第4話 M2
僕は今年で修士二年になる。あえて別の言い方をするなら──M2だ。
……と言ったところで、大半の人には「は?」「M2って何?」と顔をひねられる。
どうやら「B3」「M2」なんて表記は建築学生界隈では当たり前でも、全国の大学生が共有している共通言語というわけではないらしい。僕がその事実を知ったのは、別学部の知人と話す機会があったときだ。
長いこと当たり前のように“M2”という言葉を使っていたのだが、あれは完全に建築学生あるあるだったわけだ。
ちなみに、Bはバチェラー(学部)の略。Mはマスター(修士)の略である。
……ああ、また脱線してしまった。本題はこうだ。
僕は建築を学ぶ修士2年の学生である、ということ。
一昨年、大学院受験をした。第一志望の国立には落ち、第二志望の私立に合格した。国立に行けなかった以上、私立の学費は自分で払わなければならないという我が家のルールのもと、結果、僕の生活は日々カツカツの綱渡りである。──いや、自業自得と言えばその通りなのだが。
故に、最近、アルバイトに入る日を増やした。
授業という授業はほとんど存在せず、大半の時間を自分の研究やアルバイトに割くことができる大学院。たまに教授の思いつきで「今から来れます?」と呼び出されることもあるので、その点だけは柔軟に立ち回らなければならないが。
今日は久しぶりの、完全なる休日だった。
ここ数日、アルバイトと学校を往復するばかりの生活だったため、僕は家のベッドで溶けるようにダラダラと過ごしていた。時間に追われない時間──これがどれほどの至福か。自室には時計のカチカチという微かな音だけが漂う。時刻は十一時を回っているが、カーテンはしっかり閉め切ったまま。
隙間からこぼれる太陽の光が「起きなよ」と僕を誘うが、ナンセンスだ。僕は呼んでいない。
寝巻きのままベッドの上でスマホをいじる。
顔の真上から落ちてくるブルーライトが目に刺さる。他愛もないSNSをぼんやりと眺めていたそのとき──スマホが突然震えた。
あまりにも脱力した持ち方をしていたせいで、その振動にびくっと反応し、スマホを顔面へと盛大に落としてしまう。
「いってぇ!」
鼻に直撃したスマホは布団の上へ転がった。僕はしばらく鼻をさすりながら、鳴り止まない振動の出所──画面を覗き込んだ。
そして、首をひねる。
なぜこいつが?
とりあえず電話に出ることにした。
「……もしも」『あ、先輩? 僕ですけど』「はあ」『今、何してたんすか』「何って……」『よかったら飯行きません?』
「──は? はあ?」
思わぬ人物からの思わぬ電話に、思わぬ提案。その衝撃に、寝転んでいたベッドから反射的に体を起こした。携帯を握る手に、自然と力がこもる。
『ダメすか?』
あまりにも悪気のない、“だめすか”の四文字。僕はこういう無自覚な無邪気さに弱い。断り切れない。
それに──彼は知っているはずだ。僕が、人とご飯を食べるのが苦手なことを。
「いや、別にダメじゃないけど……」
煮え切らない返事を返すと、電話の向こうでかすかな物音がした。彼がどこかを歩いているような、衣服の擦れる微かな音。
『じゃ、前に会ったうどん屋とかどうすか? あそこなら、お互い学校近いし』
「ああ……いや、でも今から行くってなると」
言い淀む。あのうどん屋までは、最低でも往復一時間半はかかる。その頃には混雑のピークだろうし、いくら回転率がいい店でも、わざわざ一緒に食べる理由があるのか疑問だ。
互いの学校のちょうど中間地点ではあるけれど──だからと言って“今すぐ行く”に直結させるのは、どうにも飛躍がある。
「僕、今家なんだよね」
『あ、そうなんすか。僕も今、家っす』
「どこ住んでんの?」
──言った瞬間、しまったと思った。踏み込みすぎたかもしれない、と。
しかし返ってきた地名は、僕の最寄駅のすぐ近くだった。
「まじ? それ隣の駅なんだけど」『そうなんすか! え、じゃ僕、先輩の家行ってもいいっすか』「え? あ、いや家は……僕、実家暮らしだし……」
修士にもなると一人暮らしが増える。
まして建築学生の多くは深夜作業が多く、一人暮らしの方が都合がいい。後輩くんも、僕がそうだと思い込んだのかもしれない。
『じゃあ僕の家はどうすか? 一人暮らしだし、家に食材結構あるんで。お昼、一緒にどうすか?』
──すかすかじゃねえよ。
唐突すぎんだろ、あまりにも。
心ではそう叫んだが、口に出たのは相手を気遣う言葉だった。
「……お前がそれでいいなら行くけど……」『じゃあ決定っすね。僕、駅まで迎えに行くんで』「いやいや、いいよ。住所だけ送っておいてくれる? 今から準備して行くから、たぶん三十分前後で着くと思うけど」『でも僕の家、駅からまあまあ遠くて……』「大丈夫だって。時間はかかるかもしれないけど、向かうよ」『……うっす。じゃ、住所送るんで』「ありがとう」
通話が切れた瞬間、静まり返った部屋に心臓の音だけが響いた。ベッドの柔らかさが突然落ち着かない。画面に新しく届いた通知が、妙に現実味を帯びて光っている。
──なんでこうなるんだ。
流されるがまま、気づけば予期せぬ状況に巻き込まれていた。
──いや、考えている暇なんてない。
僕はベッドから転がり落ちるように降り、とりあえず近くに放ってあった服に着替えた。鏡の前に立つと、思わず苦笑が漏れる。全身、真っ黒。まるで今日これから出向くのは後輩くんの家ではなく、どこかの組事務所なんじゃないかと錯覚するほどに。
ポケットの多いジャケットに、財布、携帯、鍵……ありとあらゆるものを突っ込み、部屋を出て洗面所でざっと髪を整える。慌ただしい息遣いが鏡越しに跳ね返ってくる。それからリビングへ向かい、ソファに横たわる母に声をかけた。
「ちょっと行ってくるわ」
夜勤明けの母はテレビをつけたまま眠っていた。頬に落ちる弱々しい光、手の力なく垂れたリモコン。いつもの光景だ。
「まったく……ベッドで寝ればいいのに」
苦笑しつつ、そっと毛布を肩まで掛けてやる。ふとテレビへ視線を向けると、星座占いが流れていた。画面の隅に、僕の星座が大きく表示される。
『突然の出会いに注意』
「……」
言葉が喉の奥で引っかかる。
──もう遅いっての。
小さく吐き捨て、僕は靴を履いた。
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