはまだ判明していない。
それらの質問をすると、あの侍女のように目の焦点が合わなくなり、人形のように固まってしまうのだ。
しばらくすると正気に戻るが、その時には質問されたことを忘れている。全員がそんな調子でなんの証言も取れていない。
このままでは口封じを狙うアッシュフィールド家に実行犯たちが暗殺される恐れがあった。
「やり口は完全にアッシュフィールド家なんだがな。証拠がなければどうにもならん」
「やり口?」
「あの家の連中はああやって他人を使って暗殺をするんだ。自分の手を汚すのが嫌なんだろう」
「毎回そうなの?」
「ああ。やつらは他人を操る技術を持っているらしい」
「他人を、操る?」
「そうだ。うちも思考を誘導するくらいは出来るが、アッシュフィールド家は完全に他人を支配下に置く……洗脳とでも言うべきことが出来ると父上から聞いた」
サディアスの話にぞくりと背筋に悪寒が走る。
ヴィンセントに薬を盛った使用人たちも、もしかしたら洗脳されて犯行に及んだのかもしれない。
自分の意思に反して罪を犯した結果、彼らは王族に危害を加えたため、最終的に処刑されることが決まっていた。
それがわかっていて彼らにやらせたのだとしたら、ミカエラはあまりに他人の命を軽んじている。
「そもそもあの家は最近きな臭い。妙な実験をしているという噂があるしな」
「実験?」
「ああ。薬を使って人工的に獣人を生み出す実験をしているとか」
「そ、そんなことできるの!?」
「どうだろうな。人間も、遡れば獣人だった訳だから、不可能ではないと思うが」
「獣人を人工的に作って、一体何がしたいんだろう……」
恐ろしさに体が震える。尻尾の毛も逆立って戻らなくなってしまった。
ミカエラもアッシュフィールド家も知れば知るほど不気味に感じる。
ノエルは獣人の力を活用して隠密をしている家の娘ではあるが、ブラックウッド家の隠密にはただの人間もいる。結局は訓練次第でどうとでもなるのだ。
世界から獣人が減っても、特にそれが原因で社会が破綻したりはしていないし、獣人の力は必要不可欠なものではない。体を改造してまで求めるものとは思えなかった。
「やはり、ゼパイル閣下の抜けた穴は大きいな……。あの方が生きていればあの家はもっと大人しかっただろうし、ミルメコレオだって侵略戦争を吹っかけるなんて愚かな真似はしなかったはずだ」
「そうだね。そうだろうね……」
ゼパイル閣下、というのは三年前に亡くなった王族唯一の竜人だ。今の国王の伯父で、ヴィンセントにとっては大伯父にあたる。
彼は亡くなるまでずっと、圧倒的な竜人の力を誇示することで王室の権威を守ってきた。ヴィンセントのことも、生前の彼が庇護していたらしい。
だが、いくら頑強な竜人でも寿命は如何ともしがたい。
隣国のミルメコレオはゼパイルが亡くなった一ヶ月と経たないうちに宣戦布告をしてきた。
ズメイ王国は大陸最大版図を誇る強国である。
その土台を築いたのは他の獣人よりひとつもふたつも高い戦闘能力を持つ竜人の力によるものであったのは確かだ。
しかし、国が豊かになったのはその後の王や貴族、何より国民の地道な努力の成果である。
王族から竜人がいなくなったところで国力には歴然とした差がある。簡単に攻め落とされるような国造りはしていない。
それを理解していないのか、ミルメコレオ王国はズメイからの和平交渉の使者を殺して一方的に開戦を宣言した。
先手を打たれたズメイ王国だったが、圧倒的な兵力によってすぐさま持ち直した。
そのまま戦い続ければ半年と経たずにこちらが勝てただろうが、早く決着をつけたかった国王の命令で、王族の暗殺計画が持ち上がった。
「暗殺計画を主導したのがアッシュフィールド家なんだよね?」
「ああ。陛下は戦争を強行している王族だけでいいと命じられた。
しかし、アッシュフィールド家は独断で一番身分の低い側室の産んだ、まだ幼い王子以外全員を殺した。あれのせいで結局ミルメコレオ王国は内乱状態になってしまった」
「なんで、そんな……」
「国のためだと言っていたが、本当のところは手柄を立てて自分たちの発言力を高めたかったのだろうな。あの家は昔から権力欲が強い」
しかし、その目論見は外れた。
国王の命令を無視したことによって、普通に戦争を終えた場合の予測よりもずっとミルメコレオは荒廃してしまったのだ。
当然、国王はアッシュフィールド家を疎んだ。
名家故に表向き冷遇することはないが、少しずつ要職から遠ざけ、権力を削ぎ落としている最中だそうだ。
その意図に気付いているアッシュフィールド家はなりふり構わず直系の王子、ヴィンセントを取り込もうとしている。
「アッシュフィールド家のことを、うまく収められるかどうかに今後のこの国の未来がかかってくると俺は思っている。
これからの時代、圧倒的な竜人の力や暗殺という暴力を安易に頼ってはいけない」
ノエルはサディアスの言葉に首を傾げた。その言葉の意味を理解するには彼女はいささか経験不足だった。
隠密と暗殺。ブラックウッド家とアッシュフィールド家は近い職域でありながらそれほど交流はない。
特に最近になって関係が悪化した。きっかけはやはりあのミルメコレオの大量暗殺事件だ。
アッシュフィールド家が暗殺を行う際の下準備と後始末は昔からブラックウッド家の役目だった。そのせいか、アッシュフィールド家はブラックウッド家を下働きのように思っている。
ブラックウッド家は完全に仕事と割り切った付き合いだったのだが、ミルメコレオの後始末は酷かった。
予定にない人物まで殺したせいでミルメコレオの一部にズメイからの干渉があったと気づかれてしまい、揉み消しにブラックウッド家が大量の人員を投入することになったのだ。
幸い揉み消しはうまくいったし、内乱も最近やっと落ち着いてきたが、その間にたくさん無辜の民が死んでいった。それを見届けたのはブラックウッド家の隠密たちである。
アッシュフィールド家が国王の命令通りにしていたら避けられた事態に憤る一族は多かった。
これなら情報収集から暗殺まで、すべてブラックウッド家がやった方がずっとましである。
国王も同じ意見で、今後そういった仕事はすべてブラックウッド家に任せると言われている。
兄はいずれ、隠密を束ねる立場としてそこに至るまでのすべてを見届けたが故にそう考えるようになったのだろう。
ノエルにはまだわからないが、ヴィンセントを守りたいし、兄が納得できる形で今回のことが片付くように死力を尽くそうと決意を新たにする。
そして、ふと、彼女は今すべての鍵を握っているだろうミカエラに会ったことすらないことに今更気づく。
「……ねぇ、兄様。私まだミカエラを見たことすらないんだけど」
「近づかない方がいいぞ」
「遠目にでも見た方がいい?」という言葉を紡ぐ前にサディアスに遮られた。兄は苦々しげな表情をしている。
「全力で避けてくれ。絶対に関わるな」
「いや、まだにおいを覚えてないから避けられないんだけど」
「そこをなんとかしてくれ」
「無理言わないでよ」
音とにおいが既知の相手ならノエルは一切接近を許さない。
しかし、初見の相手を避けるのはいくら鋭敏な知覚を持っていても無理である。
「せめてミカエラがどんな人なのか教えて」
「……表向きは才色兼備の理想的な令嬢と言われている」
「ヴィンセント様の婚約者候補を社交界から追い出したと聞いたけど」
「奴は人を操るのがうまいんだ。他人の敵愾心を煽り、自分にとって邪魔な者を排除する。流石に洗脳まではしていないだろうが……」
社交界でのミカエラは黒髪に赤い瞳の神秘的な令嬢として注目を浴びている。評判はよく、誰にでも好かれているそうだ。
「それは……。ヴィンセント様、対応に苦労してそう……」
「してるし、番の件が知れ渡ってるから婚約は秒読みだと噂されている」
「あれ? 番の件は公式で否定されてるよね?」
「そんなもの番に夢見る令嬢たちには無意味だ。昨今の若い連中は、ゼパイル閣下の恋物語にどっぷり浸かって育ったからなぁ」
「ああ……」
少々年寄り臭いサディアスの言葉にノエルはなんとも言えない気持ちになる。
王族という立場上、竜人はあまり番と出会えない。かなり長い間、王族の番夫婦は生まれていなかった。
そんな中、ゼパイルは久しぶりに番と結婚できた竜人である。しかも相手は平民だ。
身分制が厳しいズメイで、番でなければ許されなかったであろう貴賤結婚。しかも、ゼパイルは妻のために王位を放棄している。
なんの教育も受けて来なかった平民の女性に年々役割の増える王妃を任せるのは負担が重すぎると判断されたのだ。
一代限りの公爵位を授かり、国の守護神のような立場に就いたゼパイルは妻のために美しい宮を建てた。彼女の望みはなんでも叶え、それはそれは溺愛した。
という話が小説や演劇、流行歌に絵画までありとあらゆる媒体を介して知られている。
ほんの少し前、実在した人物による実話は深く女性たちの心に刺さったらしい。番に憧れる女性は現在も増える一方だ。
兄がその余波を受けて令嬢にモテているとオフィーリアに聞いたことがあった。
ミカエラもそんな世間の風潮をうまく利用しているらしい。
(思った以上に曲者なのかも。気をつけなくちゃ)
媚薬擬き事件では素人に毛が生えた程度のお粗末な印象を受けたが、サディアスの警戒ぶりからして一筋縄ではいかない相手のように思えた。
(ヴィンセント様……。少しは気が休まってるといいな)
ノエルは窓から小さく見える王宮を眺めて、ヴィンセントに思いを馳せた。
◇◇◇
あの事件から一ヶ月、ノエルは邸のキッチンにいた。
「姫さん、手伝おうか?」
「ありがとう、フィル。クッキーがもう冷めてるからお皿に盛ってくれる?」
「わかった」
甘く香ばしい香りの中、ソワソワとキッチンへ入ってきたのはフィルというブラックウッドの隠密のひとりだ。
灰色の髪に琥珀色の瞳の地味で柔和な顔立ちをした、いかにも一族らしい特徴を備えた青年である。
彼は今、ヴィンセントの周辺を探るという仕事を終えて帰ってきたところだ。
今日は彼以外にも他国から呼び戻された隠密が複数人滞在している。彼らを労うためにノエルは特製のクッキーを焼き、冷ます間にハーブティーを淹れていた。
「……フィル、味見してくれる?」
「やったぜ。いただきます」
そう頼むとフィルは素早く一枚クッキーを口へ放り込む。
ノエルの作るクッキーはブラックウッド家に伝わる特別なレシピだ。一族全員子供の頃からの慣れ親しんだ味である。
一口で食べられるコイン大のサイズで、優しくどこか懐かしい味わいはそれほど珍しくはない。
ただ、ホロホロと崩れるような口溶けはなかなか他にはないと自信を持って断言できる。
「ん、うまい!」
「そう、よかった」
予想通りの答えに満足して、ワゴンへハーブティーとクッキーを載せた。
彼女が取っ手を掴む前にフィルがワゴンを押してキッチンの出口へ向かって行く。
「ありがとう、フィル」
「どういたしまして」
隣に並んで礼を言うと笑顔が返って来た。
フィルはノエルと同年代で、幼い頃からの付き合いだ。実は彼女に番が見つからなかった際の結婚相手の候補でもあった。
フィルへの感情は幼馴染の域を出ないが、ヴィンセントに出会う前は漠然と将来は彼と結婚するのだろうと思っていた。
「姫さんごめんな、時間かかって。もうすぐ王子様と会えるようになるから」
ノエルに番が見つかって、二人の道は分たれたが、関係は変わらない。フィルは純粋に番と出会えたことを祝福してくれた。
そして、ノエルの代わりにヴィンセントを守ってくれている。そんな優しいフィルにも早く番との出会いがあればいいなと思いながら首を振った。
「気にしないで。ヴィンセント様の身辺整理、大変だって聞いたよ」
「おう、なかなかだった。でも番と会えなくて寂しいだろ」
「まぁ、ね。でも、わたしにできるのは待つことだけだから」
「姫さんは我慢強いな。大抵番と出会った奴らは片時も離れたくないってべったりになるのに」
フィルは褒めてくれたが、そうでもない。何度もヴィンセントの元へ潜入できないか検討して、諦めたのだ。
フィルを含め、ブラックウッド家の精鋭が調べ回っている中にのこのこと邪魔をしに行くようなことはできないし、そもそもノエルも暇ではない。
一ヶ月後に迫った新年を祝う夜会、通称『冬の祝祭』で正式に婚約者と発表されると決まり、勉強にマナーにダンスにと、忙しかった。
一応貴族の一員であるため、社交界に必要なあれそれは一通り学んではいる。しかし、実践経験はゼロのノエルはみっちりおさらいをしていた。
このところは夜になるまでスケジュールはぎゅうぎゅうに埋まっている。今日は久しぶりの休みだった。
「そう言えば、使用人は全員入れ替わったんだよね?」
ノエルは一番気になっていたことを確認する。
「ああ。今度は陛下が自ら選定したから大丈夫だろ。そうそう、陛下が本気で切れてて大変だったぜ。王妃殿下はしばらく謹慎だってよ」
「それはまぁ、仕方ないね。わたしは正直ヴィンセント様が楽になるならなんでもいいかな」
何故国王が王妃に怒っているかというと、基本的に王子たちの使用人の手配は王妃の仕事だからだ。
王妃は決して無能ではないのだが、王太子を贔屓している。その分ヴィンセントへの対応がなおざりになり、彼の周辺にミカエラの息のかかったものが混ざったということらしい。
「ヴィンセント様、元気だった?」
「体の方は問題ないそうだ。使用人が代わったことも、まあ、慣れてるみたいでなんとも思ってなさそうだった」
「慣れてる?」
「今までも王子様についた仕事のできる奴は王妃が王太子や自分のところへ引き抜いてたらしいぜ。そのせいで身の回りにいる人間がコロコロ代わってたんだとか」
ノエルは呆れて言葉が出なかった。
国王に側室はいないので、ヴィンセントは当然王妃の実子である。なのにこれほど対応に差があるのは何故だろうか。
あまりにもヴィンセントを蔑ろにし過ぎているようにノエルは感じた。
「お嬢様」
もう少しヴィンセントの話を聞きたいと質問をしようとした瞬間に家令に呼び止められる。
「第二王子殿下がいらっしゃっておいでです」
「えっ? えぇっ!?」
突然の訪問に驚愕する。出歩いて大丈夫なのだろうか。心配になって咄嗟にフィルの顔を見ていた。
「掃除は終わったから、行動制限はなくなってる。まさかこんな早く会いに来るとは思ってなかったが」
何も言わなくともフィルはノエルが訊きたいことを答えてくれた。ヴィンセントは自由になって真っ先にノエルに会いに来たのだ。
そう知ると自然と胸が高鳴る。ノエルは慌てて自分の身なりを確認した。
今着ているのは身内とはいえ客人に会うためドレスだが、動きやすい簡素なものだ。
「き、着替えて来る!」
「そのままで良いとの仰せでしたよ。急な訪問でしたから、気を遣わずとも良いと」
「でも……」
「大丈夫だ。何着てても姫さんは可愛いから。それよりあんま待たせる方が良くないんじゃないか。多分忙しい合間を縫って来たんだろ?」
フィルの身内贔屓が過ぎる発言に続いた尤もな言葉にハッとした。
成人しているヴィンセントは王族として政務の一部を引き受けている。恐らく調査の間に仕事は溜まって忙しいはずだ。
「そうだった! ごめんフィル、クッキーとお茶をお願い。あとみんなには『ご苦労様、ゆっくり休んでね』って伝えて!」
「了解」
その場でフィルとは別れ、ノエルは家令と共に応接間に急いだ。
慌てて応接間へ駆けつけたノエルをヴィンセントはいつもの穏やかな微笑みで迎えた。
「先触れもなく来てごめんね」
「いいえ。久しぶりにお会いできて嬉しいです」
「ぼくも嬉しいよ」
「お身体は大丈夫なのですか?」
「ああ、大丈夫だ。医師たちが言うにはぼくに使われていた薬は効果が薄いものばかりだったそうでね。後遺症はないよ」
兄やフィルから話は聞いていたが、実際に元気な本人の姿に加え、問題ないと断言されて安堵した。
見たところ顔色もいいし、おかしなにおいもしない。健康に問題は無さそうだ。
「それで、本題なんだけれど……」
挨拶を交わし、ノエルがソファーに座ったところでヴィンセントはそう切り出した。
従者に指示をして大きな箱を持って来させる。ベルベットの青いリボンが結ばれた艶消しの黒い箱がテーブルに置かれた。
「えっ?」
「来月の夜会に間に合って良かったよ。開けてみて」
言われるままにリボンを解き、蓋を開ける。
そこに入っていたのは明るい青に金の刺繍が施された見事なドレスだった。あまりの素晴らしさに息を呑む。
「これは……」
「ドレスを贈るのは婚約者の特権だからね」
「わ、私に?」
「勿論だよ。気に入ってくれた?」
「は、はい! すごく素敵です!」
「良かった。女性にドレスを贈るのは初めてだから、不安だったんだ」
ノエルもまた身内以外の異性からプレゼントを貰うのは初めての経験だ。
感動している彼女に安心した様子のヴィンセントは追加で小さな箱をいくつも持って来させて積み上げた。中身は装飾品や靴など、つまり夜会に出席するために必要なもの一式である。
あまりの多さと高価さにノエルは慄いた。
「こんなに頂けません!」
「これくらい、婚約者相手に贈るなら当然だよ。それにこれからもミカエラのことで迷惑をたくさんかけると思うし、貰っておいて」
「そ、そんなこと気にしなくとも……」
もし迷惑をかけられるとしたら、それはミカエラのせいであってヴィンセントの責任ではない。
それにノエルはミカエラのことを納得ずくで婚約者になったのだ。そんな言葉はヴィンセントのキラキラした笑顔の前に消えた。
「夜会はあまり好きではないけれど、このドレスを着た君が見られるのなら楽しみになってきたよ」
「うっ、はい……。わたしも楽しみです……」
ヴィンセントは非常に楽しみにしてくれているようだ。
ノエルの容姿では残念な仕上がりになりそうな気がしたが、腹を括る。
ノエルは王子の婚約者になったのだ。
これからは着飾ることも、高価な贈り物を受け取ることも当たり前にしていかなければならない。むしろ、これくらい些細なことである。
密かに気合いを入れ直していたノエルはヴィンセントがじっと見つめていることにやっと気がついた。
「な、なんでしょう?」
「いや、ノエルから甘い匂いがするね。焼き菓子みたいな香ばしくて甘い匂いだ」
「ああ、それは先程までクッキーを作っていたからですね」
「すごい、菓子が作れるのか」
「いえ! クッキーしか作れません!」
感心するヴィンセントに、その点だけは強く主張しておいた。
他の菓子を作ったことはない。ノエルはそこまで器用ではないので、まともに作れるのはあのクッキーだけだと断言できる。
「……食べてみたいな」
「えっ」
「君の作ったクッキーを食べてみたい」
「だ、だめです!」
ノエルは咄嗟に拒否していた。いくらヴィンセントが望んだとしてもそれは出来なかった。
「わたしのクッキーはヴィンセント様に差し上げられるような大層なものではありません!」
「婚約者が作ったものならどんなものでも食べてみたいよ」
「そ、それは嬉しい、ですが……。その、今日はだめです」
「何故?」
「多分もう全部食べられちゃっているので……」
ノエルの答えにヴィンセントは目を丸くする。
時間をかけてかなり大量に作ったが、たかがクッキーである。
フィルを含めた若者たちにとっては小腹を満たす程度の量しかない。多分、五分と経たずにひとつ残らず完食しているはずだ。
そして、フィルは出来の悪いものまですべて持っていってしまった。
だからヴィンセントに融通できるクッキーはないのである。
「……そうか。それは残念。じゃあまた今度、ぼくのために作ってほしい」
「そ、それは」
「君が作ったものが食べてみたいんだ。駄目かな?」
眉を下げ、懇願するような眼差しで頼まれたら嫌とは言えない。ノエルは渋々頷いていた。
「……ちゃんと、毒見をして貰ってから食べて下さいね」
「ありがとう、ノエル。でも君はミカエラみたいなことはしないだろう?」
「いくら婚約者だからって、信用しすぎてはいけません!」
「君だから信用しているんだ」
そう言い切られてノエルは言葉が出なかった。頬が熱くなり思わず顔を覆う。
(どうしよう、すごく嬉しい……)
婚約者だからとか、臣下の娘だからなど関係なく、ノエルだから信用していると、ヴィンセントは言ってくれた。
こんなに全幅の信頼を寄せられて、嬉しくならないはずがない。
ノエルはほわほわした気分のまま用の済んで城へ帰るヴィンセントを見送った。
二人の関係は一歩一歩、確かに縮まっている。それが実感出来て、ノエルは幸せでいっぱいだった。




