第3話 「……あ」
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「……あ」
思わず手から箸がこぼれ落ちた。
指先をすり抜けた箸と、その間に挟まれていたうどんが、無防備に手元へ落ちていく。
ぽちゃん──と、静かな音を立てて椀に戻った麺が、跳ねた汁を頬にひと粒飛ばした気がした。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ガラス越しに、視線がぶつかったのだ。
そこに立っていた人物に、僕は目を奪われた。向こうも同じらしく、見開いたまま動きを止めている。
スラリと伸びた手足。程よく整った骨格。服の上からでも分かる、癖のない綺麗なライン。派手でもなく、地味でもなく、絶妙なちょうど良さの中に収まった装い。
長めの前髪の隙間から覗く細い目が、次の瞬間、ほんのわずかに柔らかくほどけた。
──見間違えようがない。
僕と目を合わせたその彼は、同じ事務所でアルバイトをしている、あの後輩くんだった。
不覚にも──外食している姿を見られてしまった。
そして今、後輩くんは僕の隣で、まるで宣伝ポスターのように美味しそうにうどんを啜っている。
ノーマルタイプのかけうどんに、天ぷらをいくつか追加したボリューム仕様。湯気の向こう、ネギと天かすがふわりと香りを立てていた。
対する僕はといえば、すでに麺がのびきっている気配を感じながら、箸がまったく進まない。量は、あと二口か三口で終わる程度。なのに──僕は後輩くんのペースに合わせるべく、ひたすら箸だけを動かすという謎の苦行の真っ最中だった。
すると、その不自然な動きに気づいたらしい後輩くんが、じっと僕の横顔を見つめてきた。
「食べないんすか?」
「え、あ、いや。食べるよ。食べるけど」
返事はした。したけれど──すでに疑いの目を向けられている。
「……もしかして」
横から、鋭い視線が突き刺さる。
僕は壊れた人形みたいにギギギ……と顔を右に向けた。左を向いても柱しかない。
逃げ場はない。そして正面には、奥二重の瞳。
その瞳が、まっすぐ僕を見ていた。
「先輩……僕にペース合わせてくれてます?」
「ん? いや別に。ちょっと味に飽きたから、ゆっくり食べてるだけだよ」
──嘘つきめ、僕よ。
後輩くんはわずかに目を細め、静かに言った。
「先輩って」
ゴクリ、と僕は唾を飲む。
もうだめだ。隠しきれない。ここまで来たら──腹を括るしかない。
「なるほど。そういうことだったんすね」
「……まあ、今のところの持論だね」
後輩くんは、まるでパズルの最後のピースがはまったかのように納得した顔で、うどんを啜った。
もぐもぐと静かに咀嚼し、湯気の向こうで喉を通る音が小さく響く。続いて湯飲みを手に取り、ひと口。
「つまり、人とご飯を食べるのが苦手だから、この前もああ言ったんすね。じゃあ外食自体はぜんぜん問題ないわけだ」
「まあね。行き慣れてる店とか、味を知ってる店だったら抵抗はないよ。でも新しい店とか、興味ないし……行きたくないんだよね」
特に──厨房の見えない店などは。
言葉には出さないが、胸の奥でそっと付け足す。
一見矛盾しているようだけれど、僕には僕なりの基準がある。
行き慣れた店、幼い頃から食べ慣れた味、そして一般的に安全とされるコンビニご飯──こういうものなら問題なく食べられる。
けれど、初めて訪れる店や、調理の様子が見えない空間は、どうにも苦手だった。
「それはどうして?」
……ああ、やっぱりそこ突っ込んでくるか。
ここまで聞かれたら、もう逃げようがない。
僕はうどんの残りを見つめ、心のどこかで観念しながら、これまで抱えてきた経験を、拙くても誠実な言葉で語り始めた。
「飯好きの友人に連れられて、ご飯屋さんに行ってた時期があるんだ。でも、まあ……つくづく口に合わなくてさ。帰宅すると必ず体調崩してた。吐くか下すかのどっちか」
その当時の感覚が、少し胸の奥をざらつかせながら蘇る。
「そのとき思ったんだよ。友人はなんともなかったし、店が悪いんじゃなくて──僕の体がおかしいんだって。……多分それがきっかけ。人と食べるのが苦手になったの。変に緊張しちゃうんだよ」
メニューを選ぶ時間。相手のペースに合わせようとする無言の圧力。食べる音、飲む音、視線の行き場。
全てがぎこちなくて、苦しかった。
食べている気がしなかった。味のしない泥を、ただ胃に落としているだけのような感覚。空腹は満たされないし、消化もうまくいかない。そんな日々が続いた。
「だったら、初めから“食べるのが好きじゃない”って言っといたほうが楽だ、って……気づいたんだよ」
そう締めくくったとき、後輩くんは最後のうどんを呑み込み、湯飲みのお茶を飲み干した。
碗を置く音がやけに静かに響いた。
「──楽な道っすね、その選択」
唐突で、遠慮という概念を完全に置き去りにした一言だった。
僕の瞼がぴくりと跳ねた。
「――は?」
「いや、だってそうじゃないですか。解決策を見つけるんじゃなくて、うまく逃げ道つくったんだなって。あ、いや、別にそれが悪いって言ってるわけじゃないっすけどね」
「言ってるだろ。どう考えても間接的に」
「そんなつもりじゃないけどな」
後輩くんは悪びれた様子もなく、後頭部を掻いた。指に合わせて、クセのある髪がふわりとうねって動く。
「でも、そう受け取ったってことは──自分の中で後ろめたい……というか、克服したいって思いがあるからってことっすよね」
こいつは、本当に……よくもまあズケズケと。
なんなんだよ。
僕は食べ終えた皿の乗ったお盆を持って立ち上がった。気づけば店の外まで長い行列が伸びている。回転率重視の店で長居は御法度だ。僕は食器を素早く返却し、店の自動ドアをくぐった。
──当然のように、後輩くんも後ろについてくる。
いや、なぜ?
特に話しかけてくる様子もない。
ショーケースのガラス越しにチラリと振り返ると、彼は何も気まずそうな気配を見せず、淡々と歩いていた。
そのまま数歩、また数歩。
気づけば、彼の姿はふっと消えていた。地下へ降りる階段の入口がある。
なんだ。ただ方向が同じだっただけか──。
僕は胸をなでおろした。ほんの少し、肩から力が抜けた。
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