第一王子夫妻と前世について
三回目の茶会の日。
今日はヴィンセントと何の練習をしようかなと考えながら登城したノエルは、またしても足止めされていた。
「まぁ、お辞儀なんていいのよ。楽にして? 初めまして。わたくしはアンジェリカ。どうか、アンジェと呼んでね」
「そ、それは恐れ多い……」
「将来姉妹になるんだから、仲良くしましょう?」
どうしてこうも身分の高い女性に待ち伏せされているのか。また例の廊下で第一王子妃、アンジェリカに話しかけられていた。
高貴な人物の登場にリサは早々に距離をとっている。
アンジェリカは長い波打つ麦の穂のような色の髪に、深い葡萄色の瞳をした可憐で愛らしい女性だ。
ほっそりと華奢な身体つきに反して、産み月が近い腹は重たげに迫り出している。
それを支えるように抱きしめて笑うアンジェリカは、隙がなく近寄りがたいジャスティーナとは違い、どこか人懐っこい雰囲気だ。
ノエルはあまりのことに無表情になっていた。
何故こんなところに未来の王妃が、とか呼び出さずにわざわざ会いに来た理由はなんだろう、とか、頭に浮かぶことはいくつもあったが、一番ノエルを動揺させたのはアンジェリカの匂いだ。
(どういうことなの?)
前世の親友、オフィーリアと同じ匂いがするのだ。
アンジェリカとオフィーリアの間には血の繋がりはないはずだし、姿形もまったく違う。なのに懐かしい匂いを纏っている。
(偶然? いや、オフィーリアの匂いだし、私の勘違いかも……)
ノエルにとって身内以外で親しい女性というとオフィーリアだった。しかし、前世の婚約者ほど正確に匂いを覚えているかと聞かれると自信はない。
何せ一度死んでいるのだ。ノエルは一旦この疑問を棚上げした。
「あなたのこと、ノエルと呼んでいいかしら?」
「はい、勿論です。妃殿下」
「もう、アンジェと呼んでと言っているのに」
名前で呼ばないノエルが不満だと、アンジェリカはむくれた。
気分を損ねてしまったかと焦ったが、側付きの侍女が「無理を言ってはいけませんよ」とアンジェリカの方を窘めている。護衛として控えている騎士も苦笑していた。
「わかっているのよ。この国がわたくしの国よりずっと身分が厳格だってことくらい。でも未来の義妹によそよそしくされるのは寂しいわ」
そう言って唇を尖らせるアンジェリカは年上とは思えない愛らしさだった。それはともかく義妹の件は断固否定しておく。
「いや、あの、まだ婚約は正式に決まってはいませんので……」
「あら、あなた。お義母様から逃げられるとお思いなの?」
呆れたような雰囲気を醸し出し、アンジェリカは軽く肩をすくめた。
「トラヴィスとの婚約を何度も断ったわたくしがここにいるのに」
「えっ……」
初耳だった。大国からの婚約を、よくも断れたものだ。アンジェリカも含め、かの国の女王は度胸がある。
「こんな大きな国の王妃なんてわたくしには重荷ですもの。両親も末娘のわたくしを国から出すのを不安がっていたし、三年くらい断り続けたのよ?」
「さ、三年も……」
「なかなか頑張ったと思わない? でも酷いのよ。トラヴィスったら身分を隠して我が国に来て、わたくしを口説き落としたんだから! ずっと断っていた縁談の相手と恋をしていたと知ったわたくしの気持ち、わかる?」
「た、大変でしたね……」
その時の気持ちを思い出したのかアンジェリカはぷりぷりしている。しかし、心の底から怒ってはいないようだ。
無意識に腹を撫でる仕草は幸せに満ちている。
「あら、あなたも他人事ではないわよ。お義母様はあなたとヴィンセントを絶対結婚させるおつもりよ」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。あなたしかお嫁さんになれる人がいないという訳ではないけれど、お義母様はあなたが気に入ったようだから。覚悟を決めることね」
悪戯っぽく笑ったアンジェリカの宣告に背筋が寒くなった。
エメラインは親馬鹿で快活な面しかノエルの前で見せていないが、現国王を完全に置物にする政治的手腕を持っている。
本気のエメラインから果たしてノエルは逃げられるのだろうか。
戦々恐々としているノエルに対してアンジェリカはそこまでこの話題に興味はないようで、話を変えた。
「ノエルは獣人なのよね? 尻尾があるとお義母様に聞いたわ」
「はい。ドレスの下なのでお見せできませんが……」
「羨ましい! わたくしも尻尾、欲しかったの。うちの家族、わたくしとお父様以外みんな獣人なのよ」
「そうなのですか」
ノエルは僅かに目を見張った。
彼女の母親は平民から女王にまで駆け上がった女傑である。
彼女が獣人だとは知っていたが、その子供たちまでそうだとは知らなかった。
確かアンジェリカは五人きょうだいだから、四人も獣人に生まれついたということだ。平民であっても珍しい。
「我が家は狼なのですが、妃殿下のご実家は何の獣人ですか?」
「狐よ。だから尻尾がふわふわで可愛いの。わたくしだけ無くて寂しいわ。すぐ上の兄なんて先祖返りなのよ! 愛嬌があってとても可愛らしいの」
ふぅ、とアンジェリカからため息が漏れる。
そこには切なさや羨望が多分に含まれていた。
ノエルの方はと言うと、なるほどな、と深く納得していた。
この「獣人に慣れていて、恐れない」点もアンジェリカが望まれた理由のひとつなのだろう。
ヴィンセントを見て気絶する令嬢が多い中、呼び捨てにできるほど親しくなれる資質は貴重だ。
「ヴィンセントとの婚約が整ったら、わたくしともお茶会をしましょうね。尻尾を見せて欲しいわ」
「それは……」
「狼の尻尾、楽しみだわ!」
親しくなろうと遠慮なく距離を詰めて来るアンジェリカに戸惑っていると、足音が耳についた。
複数人で、音の重さから男ばかり。かなり距離が近い。
アンジェリカに気を取られて接近に気づかなかったようだ。足音に混じってグズグズと泣き声のようなものまで聴こえて首を傾げた。
「ああ、アンジェリカ。ここにいたのか」
「トラヴィス! あら、エルドレッドも一緒?」
「お昼寝から起きたら母様がいないとぐずってたから連れてきたんだけれどね……」
部下を引き連れた朱色の髪に碧眼の、エメラインによく似た華やかな青年が、彼によく似たまだ言葉の覚束ない年頃の幼児を抱いて現れた。
第一王子のトラヴィスと、彼の息子のエルドレッド王子のようだ。
母親を見つけた子供は火がついたように泣き出し、必死で手を伸ばす。抱きしめて欲しいのだろう。
アンジェリカは大きな腹に重みがかからないよう、庇いながらエルドレッドを受け取った。
トラヴィスはさりげなく息子の尻や足のあたりに手を添えて、アンジェリカに負担がかからないようにしている。
エルドレッドを夫婦であやす姿はなんとも微笑ましく、その場にいる者はみな優しく第一王子夫妻を見守っている。
ただ、ノエルはそれどころではなかった。
(うそ、でしょ……。なんで、トラヴィス殿下からサディアス兄様の匂いがするの……!?)
アンジェリカに続いてまたよく知る匂いと遭遇し、ノエルはトラヴィスを凝視して固まった。
オフィーリアとは違い、一緒に育った兄の匂いだ。間違えるはずがない。
だが、アンジェリカもトラヴィスも前世の彼らとの繋がりはほとんどなく、ヴィンセントと違って同じ匂いを持つ理由がわからなかった。
(もしかして、私の鼻がおかしいの?)
今まで疑ったことすらない自分の感覚に、ノエルは初めて疑念を抱いた。
血縁のあるヴィンセントはともかく、トラヴィスとアンジェリカは前世の二人となんの縁もない。
だとしたらノエルの感覚が間違っていると考える方が自然だ。
両親にあやされてエルドレッドが落ち着いたところでトラヴィスは自分を凝視するノエルに気づき、人好きする笑顔を浮かべた。
「初めまして、ブラックウッド嬢。ヴィンセントに会いに来たのかな?」
「あっ……。は、はい。初めまして、第一王子殿下……」
「ああ、お辞儀はいいよ。それより、妻が引き止めてしまったようでごめんね」
「いいえ、楽しくお話しさせていただきました」
笑顔を絶やさず、穏やかに話すトラヴィスは、やはり兄とはまったく重ならない。けれども香ってくる匂いは兄のもので、ノエルの頭は混乱した。
そんな彼女の内心にトラヴィスは気づかなかったようだ。
「約束の時間は大丈夫かな?」
「えっ……と、はい……」
「ああ、その様子じゃ、もう過ぎてる?」
アンジェリカの登場で忘れかけていた約束を思い出し口籠るノエルにトラヴィスは苦笑している。
ヴィンセントとの約束の時間はとっくに過ぎていた。ノエルはまたしても遅刻してしまったのだ。
王族相手に失礼にもほどがある。仕方ないとはいえ、申し訳ない気持ちになった。
「駄目じゃないか、アンジェリカ。ヴィンセントが可哀想だろう? あんなに楽しみにしてるのに」
「やだわ。楽しくって時間を忘れちゃったみたい。ヴィンセントに怒られちゃう」
「……へ?」
二人が信じられないことを言い出して、ノエルの目は点になった。
「あのヴィンセントが仕事が手につかなくなるほど夢中になってるブラックウッド嬢との逢瀬を邪魔しちゃって……」
「ちょっと挨拶する程度のつもりだったの。今日も朝からソワソワして、お茶会の準備も入念にしてたのに、悪いことをしてしまったわ。あとで謝らなきゃ」
「ええ……?」
二人の会話がノエルにはちょっと理解出来なかった。
(殿下が私に夢中って……。そんな訳ないでしょ!)
つらつらと今までのヴィンセントの記憶を思い返し、即座にトラヴィスの言葉を否定した。
嫌われてはいないが、好かれてるようにも感じない。仕事が手につかなかった件は前回ノエルが強引に握手の練習をしたせいだろう。
そんなことを考えていると、重々しい足音とともによく知る匂いが鼻を擽る。
「おや、ヴィンセントじゃないか。婚約者を待ちきれなくなって、迎えに来たのか」
「……兄上、まだ彼女とは婚約しておりません」
「あらあら、ヴィンセントったら照れちゃって。愛しの君を横取りしちゃってごめんなさい?」
ずしん、と体に重みがかかるような威圧感とともに現れたヴィンセントは明らかに怒っていた。
場に緊張が走る中、第一王子夫妻は呑気に笑っている。
「義姉上。妙な誤解をするのはやめていただきたい」
「誤解かしら? ノエルに会う前は落ち着きがなくなって、帰ってしまうと物思いに耽るなんて恋しているようにしか見えないのだけれど」
「まぁまぁ、アンジェリカ。ヴィンセントの初恋だよ。見守ってあげよう」
「兄上まで止めて下さい!」
三人の会話をノエルは呆然と聞いていた。色々と衝撃的なことが重なって、うまく頭が働かなかった。
ヴィンセントは怒っているようだが、兄夫婦に上手くあしらわれている。焦れた彼はノエルの隣に来ると肩を抱いた。
「約束の時間は過ぎていますので、失礼します」
キッパリと宣言するとその場をあとにする。ノエルはあまりの距離の近さに驚き、されるがままだった。
「まぁ、すっかり仲良しさんじゃない」
「ヴィンセント、女性には優しくね」
その背中へ夫婦の軽口が投げかけられる。
ヴィンセントはむすりと口を結び、返事をしなかった。ノエルも何を言っていいかわからず、二人は黙々と歩いていく。
「……その、すまない。さっき兄たちが言ったことは忘れてくれ」
沈黙を破ったのはヴィンセントだった。ノエルは彼の顔を見上げたが、気まずい様子で目が合わない。
「殿下がそう仰るなら忘れます」
ノエルは難しいことを考える気力がなく、そう答えていた。ヴィンセントは安堵したようだった。
ヴィンセントがノエルをどう思っているか。
ノエルがヴィンセントをどう思っているか。
まだ知りたくないし、考えたくなかった。
前世のことはもう割り切った。ずっとそう思ってきたはずだった。
(もう、今はあの時から百年も未来で、私も前のノエルじゃない。なのに……)
結局はどこか前世の延長のように今の人生を捉えている自分がいる。
新しい人生を歩んでいるつもりだった。『私』の人生を生きているつもりだった。
けれど、その『私』の境界線は酷く曖昧だ。
前世の身内と同じ匂いを持つ人物と出会って、そう突きつけられた。
トラヴィスとアンジェリカの中に、サディアスとオフィーリアの面影を探してしまっていた。
そして、ヴィンセントに対してもまた、そうなのだ。
(私、ちゃんと前世と向き合わないと)
ノエルはずっと前世から逃げていた。家族について以外の、百年前自分が死んだその後のことを欠片も調べていない。
彼女のいない世界で『ヴィンセント』が幸せになったなんて知りたくなかったのだ。
しかし、前世の記憶が今のノエルに影を落としている。これからのためにも、もう逃げるべきではない。
「……どこか具合でも悪いのか?」
急に黙り込んだノエルを心配して、ヴィンセントが顔を覗き込んできた。
同じ名前に、同じ顔。けれども明確に違う。
『ヴィンセント』はもっと眉の一筋すら完璧に作り込まれた表情をしていた。このヴィンセントはどこかぎこちなさがある。
「……殿下が、ごく自然に肩を抱かれたので。練習の成果が出ているなぁと感心していたのです。どうでしょう。今日はダンスの練習でも」
「無理を言うな!!!」
誤魔化すためにそんな提案をすると、ヴィンセントはシュバババッとノエルから距離をとった。
両手を背中に隠して、ジリジリと後退していく。
「紳士にとって、ダンスは必須ですよ」
「ぼくは舞踏会に出ないから必要ない!」
「第一王子殿下の即位式の時はどうするのですか。実弟のあなたが欠席するなんて、外聞が悪いにもほどがあります」
「うっ……!」
後退するヴィンセントをノエルは巧みに誘導し、壁際に追い詰めて行く。
逃げ場を無くしたヴィンセントは今まさに命を刈り取られる鹿のように怯えていた。
「だ、誰ともダンスはしない!」
「それで済むはずがありません。せめてエメライン様あたりと一回は踊らなくてはいけませんよ」
「ううっ……!」
例え化け物王子と恐れられていようとも、ヴィンセントはトラヴィスとその息子に次ぐ継承順位を持っている。
もしもの時は王になれる高貴な身分だ。その立場である故に逃げられないこともある。
ノエルは追い詰めたヴィンセントの手首をがしりと掴み、にっこりと笑った。
「ダンスでちゃんとリードできるように、練習いたしましょうね。私、いくらでも付き合います」
「むむむむむむ、むりっ! だからっ、放し……」
「やる前から無理と決めつけてはいけません」
散歩を嫌がる犬のように踏ん張るヴィンセントを引きずりノエルは離宮へ向かった。
彼なら全力を出せばノエルの手など振り払えただろうに、絶対にしない。ヴィンセントは口ではそっけないことばかり言うが、優しいのだ。
そんな彼とちゃんと向き合うために前世を整理しようと、ノエルは決意を固めた。




