第14話 人とご飯が食べられるようになるまで
「ただいま」
玄関をくぐりながら呟いたその言葉が、やけに家の空気へよく馴染んだ。僕の家はうさぎくんほどの豪邸ではないけれど、そこそこの一軒家ではある。単身赴任の父と看護師の母。それから姉二人と僕の家族構成で、今この家に住んでいるのは実質、母と僕。姉二人はすでに家を出ている。
だからか少し油断して帰宅した。
食べきれなかった、うさぎくんにもらったタッパーの入った紙袋を床に置き、靴を脱ぐ。その瞬間、まるで待ち構えていたように姉が顔を出した。
「うわ。帰ってきてたの」
「うわって何。愛しの姉でしょ? もっと別の反応ないの」
「いい年した大人が何言ってんの」
僕は軽く聞き流すと、紙袋を持ち直してキッチンへ向かった。姉は先回りしてついてくる。暇なんかと聞きたくなるが聞かない。冷蔵庫を開けると、案の定スカスカのままだった。それもそのはずだろう。母と二人暮らしの僕が暫くいなかったのだ。母も整った食生活をとっている方ではないため、僕がいなかったら食事は適当に済ませる。
ため息が勝手に漏れた。タッパーを詰めていくと後ろから姉が覗き込んできた。
「それなに?」
「んー。友達が作ってくれた惣菜」
「え、嘘!? うそでしょ!」
「うっるさいって。耳元で叫ばないで」
「いやだってさ! あんた、人間のご飯は苦手とか言ってなかった?」
「僕だって変わるんだよ。いちいちうるさいな」
久しぶりに会っても、この姉は本当に変わらない。全然うざい。
昔からこの姉は、僕の生まれをからかうのが趣味みたいなところがあった。
僕は逃げるように二階の自室へ上がった。相変わらず閉まりきっているカーテンの隙間から太陽の筋が部屋に落ちていた。と、部屋のドアを閉めた瞬間、携帯が震える。画面には“母親”の文字。
『家着いた?』
受話口の向こう側から、病院の空気がかすかに聴こえる。
「着いたけど」
『そう。ああ、お姉ちゃん今家にいるから、一緒に夕飯食べてあげてね。久しぶりの里帰りなんだから優しくするのよ』
いや、だから、あの姉がいくつだと思ってるんだ。
『それからね』
母の声が少しだけ低くなる。
『今度、あんたが助けた家の子のことで大会議があるから、あんたも絶対出席するのよ。妖狐様も来られるんだから』
「はいはい。妖狐様って呼ばれるの好きなのは分かったから」
『だって、せっかくの呼び名でしょう? 何百年も大事にしてきたんだから、使わなきゃ損よ。あなたももっと誇っていいのに』
「誇らなくていいっていつも言ってるの母さんじゃん」
『まあねぇ。でもあなたが相変わらず人間のふりばっかりするから、つい意地悪を言いたくなるのよ。妖狐様のご子息っていうのに』
「その呼び方やめろってば」
『やーよ。可愛いじゃない?』
電話越しでも分かるくらい、母は完全に楽しんでいる。看護師の制服を着て働く姿はただの人間の看護師そのものなのに、言葉の端々に、長い年月を生きてきた本当の方がちらりと顔を出す。
『それにね、あなたの回復が早かったのも当然よ。ちゃんと私の血を継いでるんだから』
「……はいはい。ありがたいことですよ、妖狐様」
『そうそう。もっと感謝して』
その調子外れの明るさが、昔から少しだけ苦手だった。
僕は半分だけ妖|の《》血を継いでいるけれど、母みたいに誇らしげに言えるほど、その出自と仲良くなれたことは一度もない。
だからいつのまにか、人間のふりをする方が楽になっていた。ふりがふりじゃなくなるくらい、自然になってしまうほどに。
母の声は冗談めいていて、けれどどこか底が深い。何百年も生きてきた者の余裕を、ふだんは丁寧に隠してくれているだけだ。
僕は、そんな母にまだ追いつけていない。建築家としても。一人の人間としても。
『うさぎくんだったかしら? 彼のおかげかもね。あなたから逃げグセがなくなったのは』
「……分かったよ、わかった。出るから」
『あら、素直』
だから言ってるだろ、僕も変わるんだって。
母と姉の会話は、まるでコピー&ペーストしたみたいに似ていて、苦笑するしかない。
「……で、その会議っていつなの?」
『明日。あなたのスケジュールはもう空けておいたから』
「勝手に……」
『当たり前でしょう? だって当事者なのよ、あなた』
そう言われると、何も言い返せなかった。
結局そのあと、業務連絡じみた話を数分やり取りして、電話はあっさり切れた。部屋に沈黙が戻る。僕はベッドに背中を預け、天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
あの日、僕が車に轢かれた日。
助けた相手は、どうやらかなり大きな一族のお孫さんだったらしい。まだ変化も中途半端な姿だったようで――僕の目には完全に人間に見えていたのだが――とある目撃情報によると、普通に狐の姿で走っていたらしい。
その狐を助けようと人前で飛び出した大阿保者と、変化しきれない姿で街を歩いていた大馬鹿者の二名のせいで、結果として大会議なるものが開かれる始末となった。
なんてこった。めんどうくさい。
半妖の僕は、今まで散々そういう場を避けてきたのに……今回ばかりは、避けきれない。
「ふう……」
ああ、パソコン見るのやだなぁなんて学生らしい考えが思い浮かぶ。一日だけでも相当溜まるメールや研究のあれこれ。今から見るのは少し億劫だった。ようやく退院できたというのに、現実はこうも早くやってくる。人間と妖怪の狭間の僕でも、こうして等しく時間の流れはやってくる。
ふと母親の言葉が頭の中でリフレインした。
――彼のおかげかもね。あなたから逃げグセがなくなったのは。
まあ――
そうかもしれない。
僕は、なんてことのないひとりの友人と出会って、ほんの少しだけ変われたのかもしれない。
昨日の自分より、少しだけ素直に、少しだけ前へ進めるようになった僕に。
ああ、これで物語はおしまいだ。
結局、僕が自分の名前を名乗る場面は一度もなかったね。べつに隠したかったからじゃない。ただ――人間としても、そうじゃない方としても、どっちの“僕”で名乗ればいいのか、決めきれなかっただけだ。
まあ、それでいいんだと思う。前作みたいに名乗る必然もなかったし、これはあくまで――僕が「人とご飯を食べられるようになるまで」の物語だから。
さて、そろそろ幕を閉じようか。
ここらでドロン、とね。また少し成長した僕に会いにきてくれるその日まで。
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