隠密のお仕事
ノエルからヴィンセントを訪ねることも、訪問を受けることもない夜が明けた。
しっかり休んで絶好調のノエルに対し、朝食を共にしたヴィンセントは少し寝不足なのか隈をこさえていた。
それでも平常通りに仕事をしに執務室へ向かうヴィンセントを見送る。
「昼食はこちらで食べる予定だ」
「わかりました。……ふふっ」
「どうした?」
「何だか新婚みたいですね」
と、ノエルが言ったら盛大に咳き込み、ふらついていた。
体調が悪そうで心配になるが、ヴィンセントにはいつもパーシヴァルがついている。何かあっても彼が何とかしてくれるだろうと、ノエルは隠密として行動を開始した。
まず身支度を整える。ブラックウッド家秘伝の軟膏を体に塗り込み、体臭を消し、昼間だから使用人に紛れるためにメイドの制服を纏った。
念のため投擲用と護身用のナイフを隠し持ち、口と鼻を覆う厚手の布を持ったら準備完了だ。
「じゃ、行ってくる」
「私も行きましょうか?」
「父様から連絡があるかもしれないし、リサは待機してて」
「かしこまりました。気絶なさらないようにお気をつけて。お昼前にはお戻りください」
「はぁい」
心配そうに見送るリサに別れを告げ、ノエルは裏口から離宮を出た。裏庭に広がる林に素早く身を隠す。
コンスタンス王女を調べたいが、臭すぎて近づけないノエルは、まだマシな屋外から攻めることにした。
王宮は目隠し用の生垣や林がいくつも点在している。それに身を隠し、庭から彼女を観察する予定だ。
鮮やかな初夏の庭は爽やかな風が吹き抜け気持ちいい。
ゆらゆらと揺らぐ木漏れ日が音もなく移動するノエルの姿を誤魔化してくれる。
庭で仕事をする庭師や通りすがりの使用人たちも彼女に気づく様子はない。
ノエルは問題なくコンスタンスが滞在中の北の宮に到着した。
(やっぱり……くさい……。でもこれくらいなら中に入れるかも)
ノエルは生垣に潜み、においを嗅ぐ。建物から離れた屋外にまでうっすらとだが、あの悪臭が漂っていた。
でも残り香程度で、対面した時の衝撃はない。中に王女はいないのだろう。
見通しのいい庭より建物内の方が隠れる場所が多いから侵入したいところだが、気絶の不安がある。まずは慎重に外周を回って様子を見ることにした。
北の宮は複数の兵士や騎士によって警護されていた。
制服の違いから兵士はズメイの者で、北と他の宮を繋ぐ廊下周辺を主に担当している。
騎士たちはすべてミルメコレオの者で、立って警戒する者や、巡回をする者がいた。
ノエルは警護の厳重さからコンスタンスが使用している部屋を二ヶ所に絞った。
(メイドたちが掃除を始めた。あれはズメイの使用人……。中で侍女たちが待機してるわね。女性しかいない方が王女の部屋かな?)
窓を全開にしてくれたおかげで室内の様子がよく見えた。
忙しく働くメイドたちを侍女たちが監視している。
もうひとつの部屋は侍従だったから多分そちらが外務大臣の部屋だ。
換気によって一瞬悪臭が強まるが、風が吹き散らしていく。メイドたちの丁寧な清掃のおかげか、悪臭はぐっと薄まった。
しかし、ノエルは眉を顰めた。
(……もしかしたら王女以外にも悪臭を放っている者がいるのかと思ったけど、そんなことはなさそう?)
ミルメコレオの人々独特のにおいかと疑っていたが、やはりあれはコンスタンスのみのものらしい。
侍女や騎士たちのにおいはごく普通の人間と変わりない。
ただ、時々ロレッタ王妃と同じ、薬草と獣臭の混ざったあの臭いを纏った者がいる。
そちらはもしかしたら本当にミルメコレオ人特有のにおいなのかもしれないと思えてきた。
ノエルは首を傾げながらも、とりあえず情報を集めようとおしゃべりを楽しんでいる侍女の声に耳を傾ける。
「コンスタンス殿下は大臣と一緒に会議に出席されているけれど、トラヴィス殿下はまったく相手になさらないそうよ」
「平民上がりの王女のどこかいいのかしら?」
「見目は美しいって話よ」
「あら、どれだけ美しくとも品性が卑しい女を王妃になどしたら国の恥よ。この国の人間はそんなこともわからないの?」
「コンスタンス殿下が来訪したというのに歓迎の式典も催さない国よ。期待するだけ無駄だわ」
悪口である。ノエルは思わず真顔になった。
今現在もズメイのメイドたちが清掃を終えて汚れ物を回収し、ベッドメイクなどをして部屋を整えている。
彼女たちの前で王子夫妻の悪口などよく言えたものだ。使用人を家具扱いする貴族は多いが、彼らは人間である。
見聞きしたことはすべて上司に報告し、最終的には一番頂点まで伝わることもある。随分迂闊な侍女たちだった。
「そういえば、ガブリエラ様から聞いたのだけれど。オルブライトとかいう公爵家の令嬢から朝一番に手紙が届いたそうよ」
「まぁ、何のつもりなの?」
「何でもあの平民王女に挨拶しに行かないかってお誘いだそうよ。ガブリエラ様はコンスタンス殿下からどうすべきか相談されたのですって」
「本当に何が目的なのかしら?」
「その令嬢、ジャスティーナとかいう名前ではなくて? トラヴィス殿下の側室になりたがっている令嬢がそんな名前だとガブリエラ様が仰っていたわ」
「まあっ! もしかして、コンスタンス様を利用するつもりかしら! なんて厚かましい!」
ノエルは知った名前に眉を顰めた。ジャスティーナ・オルブライト。ノエルに謎の接触をして来た令嬢は、早速コンスタンスにも近づこうとしているようだ。
もうすぐ臨月のアンジェリカとコンスタンスを引き合わせようとするなんて碌でもない企みに違いない。
「コンスタンス殿下はどうなさるの?」
「ガブリエラ様は誘いを受けるように助言なさったそうよ。利用されるのは癪に触るけれど、ジャスティーナとやらより平民王女が邪魔ですもの。直接会って立場をわからせなきゃ」
「相手の不意をつくために今日の午後にあちらの宮を訪ねるつもりらしいわ」
「随分急ね」
先程から名前の上がるガブリエラは、侍女たちのまとめ役だろうか。随分とズメイの事情に通じている。
王女に助言をするあたり、厚い信頼を寄せられているようだ。
コンスタンスには頼りになる相談役かもしれないが、碌でもない助言をするあたり、こちらには厄介な存在である。
少々早いが、ノエルは静かにその場を立ち去ることにした。
コンスタンスとアンジェリカが会っていいことなど何もない。だが、王女の行動を止めるのも問題になるだろう。
ノエルにできることはアンジェリカにこのことを話し、離宮に招待することくらいである。
突然の訪問なら行き違いになるなんてよくあることだ。そうすれば、無難にコンスタンスを避けられる。
昼までにはまだ時間がある。アンジェリカを招待するための準備が必要だが、その前に気になることを片付けておかねばならない。
北の宮から離れたノエルが気合いを入れて次に向かったのは、一昨日倒れた隠し通路がある部屋だ。
「お、おぇっ……!」
メイド服のおかげで目立たず王宮内を歩けたが、相変わらずの悪臭に苦しめられる。
例の部屋の周辺は人気がなかったため鼻と口を持ってきた布で覆って、気絶の可能性を減らす。多少ましになる程度だったが、ないよりはずっといい。
ヴィンセントから聞き出した手順で入り口を開く。
ブラックウッド家の隠し部屋と違い、特定の位置の壁を押すとそこが回転し、取っ手が現れる仕組みだ。それを引っ張ると隠し通路への入り口が開く。
「うぐぅ……」
以前と同じく吹き付ける悪臭に気が遠くなる。布の上から鼻を摘んで耐え抜いた。
「ふぅー、ふぅー……」
なんとか気絶を免れたノエルは隠し通路を覗き込んだ。
人ひとりがギリギリ通れる程度の狭い石造りの通路は窓がないため真っ暗だが、ノエルの目なら問題なく進める。
床には埃が溜まっていて、点々と薄くなっている部分があった。
我がもの顔でここを使っている誰かの足跡だ。靴底の形から踵の低い、女性用の靴だとわかった。
「……よしっ!」
ノエルは意を決して通路へと身を滑り込ませた。静かに入り口を閉める。
ここから先は誰がいるかわからない。無駄口は叩かず、痕跡を減らすため、誰ががつけた足跡の上を歩く。
鼻は頼りにならないため耳に意識を集中して、教えて貰った経路を進む。
ヴィンセントが知る隠し通路は王宮中に張り巡らされたものの一部に過ぎない。
足跡の主がどこまでその全貌を把握しているかは知らないが、その誰かの行動をなぞる必要はなかった。
しばらく通路を進んだノエルは、目印を見つけて立ち止まった。
石造りの壁に簡素な板戸がある。
この出入り口の先にあるのは、王太子の寝室だ。つまり夜になると、ほぼ必ずトラヴィスとアンジェリカがこの先にいる。
ノエルは床を確認した。
厚く積もった埃に足跡がいくつも重なり、板戸を開けたような筋も見てとれる。
誰かはここに何度も来ているようだ。
(でも、筋は短い。覗いただけかな?)
床に残った痕跡から、ノエルはそう推察した。
誰かはまだ部屋へは入らず、覗いているだけのようだ。
ただ、周囲についた足跡の多さから頻繁にここへ来ているのがわかった。トラヴィスたちの生活習慣を監視しているのかもしれない。
(父様に報告しなきゃ)
ノエルはそれ以上の探索をやめて来た道を戻る。
あまり長居はできなかった。この後の予定が詰まっている、というのもあるが、誰かと鉢合わせしたくない。
隠し通路を使っているのは自分だけ。
誰かには最後までそう思っていてもらわなければならなかった。
こちらの存在を知られて警戒されると厄介だ。
それを危惧してノエルは誰かの第一候補であるコンスタンスが絶対にいない時間を狙ってきたのだ。
出入り口に着いたノエルは外を確認してから扉を開く。その時だった。
(……足音?)
微かにこつん、こつん、と規則的な音が通路の奥から届いた。
ノエルは素早く通路から出て、扉を閉めた。壁に耳をつけて集中した。
他の雑音に紛れてしまって、ほとんど足音は聞こえなかったが、確かに誰かがいる。
(……コンスタンス王女は、今はまだトラヴィス殿下たちと会議中のはず)
だから、今ここにいるはずがないのだ。ノエルはおもむろに鼻を摘んでいた指を外した。
「おえぇ……」
布一枚隔てただけでは耐えがたい悪臭を我慢して嗅ぐ。
様々な臭いが複雑に混じり合ったものをひとつひとつ確認した。
「ぐふぅ……。つらい……。でも絶対後で役に立つはず……」
涙目になりながらもしっかり臭いを覚えて、ノエルは離宮に戻った。




