第13話 うさぎくんはぽつり
「俺、母親が……ここの病院に入院してたことがあって」
うさぎくんはぽつり、と小さな声で言った。その言葉は、語尾が触れた瞬間、床へ吸い込まれるように静かに落ちていく。
「母さん、一回は病気が治ったんすけど……再発して。そのあと、ずっと悪くなる一方で。俺、そんな母さんから逃げ続けて……何もできなかったんです。今振り返れば、もっとできたこと、たくさんあったのになって思うんすよ。俺が逃げなければ、もっと早く気づけたかもしれないし……そばで支え続けられたら、違う未来があったかもしれないって」
「……うん」
「だからですかね。先輩とか、紅音のこととか……見てると、放っておけないんすよ。もう逃げたくないんです。誰かが誰かの助けで変われるなら、少しでも良い方向に向かうなら……俺にでもできることあるんじゃないかって」
その声は、強くないのにまっすぐ届いてくる。
「いつか先輩、俺に聞きましたよね。“なんでそんなに気にかけてくれるのか”って。あれ、多分これが答えっす。……俺の自己満かもしれないけれど、その自己満が誰かの助けになるなら、俺、力になってあげたいんす」
言葉が病室の空気に溶けていき、静けさだけが残った。
そういえば――と、不意に記憶が浮かび上がる。
あれはバイト先で模型作りが終わらなかった日だ。締切はその日中。みんなが疲れきって、集中力も落ちてきていた頃。それでも唯一、最後の最後まで作品を良いものにしようと、諦めずに作業していたのが彼だった。その姿勢が、どこかまぶしかったのを覚えている。
僕はというと、自分の分担が終わってしまったので、のんびり完成を待っていた。
建築学生にはポエマーが多いというけれど、彼もその一人なのだろう。理路整然としたくせに、不器用なほど真っ直ぐで、その語りに僕はつい感心してしまう。――と、それが客観的な意見。
もっと人間らしく、彼の言葉を胸で受け止めるなら。
「……いいんじゃない」
僕はベッドの上で少しだけ身を乗り出し、うさぎくんの方へ体を寄せて言った。
「自己満でもさ、別にいいと思うけど。正直、世の中なんてそういうもんだろ。自分を卑下する必要なんてないよ。俺は人を助けるのが好きなんです!って胸張って言えばいい。実際、僕も助けられてる。……ほら、ご飯だって。ちゃんと美味しく感じる」
そんな僕の言葉に、うさぎくんは一瞬だけ目を丸くして――ほんの少し照れたように視線を逸らした。
「……じゃあ、これからもお節介していいっすか? 俺、先輩と話したり、ご飯食べたりするの……楽しいんすよ。もちろん、紅音もですけど」
「うわ、その付け足し方。紅音ちゃんが聞いたら怒りそう」
そう返すと、うさぎくんはふっと肩の力を抜き、声にならない笑みに口角を上げた。
「次は外食っすからね。僕、いくつか先輩と行きたい店があって」
「あ、肉系は却下だからね。まずは体に優しい定食とか和食とか」
「何か弱いこと言ってんすか。ここはガツンと肉でしょ」
「却下」
「先輩」
「むり。そんな顔で言っても無理」
そして数日後。僕は無事に退院できた。
どうやら回復が早すぎたらしく、主治医の笹木先生はカルテを見ながら「えぇ……?」と眉を寄せていた。けれど、僕が母の子だと知った瞬間、先生は妙に納得したように頷いた。
「……ああ、そういう家系なら、この回復力でもおかしくないか」と、独り言みたいに呟いて。
“家系”ってなに、と突っ込みたかったけれど、あの先生にしては珍しく真面目な顔だったから黙っておいた。まあ退院許可を出してくれたから文句はない。
この病院に昔からいる医師の中では珍しく、笹木先生は若くて、ちょっと漫画みたいな端正な顔つきをしている。診察室を出る直前、通院の予約だけ確認して、僕は久しぶりの外気を吸い込んだ。
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