竜人の真価
二度目の茶会に向かうにあたり、ノエルは改めてグダグダだった前回を振り返り、安堵をしていた。
(これ、私が何もしなくても婚約はうまくいかないんじゃない?)
ヴィンセントは終始一貫としてノエルと仲を深める気はないと態度で表していた。
パーシヴァルという秘書官への態度を見るに、ヴィンセントと打ち解けるのはかなり難易度が高そうだ。
特に行動を起こさなければ何も始まることなくヴィンセントとの関係は切れそうだ。
(……まぁ、でも、エメライン様が心配する気持ちも良くわかる王子様だった)
婚約者候補であるノエルはともかく、侍女や秘書官すらも徹底して避ける姿勢はある意味感心する。
しかし、今後の仕事や私生活に悪影響が出そうだ。
(だから、エメライン様は私を口実にしてヴィンセント殿下の態度を改めさせようとしてるみたいだけど……)
侍女には指示を出したようだが、パーシヴァルを完全無視している辺りうまく行くかは未知数である。とりあえずノエルにできることは何もなさそうだ。
だから、ノエルは次の約束の日はゆったりした気持ちで登城した。しかし、離宮までの道中でその余裕はまったくなくなり、物陰から進行方向を覗いて困惑していた。
「リサ。あれ、なんだと思う?」
「ご令嬢がたむろしているように見えます」
「何でご令嬢がたむろしてるんだろう……」
「さぁ……。私には身分の高い方々が考えることなんてさっぱりわかりません」
「……挨拶くらいはしなきゃ駄目だよね?」
「そうですね。最低限の礼儀です」
「はぁ……」
ノエルは思わずため息を吐いていた。
青に赤、黄色と緑に紫など、色鮮やかなドレスを身に纏った華やかな少女たちが人気の無い廊下に集まって、小鳥が囀るように会話に興じている。
目にも耳にも賑やかな光景が広がっているが、ノエルは楽しめなかった。
ここは新王宮と旧王宮を繋ぐ唯一の廊下である。
目的地に行くためには彼女たちに挨拶をしてサッと横を通り過ぎなければいけない。たったそれだけのことだが、難易度が高かった。
(お、おえぇぇぇっ!)
ノエルはえずきそうになって慌ててハンカチで口元を押さえた。
香水にヘアオイル、化粧品など、彼女たちから漂ってくるにおいがきつすぎる。
ひとつひとつは良い匂いでも、混ざれば気持ち悪いばかりだ。やっぱり無理、と思ったノエルは身を翻した。
旧王宮は城壁でぐるりと囲まれているが、獣人のノエルと隠密の訓練を受けたリサなら乗り越えられる高さだ。不審者でしかないが、屋外から離宮に向かうことにした。
「あら? お待ちになって!」
ひっそりその場を立ち去ろうとしたのに残念ながら見つかってしまった。
ノエルは覚悟を決めて振り返る。
彼女を引き止めたのは令嬢たちの中心にいた、一番身分が高そうな少女である。
金髪に蜂蜜色の瞳の、華やかな集団の中でも一際目立つ美少女だった。
鮮やかな朱色のドレスをひらひらと揺らしながら、他の令嬢を引き連れて歩み寄ってくる。
ノエルは必死で吐き気を呑み込み、なんでもない表情を取り繕った。
「ご機嫌よう。初めまして。わたくしはオルブライト公爵家の次女、ジャスティーナですわ。どうぞよろしくお願いいたします」
「……ブラックウッド侯爵家の長女、ノエルでございます。お会いできて光栄です」
完璧な笑顔と所作で自己紹介をしたのはズメイ王国の二大公爵家の片割れ、オルブライト公爵家の令嬢だった。
ノエルも自己紹介をすると周りの令嬢たちも次々に名乗る。急に大勢に迫られた動揺を面に出さないようにノエルは必死だった。
「突然お声掛けして申し訳ありませんわ。さぞ驚かれたと思います」
「お気遣いに感謝します……」
「どうしても一言お祝いを申し上げたかったのです。
父から伺ったのですが、ブラックウッド様はヴィンセント殿下の婚約者に決まったそうですね? おめでとうございます」
「いえ、まだ決まっていません」
ノエルはジャスティーナの発言を即座に否定した。
彼女の父親は宰相である。エメラインから話を聞いているのだろうが、あまり正確な情報ではないようだ。
まだノエルは婚約を了承していないし、ヴィンセントも受け入れていない。二人の間は何ひとつ進展していなかった。
「まぁ、そうでしたの? ごめんなさい。父がブラックウッド様は殿下に会っても気絶しなかったと言っていたので、てっきり」
「まだ、殿下とは二回しか会っていませんから……」
「でも、もう決まったようなものではございませんか? あの殿下に会われて気絶しなかったのはブラックウッド様だけですもの」
「そうですわ! わたくしなんて一目見ただけで倒れてしまったもの!」
「わたくしもです」
「わたくしなんてマントでお顔を隠されていたのにあの恐ろしい口を見ただけで気絶してしまいましたの……」
僅かに驚いてジャスティーナが詫びると、それに続いて他の令嬢が話し出す。
なんの集まりかと思ったら、全員ヴィンセントが見合いをした相手のようだ。勢い込んで話し出す。
「情けないとお思いでしょうが、わたくしも殿下とお会いした時、気絶してしまいましたの。十歳の頃でしたわ」
「わたくしは十二歳でした」
「わたくしは……」
令嬢たちはノエルそっちのけでいつヴィンセントに会ってどれだけ怖かったかという話題で盛り上がり始める。
彼女たちの意図が読めず、ノエルはとりあえず大人しく拝聴していた。
「仕方がないとは言え、わたくし、殿下にご無礼を働いてしまって罪悪感を覚えていたんですの。でも殿下を受け入れられる女性が現れたと聞いて、とても嬉しくて……」
「わたくしもです! まだ正式に婚約は決まっていないそうですが、時間の問題ですわ!」
「ブラックウッド様しかいませんもの! ご安心下さい!」
「は、はぁ……」
唐突に励まされて微妙な顔になる。正式な婚約者になるつもりはないと言えなかった。
「まぁ、いけない。ブラックウッド様はこれから殿下とのお茶会でしたね。長々引き止めてごめんなさい。それでは殿下と良い時間をお過ごしくださいませ。ご機嫌よう」
『ご機嫌よう』
「ご、ごきげんよう……」
最後まで優雅で完璧な淑女を崩さずにジャスティーナと令嬢たちは言いたいことを言って立ち去った。
ノエルはそれを呆然と見送る。
「……なんだったんでしょう、あの人たち……」
「さぁ……。うっ、おぇっ」
彼女たちの背中が見えなくなったところで横に避けていたリサがノエルの側に戻ってくる。
緊張から解放されたノエルは、再び込み上げた吐き気をハンカチで押さえて堪えた。リサが背中を摩ってくれる。
「まぁ、嫌味とかではなくて良かったですね!」
「嫌味の方がまだわかりやすくていいよ。応援されるなんて意図が読めなくて不気味」
「確かに待ち伏せしてまで応援してくるって意味わかんないですね……。本当に何の用だったんでしょう」
リサが眉を下げて首を傾げる。喉元まで吐き気が込み上がっていたノエルは答えられなかった。
気分を紛らわせるため、ノエルは先程の令嬢たちの家名を思い出す。
ジャスティーナ以外にあの場にいたのは、伯爵家が四人と子爵家が一人。
いずれも王家と直接婚姻を結んだことのない家系だ。エメラインの目的に適った選択と言える。
彼女たちがわざわざノエルに会いに来た理由は、予想することしかできない。
一番可能性が高そうなのは、再びヴィンセントの婚約者候補に連ねられるのを防ぐことだろうか。
彼女たちはいずれもノエルと同年か、年下といったところの年頃だった。全員そろそろ正式な婚約を決める時期である。
ヴィンセントの婚約が正式に決まらなければ、一度候補に上がった彼女たちは婚約が決まっていたとしても安心できない。
基本的に王族からの縁談は断れないものである。
ノエルとうまくいってくれないと、また自分にヴィンセントとの婚約話が戻ってくると心配しているのだろう。
そんなことをしなくとも二度と彼女たちに声がかかることはない。
何しろエメラインがヴィンセントの婚約者に望むのは、血の遠さだけではなく、彼を愛する女性だ。
口では「失礼をした」と言いながらヴィンセントがどれだけ恐ろしいか人目を憚らず吹聴する彼女たちでは到底そんな関係は望めない。
正直言ってノエルでもほんのり不快に思ったから、きっとエメラインならもっと不快感を覚えるだろう。
暫く休んで動ける程度に回復したノエルはゆっくり歩き出す。
令嬢たちに捕まり、完全に遅刻が確定してしまったが、急ぐ元気は湧いてこなかった。
吐き気を治めるために胸の辺りを摩りながら、頭に浮かんだのは、あの集団の中で一際謎めいていたジャスティーナだ。
ジャスティーナ・オルブライト。
ヴィンセントの見合い相手の中で、彼女は唯一の例外である。
オルブライト家はエメラインの前の王妃のご実家だ。つまり、彼女はヴィンセントの又従妹にあたる。
さらに、彼女の母親は有力な侯爵家の生まれで、その母親、つまりジャスティーナの祖母は王女であり、かなり王族と血が近い。
ヴィンセントの後ろ盾として、オルブライト家ほどの適任はいないが、血が近すぎる。エメラインの選択とは思えなかった。
ふと、かの家にはもうひとり娘がいることを思い出した。オルブライト公爵が、かつて大恋愛の末に結婚した身分の低い前妻が産んだ長女だ。
男爵令嬢だった前妻は産後の肥立ちが悪かったために若くして亡くなっている。
残された娘は現在二十一歳。行き遅れと言われる年齢だが、未だに婚約者がいない。
(もしかして、殿下はお姉さんと会う予定だったのを、オルブライト家で勝手にジャスティーナに変更したとか。考えすぎ?)
歴史ある公爵家の生まれで、尚且つ王族から遠い血を引く令嬢。
年齢はひとつ年上だが、それくらい誤差の範囲だ。ヴィンセントの婚約者候補に名を連ねてもおかしくない。
しかし、見合いの場に現れたのはジャスティーナだった。
公爵家の内情について、ノエルが知ることはほとんどない。
ただ、宰相はエメラインにとって盟友と言ってもいい人物だ。彼女の意に背くような真似をするとは思えなかった。
(オルブライト家は娘二人しか子供はいないから、家を継ぐのは姉か妹のどちらかのはず。
宰相閣下は愛した女性の遺児に家を継がせたくてジャスティーナに代役をさせたとかかな。それにしてはお姉さんが未だに独身なのが解せないけど)
後継者にするなら頼りになる伴侶を早めに見つけ、結婚させておくものだが、オルブライト家の姉妹はどちらもまだ婚約すらしていない。
何やらノエルには計り知れない複雑な家庭環境なるものをひしひしと感じる。
(……お姉さんの方をヴィンセント殿下と会わせたら恋が生まれたりしないかなぁ?)
他人に妨げられ出会えなかった二人が運命のいたずらによって引き合わされる、なんて恋愛小説のような展開になってくれないだろうか。
そうしたらノエルは一ヵ月も気まずい茶会に出席しなくて済む。
残念ながらノエルに伝手はないので、ジャスティーナの姉をヴィンセントの前に連れてくることはできない。
そんな逃避をしているうちに刻々と現実が近づいて来る。
離宮に到着してしまった。エントランスにはノエルを出迎えるための侍女が待っている。
「遅くなってごめんなさい。殿下は……」
「第二王子殿下はお庭でお待ちです」
「わかりました。ありがとう」
侍女はノエルの質問には答えたが、案内する気はないようだ。最早わかりきっていることなので、ノエルは勝手に庭へ出る。
「遅れたが、何かあったか」
「……? ひょぇっ!」
庭に出た途端、ノエルの目の前にヴィンセントが待ち構えていた。
壁のように反り立つ胸から深く影を落とす顔を見上げて、ノエルは飛び上がるほど驚いた。
油断していたとはいえまったく気配が感じ取れなかった。
「……驚かせてすまない」
「い、いいえ! 遅れて申し訳ありません!」
「いや、何か理由があったのだろう」
「は、はい。その……」
先程の出来事を話していいものかと迷うノエルに手が差し出される。
エスコートをしてくれるという意思表示だろう。
ノエルは一瞬躊躇ってから自分の手を重ねた。今日もまた、手袋越しでもわかるほど彼の手は冷たく、震えている。
ヴィンセントはノエルの様子を窺いながら、ゆっくりとガゼボに向かって歩き出した。
ガゼボにはパーシヴァルが控えている。
「……道中、他のご令嬢にお会いしまして、少し立ち話を」
「どこの誰だ」
当たり障りなく誤魔化そうとしたのだが、ヴィンセントは追及の手を緩めない。そんなに気になることだろうか。
ノエルは迷った末にあの集団の代表と思われるジャスティーナの名前だけ明かした。
彼女の名を聞くとヴィンセントはぎゅっと眉間に皺を寄せる。
しかし、何も言わずにまずはノエルを椅子へと導いた。自分も椅子に座ってから口を開く。
「何を言われた?」
「えっ……と、その、殿下と仲良くするようにと……」
まさかヴィンセントとの婚約を祝われたとも言えず、ノエルはかなりぼやかして伝えた。
するとヴィンセントの眉間の皺がますます深くなる。
「……彼女には気をつけろ。前々から兄上の側室になろうと王宮に出入りして小細工をしている」
「えっ!?」
ヴィンセントの忠告にノエルは思わず素で驚いていた。
兄上とは第一王子のトラヴィスだろう。
彼の妻のアンジェリカはテウメソスという新興国から嫁いできた王女である。
エメラインが纏めた政略結婚ではあるが、トラヴィスはアンジェリカを溺愛している。
結婚後も熱愛が冷めることはなく、夫婦仲は良好だそうだ。
その証拠にアンジェリカは長男に続いて、一年経たないうちに次子を妊娠している。
結婚当初は平民王女と国内の貴族たちに軽んじられることもあったが、現在は認められつつあった。
正直、ジャスティーナが挟まる隙間はなく、小細工をするのが遅かったと言わざるを得ない。
(でも、さっきのあれ、側室云々に関係ある……?)
ノエルはただ婚約を応援されただけだ。
側室になるためには、ヴィンセントの婚約者になる可能性を潰しておきたかったのかもしれない。
どちらにしても、「貴族ってめんどくさいな」というのがノエルの感想だ。
「あの、殿下。忠告ありがとうございます。私、そういったことに疎くて……」
「いや……」
貴族の家系についてはよく知っていても、駆け引き云々についてノエルは疎い。
ヴィンセントに教えて貰わなければ、警戒すべき対象だとわからなかっただろう。
礼を言うと、ヴィンセントはさっと目を逸らした。
忠告はしても馴れ合うつもりはないらしい。その調子でそっけない態度を貫いて欲しいものだ。
前回と同じく、パーシヴァルが給仕をする。一息吐こうと目の前に置かれたティーカップに手を伸ばした。
パリンッ!
突然聞こえた陶器の割れる音に固まる。
取っ手を掴んでもいないノエルのカップは無事だ。
そろそろと視線を移すと、原型を留めないほど粉々に割れたカップと、何かを摘んだ状態で固まるヴィンセントの姿があった。
長い指の間からぽろぽろと細かく砕かれた取っ手らしきものが落ちる。
「ヴィンセント様、お怪我は?」
「………………ない」
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
「え、ええ。私のところまで破片は飛んで来なかったから……」
「加減して下さい。あなたの力じゃ、陶器はだいたい粉砕します」
「………………すまん」
どうやらヴィンセントが力を入れすぎてティーカップを壊してしまったようだ。
慌てるリサに対して落ち着いた様子のパーシヴァルはてきぱきと壊れたカップを片づけ、零れた茶を拭いている。
ヴィンセントは気不味そうに身を縮めていた。
竜人の力は獣人の比ではないと知ってはいたが、軽く摘んだだけでカップを壊すとはノエルの想定を軽く越えている。
エメラインが金を使ってノエルを引き止めた理由がよくわかった。
(……普通のご令嬢じゃ、殿下が力加減を間違えたら骨折……。いや、最悪死ぬ)
手を取るだけのエスコートならいいが、ダンスすら危険である。
パーシヴァルの慣れた様子から、ヴィンセントは日常的に力加減を誤って物を壊すのだろう。
今回はティーカップだったが、大きめの家具を壊すところを目撃してしまったら、恐怖を覚えても仕方がない。
使用人たちはヴィンセントの容姿よりも並外れた力を恐れているのだ。
ヴィンセント自身も、加減ができない自分が信用ならず、人を避けている。
「……みっともないところを見せた。ただ、これでわかっただろう。ぼくは危険だ。いつ君も怪我をするかわからない。もう来ない方がいい」
相変わらず視線を合わせないまま、ヴィンセントは口早にそう言った。その表情は苦渋に満ちている。
人間のものとなった世界で、ヴィンセントの存在は異質過ぎる。
しかし、それはノエルもまた同様であった。
彼女は運良くブラックウッドという変わった家に生まれ、異質であることを隠す術を教わることができた。だからこそ、他人の恐怖の眼差しを受けることがないだけだ。
ヴィンセントとて、まわりに彼を導いてくれる獣人がいれば多少の偏見はあっても、もっと自分を飼い慣らし、世の中に馴染んで生きられただろう。
「いいえ」
ノエルは咄嗟にヴィンセントの提案を拒否していた。挑むようにヴィンセントと目を合わせる。
「いいえ。一ヶ月は参ります。約束ですので」
ヴィンセントは驚愕している。
相変わらず、婚約者になるつもりは毛頭ない。
ただ、これから先この王子が少しでも生きやすくなる手伝いをしたいと思った。
報酬を貰っているのだ。この、臆病で優しい王子が「当たり前」に生きられるように導くくらいはしてあげたい。
「殿下、私と握手しましょう」
ノエルは手を差し出した。
まず、力加減を覚える第一歩として握手の練習から始めようと考えたのだ。獣人は人間よりも頑丈にできているので、多少力み過ぎても骨折することはない。
ヴィンセントは恐れるようにノエルの手から遠ざかった。
「大丈夫。私は獣人ですから、普通の人より頑丈です。せっかくの機会ですから、物を壊さないように練習しませんか?」
「ぼくは獣人よりも力が強いんだ。壊してしまう!」
「そうなる前に『痛い』って言いますから」
ヴィンセントの声は動揺から上擦っていた。両手を身体の後ろへ隠す姿はまるで子供のようだ。顔色は悪く、震えている。
前回も今回も震えるほど慎重にノエルに触れたヴィンセントに限って壊すような力で手を握るとは思えない。
だから大丈夫とノエルは思うのだが、ヴィンセントは違うのだろう。頑なに首を振った。
「殿下、今覚えておいた方がいいと思うのです」
「いらない。必要ない!」
「でも、今後ご家族と一緒にいるなら必要なことだと思います」
「それは……」
ヴィンセントは迷うように目を泳がせた。
彼は使用人に恐れられているが、家族仲は良好のようだ。
彼の家族は人間ばかりで、その中には小さな甥とこれから生まれる赤子がいる。
子供は大人がどれだけ避けていても、不意打ちしてくるものだ。
もしもの時、大切な家族を傷つけたくないなら絶対に練習しておいた方がいい。
ヴィンセントは悩んだ末にそろそろと手を伸ばしてきた。手袋に包まれた大きな手はブルブル震えている。
ノエルはヴィンセントから触れるのを辛抱強く待つ。
ヴィンセントは随分時間をかけて、包むようにノエルの手を握った。
「い、痛くないか?」
「痛くないです。殿下、ちゃんと握ってないでしょう? もっとしっかり握手して下さい」
「そ、そんなことをしたら骨が折れる!」
「大丈夫です。折れません。ほらこうやってグッと……」
「ひぃっ!」
ノエルの方から手を握ったら何故か悲鳴を上げられた。咄嗟に手を引き抜こうとしたので、逃すまいと手に力を込める。
「大丈夫ですってば!」
「だだだだだだだめだはなしてくれ」
「まだ何もやってませんよ。ほら力を入れて」
「うう……」
ヴィンセントはノエルの手を振り払うことができたが、傷つけることを恐れてか、恐る恐る言われた通りにした。
「うん、握手と言える状態になりましたね。そのままもっと強く握って下さい」
「……こ、こうか?」
「痛いです」
「ほら! だから言ったじゃないか! 離してくれ!」
「まだ折れてません。続けますよ」
「か、勘弁してくれ!」
泣き言を言うヴィンセントを無視してノエルは時間いっぱい握手の練習をした。成果は概ね順調である。
ヴィンセントはいちいち悲鳴を上げ続けたため、別れる時にはぐったりしていた。
何故かパーシヴァルは上機嫌で、ノエルに礼を言ってから去って行く。
「殿下って面白い人だったのね」
「お嬢様、割と鬼畜ですね。……まぁ、打ち解けられたんなら良かったですよ」
来た時とはまるで違う気持ちでノエルは王宮を後にした。次のヴィンセントとの面会が少し楽しみである。
ノエルの頭に、もう前世の婚約者のことは残っていなかった。




