鬼ごっこ
「急にお呼び立てして申し訳ありません。アンジェリカ様」
「あら、気にしないで。むしろ助かったわ」
さわさわと梢の鳴る音が聞こえる穏やかな昼下がり。
ノエルはアンジェリカといつものガゼボで向き合っていた。
近くではエルドレッドがよちよちと庭を散歩している。
それを見守る乳母や護衛の騎士数人と、姿を隠しているが、隠密が二人。
いつも静かで人気のない離宮が珍しく賑やかだった。
あの後、リサの協力もあって、コンスタンスが接触を持つ前にアンジェリカを離宮へ招くことが出来た。
事情を説明したあとのアンジェリカの素早い行動のおかげである。
懐かしい香りを纏う彼女は大きな腹を摩って、物憂げなため息を吐いた。
匂いのせいかオフィーリアの面影がその横顔に重なる。
「……正直に告白すると、逃げていいのかって迷ったの。
わたくしはこれから王妃になる人間だし、自分に降りかかる火の粉ぐらい自分で振り払えるようにならないとって」
「そうですね。王妃になられるなら、そういった強さが必要でしょう。
ですが、今はおひとりの体ではありません。あなたが危険に晒されるということは即ちお腹の御子様の命の危機です。今は守られていてください」
「そうよね。わたくしの侍女にもそう言われたわ」
国元からついて来てくれた忠義者だという侍女は、東の宮に残ってコンスタンスたちに対応してくれているそうだ。
王女たちが彼女にどんな態度を取るか少し心配になる。
アンジェリカの不在を知って、コンスタンスはどんな選択をするか。彼女を知らないノエルには予想がつかなかった。
「トラヴィスは大丈夫かしら? 随分付き纏われているみたいね」
「午前中の会議はほとんど話が進まなかったようです。王女が話を無理矢理脱線させて自分の話をするそうで」
「まあ、苛々してそうね。トラヴィスはそういう女性は好きじゃないわ」
「仕事の話をしているところに私的な会話を捩じ込んでくる人間は、男女問わず嫌われるかと」
「うふふ……。それもそうね。そういう手合いはわたくしも嫌いだわ」
会議はまったく進まなかったようだが、それくらいは折り込み済みだ。
トラヴィスが苛立ったとしたら、その後昼食を共にしようとしつこく強請られたことだろう。
色々と理由を挙げて断ったのだが、とにかく一緒に食事がしたいと譲らず、見かねたヴィンセントが割って入ったそうだ。
――兄上は私と昼食を摂る予定だ。私がいても平気なら同席するがいい。
ヴィンセントはいつもの布を被っていたが、鋭い牙が並ぶ口元と鈍く輝く鱗をちらりと覗かせた。
たったそれだけでコンスタンスは怯えて辞退したそうだ。
そんなことがあったので、ヴィンセントは昼は戻って来なかった。
少し残念だったが、ノエルもその頃は父へ報告をしたり、アンジェリカを招く準備に忙しかったのでちょうどよかったかもしれない。
気持ちを吐露したアンジェリカは気分が軽くなったのか、ハーブティーに口をつける。
「なんかお腹が空いちゃった。妊娠してからすぐお腹が空くのよね。そのタルトが食べたいわ」
明るい調子でそう言うので、リサが素早くタルトを切り分け目の前へ置いた。
今日の茶請けは今が旬のブラックチェリーをぎっしり敷き詰めたタルトだ。
元々ツヤツヤのチェリーがシロップを纏って輝いている。
見た目が美しく、美味しい上、ノエルも食べられる。
少ない時間で完璧な準備をしてみせたリサはノエルにはもったいないほど有能である。
「美味しそう! わたくし、チェリーが大好きなの!」
「そうなのですか?」
ノエルは僅かに目を見張った。ブラックチェリーはオフィーリアの好物でもある。
またアンジェリカにオフィーリアの面影が重なり、ふと、以前読んだ先祖の手記を思い出した。
――においが変わっても個を特定できるにおいは、魂から出ているのではないか。
もしかしたら、本当だったりするのだろうか。
ヴィンセントは前世と同じにおいを纏っている。
あまり自分の体臭を意識したことはないが、ノエルもまた同じにおいであるような気がしていた。
アンジェリカやトラヴィスも記憶がないだけで、生まれ変わった可能性は捨てきれない。
「ああ〜。おいしい〜。おいしいわ〜」
ノエルがそんなことを考えている横で、アンジェリカは好物を食べてご満悦である。
用意をしたリサも表情は変わらないが、嬉しそうだ。
「お菓子食べるの久しぶり過ぎて唾液が止まらないわ。そうそう、ノエル聞いてよ! 先生ったら酷いのよ。妊娠中は太りやすいからってわたくしお菓子禁止されてるの!」
「えっ、そうだったのですか?」
アンジェリカの言葉にノエルは焦る。主治医に禁止されているものを食べさせてしまった。
「エルドレッドの時にちょっと太り過ぎちゃったからって酷いわ!」
「太ってはいけないのですか?」
「難産になるらしいの。でもエルドレッドはめちゃくちゃ痛かったけど、つるーんって産めたから今回も大丈夫だと思うのよね」
根拠のない自信を滲ませてタルトを完食したアンジェリカはおかわりを要求している。
リサは逡巡しながらも、一切れ切って差し出した。
ノエルは改めてアンジェリカの姿を見た。前より頬が丸くなった気がする。
「ところで、ヴィンセントとの同棲はどんな感じなの?」
二切れ目のタルトを三口で完食したアンジェリカが突然そんな話を始めてノエルは首を傾げた。
「どんな感じ、とは?」
「どれくらい進展した? 口づけくらい? あっ、まさか手は出されてないわよね?」
「えっ、えっ!?」
思わぬ話の展開についていけない。
またおかわりを要求され、止めなくていいのかというリサの視線に答えられないほど動揺した。
「流石に婚約する前にそういう仲になると色々言う人がいるから内緒にした方がいいわ」
「な、なってません! ヴィンセント様は紳士なので、その、口づけもまだです!」
「えー? 口づけもまだなの? ヴィンセントの意気地なし……」
あらぬ疑いを晴らしたら、今度はヴィンセントが意気地なしになってしまった。
ヴィンセントを庇うために口を開こうとしたら、フッと知った臭いが鼻を掠め、緊張が走る。思わず臭いが漂ってきた方角を睨んでしまった。
コンスタンスの悪臭がする。どうやら彼女はアンジェリカを追いかける選択をしたらしい。
なんとしてでも鉢合わせをさせる訳にはいかない。
すぐにアンジェリカを逃がす必要があった。ノエルは立ち上がる。
「十時の方角より対象が接近。偵察せよ」
ノエルがそう命じると、隠密がひとり音もなく動いた。
彼女の突然の行動に、近寄ってきたエルドレッドへ「最後の一口あげる」とチェリータルトを食べさせていたアンジェリカは何かを察して腰を浮かせる。
「アンジェリカ様、東の宮へお帰りください。コンスタンス王女がこちらへ向かっています」
「あらあら、中々積極的な方ねぇ。
……東の宮に戻ってもいいけれど、とことん振り回してあげたいし、お散歩ついでに次はお義母様のところにでも行こうかしら?」
「そうですね。そちらの方がいいかもしれません」
エメラインは現在新王宮で仕事中だ。
彼女は表向き側室でしかないため、特定の執務室を持たない。
その日によって息子たちか宰相の執務室で仕事をしている。
アンジェリカは当然エメラインがどこにいるか知っているだろうが、コンスタンスはどうだろうか。
ジャスティーナが同行していても見つけるまでに苦労しそうだ。
「途中までお送りします。リサ、悪いけど招かれざるお客様の対応をお願い」
「かしこまりました。私は大丈夫なのでお嬢様は絶対近寄らないでくださいね」
「わかってるわ」
ノエルは臭いを嗅いでコンスタンスが来る方向を確認しながらアンジェリカたちを誘導する。
アンジェリカ本人は落ち着いたものだが、護衛の騎士たちは緊張の面持ちで警戒していた。
離宮を隠す林を抜ければ東の宮は目の前だ。
コンスタンスの臭いは東の宮から離宮に向かって進んでいる。どうやらうまく逃げられたようだ。
アンジェリカたちとはそこで別れ、ノエルは離宮に戻った。
音を立てず、密やかに林を進むと臭いはどんどん濃くなっていく。
鼻を摘んで限界ギリギリまで近づくと、ちょうどガゼボの辺りで複数の令嬢がリサに詰め寄っていた。
「いないですって?」
冷たくよく通る声の主はジャスティーナだ。
彼女がリサの目の前に立ち、コンスタンスはその斜め後ろで二人を見ていた。
コンスタンスを囲むのは見覚えのあるズメイの令嬢たちと、王女の護衛騎士だ。
「殿下がわざわざおいでくださったのに、いないで済むと思っているの?」
「そう、言われましても……。アンジェリカ妃殿下は今しがた東の宮に戻られました。ノエルお嬢様は妃殿下を送って行かれましたので、今この離宮には使用人しかいません」
威圧的なジャスティーナに対し、リサはおどおどとしている。
貴族令嬢に怯むリサではないので、当然演技だ。
下手に堂々とした態度を取ると生意気だと暴力を振るわれる可能性がある。
お手本通りの無難な対応をリサはとっていたが、それでもノエルは心配でハラハラしながら見守った。
「本当に? 離宮の中に匿っているのではなくて?」
「そうお疑いなら確認なさってくださって構いません。第二王子殿下やお嬢様からは特に誰を入れるなとは言われていませんので……」
「……」
ジャスティーナはちらりと離宮を確認した。
この離宮は、かつてゼパイルが番のために建てたものだ。
平民であった彼女に合わせ、離宮の中でも比較的こぢんまりとしている。それでも調べて回ったらそこそこ時間を食う広さだ。
「……アンジェリカ妃は東の宮へ戻ったのね?」
「は、はい! 私はそう聞きました」
黙り込んだジャスティーナに代わり、コンスタンスが口を開いた。ノエルの位置からだと彼女の顔は見えない。
「では、戻りましょう。誰もいないなら時間の無駄です」
そう言ってさっさと踵を返す。
周りの者は慌てた様子でそれを追った。その後を隠密が追いかけるのを確認してから、ノエルは隠れていた場所から出る。
「あっ、お嬢様。お帰りなさいませ」
「ただいま。大丈夫だったみたいね」
「勿論です。ただ、あんまり足止めできませんでした」
「アンジェリカ様は今頃もうエメライン様のところに着いてるから十分よ。ご苦労様」
労いの言葉をかけるとリサは彼女にしては珍しく無邪気な笑顔を浮かべた。
しかし、その手は茶器やアンジェリカが食べきったタルトの乗った皿をテキパキと片づけている。侍女の鑑だ。
ノエルは恐る恐る摘んでいた鼻を解放した。
相変わらず強烈な臭いだが、我慢できるくらいまで薄れていた。
すん、と鼻腔を抜ける悪臭に少し違和感を覚える。気絶覚悟ですんすんと漂う臭気を吸い込んだ。
「お嬢様! 気絶しますよ!」
リサに止められるが、違和感が拭えず、今度は地面に張り付き、コンスタンスが立っていた辺りの臭いを嗅ぐ。
「お嬢様! ドレスが汚れますよ! お嬢様!!」
リサの制止はあまり耳に入っていなかった。
一番強い腐敗臭がむわりと他の臭いを掻き消そうとする。
ノエルは目を瞑り、気をしっかり持って臭いを嗅ぎわけることだけに集中した。
血の臭い、獣の臭い、生肉の臭い、ほんの少し混ざる何か薬のような臭い。
その先に、恐らくコンスタンス自身の体臭と思われるにおいを感じ取った。
(――違う)
ノエルは目を開き、愕然と地面を見つめた。
そこにあるのは綺麗に整えられた芝生だけだが、ノエルの頭の中には先程ここに立っていたコンスタンスの姿が浮かんだ。
(違う。隠し通路からしたにおいと全然違う!)
直接対面した時は臭すぎてわからなかったが、少し薄れたこのにおいならわかる。ふたつのにおいは別人のものだ。
隠し通路を使っているのはコンスタンスではない。彼女の周辺にもう一人、よく似た悪臭の持ち主がいるのだ。
(……そもそも、何をしたらこんな悪臭を放つようになるの?)
臭いの強い薬や飲食物などが原因で、悪臭を放つことはある。ただ、体臭がわからなくなるほど臭くなるものは思い当らなかった。
(コンスタンス王女……。あなたは何者なの?)
元々得体の知れなかった彼女がより謎めいた存在に思えて、背筋に冷たいものが走る。
もう気絶覚悟で直接対面しなければいけないのかもしれない。
「ノエルッ!!」
思考に沈んでいたノエルは突然引っ張り上げられて驚き、固まった。
彼女を抱き上げたのはヴィンセントだった。冷や汗をかき、顔色が真っ青だ。
「また倒れたのか!?」
「違います。お嬢様は地面に寝っ転がって臭いを嗅いでただけです」
焦った様子のヴィンセントにリサが冷静に報告した。途端にヴィンセントが脱力する。
コンスタンスが離宮に来たから、心配して駆けつけてくれたようだ。連続で気絶したのに紛らわしいことをしてしまった。
「ご、ごめんなさい、ヴィンセント様。あの、私はとっても元気です……」
「いや、元気なら良かった……。ノエルが無事で、良かった……」
そっと下ろされて壊れ物のように抱きしめられた。
顔は見えなかったが、心臓は早鐘を打ち、濃い汗の匂いがした。よほど急いで来てくれたのだ。
ぽわりと胸が温かくなる。コンスタンスのことで緊張していたのか、体から力が抜ける。
(うん、大丈夫)
コンスタンスは得体が知れないが、きっとなんとかなる。なんの根拠もないが、ノエルはそう思った。




