第9話:江川塾、開講
**第9話:江川塾、開講**
徳丸ヶ原の試射から数か月——。
伊豆韮山の江川代官所の周辺は、全国各地から集まった奇妙な一行で溢れかえっていた。
刀を差した武士、商人風の男、職人姿の青年、果ては農民出身の若者まで。目的はただ一つ。「伊豆の天才代官・江川太郎左衛門に弟子入りすること」である。
「おい、押すな! 俺は信州松代藩の佐久間修理(後の象山)だ! 代官様に、西洋の軍学についてお尋ねしたい儀がある!」
「待ちたまえ、身分も藩も関係ないと聞いている! 某は播磨の農民出身だが、算術と測量なら誰にも負けぬ!」
門前で押し問答を繰り広げる若者たち。
その人垣の端で、一人、気まずそうに立つ青年がいた。
「……あれ? お前、江戸の稽古場にいた雷鳴流の……」
「し、しっ! 言うな!」
青年は、慌てて口に指を当てた。
師範の背後で、秋帆の測量儀に見入っていた、あの若い門下生である。
「俺は、師範には内緒で来たのだ。あの日、三発とも真ん中に当たるのを見て、眠れなくなってな」
そんなやりとりが、あちこちで交わされていた。
*
「門前で騒々しいぞ。何事だ?」
作業着姿で測量機器を担いだ江川英竜が、ひょっこり門の内側から現れた。
「だ、代官様ッ!」
熱気あふれる若者たちが、一斉に地面にひざまずく。
その中から、鋭い眼光と、隠しきれぬ自信を漲らせた男が、一歩進み出た。
「江川代官! 徳丸ヶ原での西洋砲術の威名、信州まで届いております!」
佐久間象山である。
「門閥や身分に囚われず、ただ『実学』をもって国を富ませんとする貴殿の教えを受けたく、遠路はるばる参上いたしました! どうか我らを、弟子とお認めください!」
「弟子、か」
英竜は、集まった若者たちの目を、一人ひとり、じっと見つめた。
そこにあったのは、古くさい儒学や空論ではなく、世界と戦うための「本物の知識」を求める、飢えと渇きだった。
英竜は、フッと口元を緩める。
「よかろう。今日から、ここを『江川塾』とする」
「おお……っ!」
歓声が上がりかけたところへ、英竜は、手をパンと叩いて制した。
「ただし、生半可ではないぞ。まず、塾の掟を言っておく」
英竜は、指を一本ずつ折りながら、はっきりと告げた。
「一つ。朱子学の暗唱は、一切させん。二つ。教えるのは、数学、物理、測量、軍学、そしてオランダ語だ。三つ。身分の上下も、先輩後輩も、ここにはない。必要なのは、『数字』と『論理』、そして『実行力』だ」
英竜は、居並ぶ若者たちを見渡した。
「ついてこられる者だけ、中に入れ!」
「「「はいッ!!!」」」
歓声が湧き上がり、若者たちが一斉に、代官所の門をくぐった。
*
入塾の初日。
広間に集められた塾生は、およそ五十名。
出身も、身分も、年齢もばらばらである。着ているものも、刀の差し方も、てんでんばらばらだ。
そのなかで、一人の若い武士が、ぷいと顔をそらした。
「……隣の男が、百姓風情だとは聞いておらぬ」
「何だと?」
隣に座っていた、播磨の農民出身の青年が、むっと顔を上げた。
「身分は問わぬと、先生が仰ったではないか!」
「それは、教えを受ける間の話だ。座る場所は、別の話であろう」
「貴様……!」
険悪な空気が、広間に流れた。
「——静かにしろ」
英竜の声は、決して大きくなかった。
だが、広間が、ぴたりと静まった。
「今日、最初の課題だ。一人ずつ前へ出て、この図の問いに答えてもらう」
英竜は、黒く塗った板に、白墨でさらさらと図を描いた。
一本の川と、その向こう岸に立つ一本の木。
「川幅を、渡らずに測れ。道具は、縄と杭と、自分の頭だけだ。答えられた者から、席に座れ」
沈黙が落ちる。
「渡らずに、だと……?」
「縄を向こうへ投げれば……」
「馬鹿者。流れに取られるわ」
ざわつく塾生たちの中で、先ほどの若い武士が、焦れたように立ち上がった。
「そんなもの、橋が架かるのを待てば……」
「橋が架かるまで、異国の船は待ってくれんぞ」
英竜は、あっさり言い切った。
「では、誰が最初に解く」
静寂のなか、ゆっくりと手が挙がった。
先ほどの農民出身の青年だった。
「……失礼ながら。杭を二本打ち、岸辺で三角形を作ります。その角度と、杭の間の長さが分かれば、向こう岸の木までの距離は、算出できます」
「ほう。どこで習った」
「村の庄屋様の、算術の本で……。ただ、実際に試すのは、初めてです」
英竜は、満足そうに頷いた。
「正解だ。これが、三角法という。大砲の射程も、要塞の位置取りも、すべて、この延長にある」
広間が、どよめいた。
先ほどの若い武士は、悔しそうに唇を噛み、やがて、渋々、席に腰を下ろした。
「……某の、完敗だ」
「完敗ではない。出発点の違いだ。ここでは、明日から、同じ線に立って学ぶ」
英竜は、板の前に立ち、塾生たちへ向き直った。
「いいか、皆の者。数字を蔑むから、日本の軍事は遅れたのだ。大砲の弾道も、兵糧の計算も、要塞の建設も、すべては数学だ。数字を愛せぬ者に、この国を守る資格はない!」
「「「はいッ!!」」」
その声は、代官所の屋根を揺らすほどだった。
*
夕暮れ。
授業が終わったあとも、塾生たちは、広間を離れなかった。
あちこちで、数式を書き合い、議論している。身分も、藩も、もう誰も気にしていない。
その輪から少し離れて、佐久間象山が、じっと英竜の背中を見つめていた。
(身分を問わぬ。藩も問わぬ。……この男は、本気だ)
象山は、一人、小さく呟いた。
「ならば、こちらも本気で行かせてもらおう。……江川代官。貴殿の『科学』、すべて、この象山が吸い尽くしてみせる」
その目には、野心とも、敬意ともつかない、燃えるような光が宿っていた。
江川塾、開講初日。
のちの幕末を動かす、才能たちの物語が、いま、静かに始まった。
(第10話「佐久間象山、入門」へ続く)




