第7話 湯気をまとった土鍋がひとつ。
畳は昼の光を吸って、ほんのり柔らかく温まっている。
障子の桟が落とす細い影が、ちゃぶ台の天板に静かに揺れていた。その上には、湯気をまとった土鍋がひとつ。
白菜と豚肉の層が隅から隅まで美しく並び、白と薄桃色が重なる断面は、規則正しい年輪のように見えた。後輩くんがそっと土鍋の蓋をずらすと、ふわりと湯気が逃げ出して、白菜の細やかな香りが鼻先を撫でる。
互いに取り皿へ、最初のひと匙をよそう。味噌汁の湯気とはまた違う、家庭の温度をそのまま閉じ込めたような、静かな熱。
「いただきます」
「いただきます」
僕はそっと後輩くんの横顔を盗み見た。
こういうときって、大抵は後輩が気を遣って、先輩の分までよそおうとするものだ。でも、こいつはそれをしない。僕が自分のペースで、自分の量で食べたい人間だと、もう知っているからだ。
何でもない顔で、それを自然にやってのける姿は──男の僕でも、ちょっと尊敬する。
僕はゆずポンを手に取り、取り皿にほんの少し垂らした。慣れない箸で白菜と豚肉を挟み、ゆっくりと口へ運ぶ。
――うまい。
瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。
白菜はとろとろに煮えていて、豚肉の旨みがじんわり染みている。ひと口で、手先から心臓のあたりまで温度が移ってくるような、あたたかさ。
うめえ。
それ以外の語彙が吹っ飛んだ。
「美味しいっすか?」
僕の反応を見ていたのか、後輩くんが微笑んでこちらを覗き込む。前髪の隙間から、少し垂れた目元がのぞき、やわらかく歪んだ。僕は思わず大きく頷いた。
「うまい! 白菜トロトロだし……なんていうんだろ、味付けが……めっちゃ、あたたかい」
「語彙力、うけるんすけど」
「いや、まじでうまいんだって。僕、自分がこんなに心からうまいって思ったの、久しぶりだよ」
後輩くんは、ほんの少しだけ目元を下げて言った。
「よかったっす」
その声が土鍋の湯気と混ざり合って、部屋の空気がさらに柔らかくなる気がした。
僕と後輩くんの箸は、ほとんど休むことなく動き続けた。気づけば鍋の中のミルフィーユはみるみる消えてゆき、あっという間に空っぽ──完売だ。
うますぎて、僕らはほとんど喋らなかった。湯気と旨味が会話の代わりをしてくれていた。
──だが、問題はここからだ。
第一関門、食事中の気持ち悪さはなかった。……しかし僕が本当に警戒しているのはそのあと、食後の気持ち悪さの方である。変に緊張すると消化が滞り、最悪の場合は嘔吐してしまう。ここでそれは絶対にダメだ。畳の上だし、後輩の前だし、色々と終わる。
――あ、やばい。
そう意識した瞬間、視界の端がふっと曇り、脳の奥でくらりと揺れが走った。心拍数が、静かに、確実に上がっていく。
「先輩?」
「――ん?」
「体調、悪いっすか?」
「……悪いっつーか」
「嫌な予感? 的な」
「……そんな感じ」
短く返すと、後輩くんは一瞬だけ考える顔をしてから、「じゃあ、おしゃべりしましょ」と、さらりと言ってのけた。
「はい?」思わず聞き返す。
後輩くんは立ち上がり、僕の食器を自分の皿に重ねると、キッチンへ向かいながら声をこちらへ落としてくる。
「喋ってたら、嫌な予感のことも忘れられるかもしれないじゃないですか。グッとくるアイデアでしょ」
……確かに、と思った。
不安は、黙っていると大きくなる。話していれば、心と胃腸の間が少し紛れるかもしれない。
こうして僕と後輩くんは、内容があるような、ないような、深いような、浅いような──なんとも言えない会話を、ゆっくりと始めることにした。
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