第8話 「咲きそうだなぁ」
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思わぬ隙間風に、僕は思わず身をすくめた。ひゅう、と季節風が家の中へと忍び込んでくる。
鼻がむずむずするのは──春がすぐそこまで来ている証拠だろう。
縁側から見える庭先へ視線を移す。梅の木の枝先に、連日の雨の名残が鈍い光を宿していて、地面にはいくつもの小さな水たまりができていた。湿った土の匂いが、ゆるやかに室内へ流れ込んでくる。
「咲きそうだなぁ」
膨らみはじめた蕾を眺めながら、思わず独り言がこぼれたそのとき──
「せんぱーい。そろそろ手伝ってもらってもいいすかー」
キッチンから、後輩くんの声が弾むように飛んできた。僕は重たい腰を上げ、ダイニングからキッチンへ向かう。……といっても、障子一枚隔てただけの距離なのだが。
キッチンでは、後輩くんがジャガイモとニンジンを洗って待っていた。
僕と目が合った瞬間、にこりと笑う。ほんの少しぎこちない、でもその不器用さが妙に癖になる笑い方だ。
「切ってもらっていいすか」
「ほいほい」
僕は袖を少し捲り、まな板の前に立つ。縁側から差し込む光が野菜の水滴を照らし、どこか懐かしい午後の匂いが、静かに満ちていた。
初めて後輩くんの家で食事をしてから、一ヶ月が経った。あれから週二のペースで家に呼ばれるようになり、気づけば彼と食卓を囲むのが当たり前になっていた。時には家に泊まらせてもらうこともある。そんな夜は決まって、建築の話や進路の相談、卒制はどうするか──
このせせこましい業界の未来図を、ちゃぶ台の上で広げる。
少し前にはコンペの締切があったらしく、僕も夜中まで手伝った。
そのとき初めて知った。──こいつ、思った以上に優秀なんだな、と。大学が違えば分からないことも多いが、垣間見えたその一面は、なぜだか少し嬉しかった。
紅音ちゃんもたまに夕食に混ざる。相変わらず多くは喋らないが、たぶん元からそういう性格なんだろう。その沈黙すら、この家では自然に馴染んでいた。
……驚くべきは、そんな場所で食事をとることに、もうほとんど抵抗がなくなっているという事実だ。
食後に具合が悪くなることも、今のところ一度もない。
「んで、今日は何のメニュー?」
「あててみてください」
「めんどっ」
「そういうこと言わずに。ほら、材料ぜんぶ出てるんで」
僕は並べられた食材に視線を走らせた。
じゃがいも、にんじん、糸こんにゃく、玉ねぎ、肉──調味料も揃っている。
このラインナップで思い浮かぶものは、一つしかない。
「……肉じゃが?」
「おお、正解っす。すごいじゃん」
「舐めんな。これでも肉じゃがにはうるさいぞ、僕」
──母の肉じゃがに限るけど。
そういえば、他人が作る肉じゃがなんて食べたことがない。外で頼んだこともないな、とふと思った。
「じゃ、今度和食屋さん行きません? 定食屋さんでも」
「ああー……」と思わず返事を濁した僕に、後輩くんは肩をすくめる。
「僕と食べることには慣れてきたんですから、次のステップは外食ですよ。というか、それが本題なんすから」
「わかったわかった。考えておくよ」
「約束ですからね」
その言い方が、軽いようでどこか本気で、僕は曖昧に頷いた。
目の前の食材を切る僕と、具材を鍋へ並べる後輩くん。味付けは彼、下ごしらえは僕。この役割分担にも、だいぶ慣れてきた。
──それにしても、料理ってこんなに楽しいものだったか。
誰かと一緒に台所に立つだけで、こんなにも違うなんて。自分でもたまに作ってみようかな、なんて思えるくらいには、食事への興味がほんの少し芽を出しはじめていた。
あっという間に料理が完成し、いつもの食卓に並ぶ。
今日のご飯は、日頃の感謝を込めて僕が買ってきたお米を炊いた。湯気から立ちのぼる柔らかい香りが、部屋いっぱいに広がる。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
3つの声が重なった瞬間、ちゃぶ台の上の時間がふっとあたたかくなった。
初めの頃は、会話をしながら食事をしていた。というより、後輩くんが僕を気遣って、食事中は必ず何か話題を振ってくれていた。
最近では──無言でも平気になってきた。それどころか、無言で味を噛みしめる時間が、だんだん自然に感じられるようになってきた。
そもそも僕は、黙って食べるほうが行儀が良いと育てられてきた人間だ。
だから、無言の食卓は本来なら心地よい。けれど、無言が体調不良のきっかけになるのなら、喋りながら時間を過ごしてみよう──そう後輩くんが提案してくれたのだった。
その僕が、いま無言でも耐えられるようになってきたというのは、やっぱり大きな一歩なんだと思う。
そして、僕が美味しそうに食事をするたびに、後輩くんや紅音ちゃんの視線が、ほんのわずかに持ち上がるのを──僕は見ないふりをしている。
見えていても何も言わない彼らの優しさをそのままにしておきたいから。
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