第9話 逃げ方が上手い人
「お前ってさ、けっこうおせっかいだよな」
「え、急に悪口ですか?」
「悪口じゃないって。ただ――なんで、ここまで僕にしてくれるんだろうって思っただけ」
「そりゃあ、バイト仲間だからじゃないですか?」
「いや、まあ、それはそうなんだけど……」
僕が言い淀むと、彼は歩きながらぽつりと付け加えた。
「あと、僕……逃げ方が上手い人を見ると、不安になるんですよ」
不安、か。
思わず横目で彼を見る。後輩くんは、夕焼けに照らされた横顔をわずかに赤く染めながら、まっすぐ前を見て歩いていた。見渡すかぎりの田んぼが風に揺れ、夕陽の光がその波を金色に染めている。花粉の季節が近いせいで、今日もマスクは手放せない。
マスクの内側で、僕はそっと鼻を啜った。
「いや、別に逃げることが悪いって言いたいわけじゃないんです。ただ……」
「……うん」
「でも――」
そのとき彼はふいにこちらを見た。強い目つきではないのに、視線だけはしっかり届いてくる。僕より少し背が高くて、影も長い。
何を食べて育つとああなるのか、たまに本気で羨ましくなる。
「逃げない日が、増えたらいいなって思うんです」
ヒューッ、と風が僕たちの背中を押した。乾いた冬の名残を含んだ風だ。
「うわっ」
思わず声が漏れ、二人で同時に立ち止まった。
砂埃がふわりと舞い上がり、風に乗って僕の目に小さな痛みを残した。見えない粒の感触に思わず瞬きを繰り返し、目尻を押さえながら、隣を歩く後輩くんの肩を軽くつつく。
「……なんで」
「え?」
「だからさ、なんでお前は、そんなふうに思うわけ」
話は気づけば最初に戻っていた。
「別に僕ら、ただのバイト仲間だしさ。作業に集中しすぎて一言も話さない日だってあるし。そもそも年もけっこう離れてる。もし同い年とかならまだわかるけど――」
「関係ないっすよ、そういうの。歳とか」
「いや、お前、さっきバイト仲間だからって言ってたじゃん」
ああ、もう。自分で言っていて、胸の奥がむず痒くなる。
こいつのおせっかいが嫌じゃないどころか、むしろ心地いいと気づいているのに、わざわざそこに理由を求めて、すべてを言葉で触れようとしている。
別にどうでもいいじゃん、そんなこと――。
そう切り捨てれば楽なのに、できない自分がいる。
ふと、後輩くんの口がぴたりと閉じた。歩きながらも、どこか遠くを見ているような横顔をしている。言葉を探しているのだろう。こういうときの彼には、急かさないほうがいい。僕らはそのまま、一定の歩幅で無言のまま並んで歩いた。
空はいつの間にか茜から淡い紫へと溶け込んでいく。遠くの山影は黒い切り絵のようになり、駅が見えてきたことで人影も少し増えた。赤信号の前で立ち止まると、車が小さな唸り声をあげて通り過ぎていく。
首を軽く回すと、低い位置を飛ぶカラスが視界に入り、そのまま電線へと降り立った。なんとなく目で追いかけ、そのまま視線を下へ落とした――。
次の瞬間、胸の奥がぐっと掴まれる。
「……は?」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声が漏れた。
僕らが立っている横断歩道のすぐ先――白線とくすんだコンクリートの上を、ひとりの人間が、まるで散歩の延長のような足取りで歩いていた。何を気にする様子もなく、のんきに、ただ前へ。
いやいや、どう見ても赤信号だろ。なんで渡ってんだ、あいつ。
ここまでは、まあ、いい。実際いまは車通りも少ないし、赤だろうが渡ろうが、誰に文句言われることもないだろう。
――ただ。
その瞬間、左手から耳をつんざくようなエンジン音が迫った。振り向けば、乗用車が勢いを殺さずこちらへ向かってくる。
「は? いやいやいや、ちょっと待てよ」
車は止まるつもりなんて欠片もない。そりゃそうだ、信号は青なんだから。僕は車と、呑気に歩くそいつとを、何度も何度も見比べる。
なのに、そいつは気づく気配すらない。まるで世界の中心が自分だと言わんばかりに、ゆっくりと道路の真ん中を歩いている。
「おいおいおいおい……ッ!」
気づけば、思考より先に体が動いていた。反射的に、脚が地面を蹴る。赤信号の線を飛び越えて、僕は道路へと飛び出した。
正直、何が起きたのか、自分ではうまく語れない。
でも――多分、跳ねられたんだろうな、ということだけはぼんやり理解できた。
別に、轢かれるつもりなんてなかった。ただ、飛び出したその瞬間、そいつの腕を掴んだところまでは覚えている。その直後、車のフロントが視界いっぱいに膨れ上がった。
僕の計算では、掴んだ勢いのまま道路脇に逃げるはずだったのに。
でも現実は、耳元を割るような爆音が跳ね――その音に背骨まで凍りついたように体が固まった。
ほんの一拍あと、ばき、ばき、ばき――と、鈍く湿った音が自分の中で連鎖した。肋骨のどれかが折れたのだと、痛みよりも先に理解だけが走った。
視界は一瞬でぐしゃぐしゃに歪んで、夕焼けも、道路も、人影も、全部が混ざり合って意味を失っていく。
「先輩っ! せんぱいッ!」
耳に届いたのは、後輩くんの必死にかすれた声。その声を最後に、僕の意識は糸が切れるようにぷつりと途絶えた。
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