第10話:佐久間象山、入門
**第10話:佐久間象山、入門**
江川塾の日々は、当時のどの藩校や私塾とも違っていた。
「いいか、大砲の射程を伸ばしたければ、勘に頼るな。この三角法を使え!」
黒く塗った板に向かい、白墨で図形と数式をさらさらと書き走らせる英竜。
塾生たちは、必死に筆を走らせる。
昼は座学、午後は実践である。
英竜自らが先頭に立って山へ入り、測量機器の使い方を教える。裏庭では、一緒に汗を流して、大砲の試作や火薬の調合をする。
そして夜には——。
「よし、今夜の夜食は、特製の兵糧パンだ! 味噌汁に浸して食え!」
「せ、先生……! これが噂の……!? 硬いですが、噛めば噛むほど滋味が染み出します!」
「うまい! これなら夜通しの勉強も乗り切れます!」
英竜自家製のパンを頬張りながら、目を輝かせて議論を交わす塾生たち。
その輪の中心に、いつの間にか、佐久間象山の姿があった。
*
象山は、信州松代藩の俊才である。
儒学も、兵学も、すでに一通り修めていた。それゆえ、塾生の中でも、頭一つ抜けた自負を隠そうともしない。
「先生。失礼ながら、大砲の弾道の基本は、ひと月もあれば掴めました」
ある夜、象山は、英竜の前に進み出て、そう言い放った。
周りの塾生たちが、ざわめく。
「ほう。ひと月で、か」
「はい。ここの講義は、いささか、手ぬるいかと」
「…………」
英竜は、怒るでも、笑うでもなく、一冊の帳面を、象山に差し出した。
「ならば、頼みがある。これは、私が今、作っている『弾道表』だ。火薬の量と角度ごとの、射程を一覧にしている。明朝までに、誤りがないか、見てくれ」
「……明朝まで、ですか?」
「できないか?」
「いえ。お引き受けします」
象山は、胸を張って、帳面を受け取った。
その夜、象山は、塾の一室にこもった。
行灯の下で、算盤をはじき、計算紙を埋めていく。
(なんだ、これは。簡単ではないか。……いや、待て)
明け方、象山の手が、ぴたりと止まった。
(この数値、何かおかしい。三番目の列だけ、ほかと比べて、射程の伸びが大きすぎる……)
象山は、はじめから計算をやり直した。
二度、三度。結果は、同じだった。
象山は、帳面を抱えて、英竜のもとへ駆け込んだ。
「先生! 三番目の列に、誤りがございます!」
英竜は、書斎で、パンをかじりながら、振り向いた。
「ほう。どこが」
「火薬の量が、一匁、取り違えられております。ここの数値を、本来の値に直しますと……このように、射程は、五間ほど短くなります」
象山は、息を切らして、計算紙を突きつけた。
英竜は、しばらく、その紙を見つめていた。
やがて、満面の笑みを浮かべた。
「……見事だ」
「は?」
「その誤りは、わざと入れておいた」
象山の顔が、さっと赤くなった。
「わ、わざと……!?」
「正確には、昨夜、私自身が写し間違えた箇所に、気づいていてな。誰が見つけるか、試したくなった」
英竜は、遠慮なく笑った。
「だが、見つけたのは、お前が初めてだ。他の者は、気づく前に、写し間違いのまま、先へ進んでいた。象山、お前は、本物だ」
「…………」
象山は、言葉を失った。
腹が立つはずだった。試されたのだ。
だが、英竜の目に、嘲りは、まったくなかった。あるのは、ただ、同じ高みで議論できる相手を見つけた、純粋な喜びだけだった。
「いいか、象山」
英竜は、パンを一つ、象山に差し出した。
「私が間違えたとき、遠慮なく、その場で指摘しろ。身分も、年も、関係ない。間違いを指摘できる弟子が、私には、一番ありがたい」
象山は、震える手で、パンを受け取った。
「……先生は、ご自分が誤りを犯されることを、恐れないのですか」
「恐れるさ。ただ、誤りを隠すほうが、よほど恐ろしい」
英竜は、あっさりと言った。
「幕府の古株が、もし誤りを認められる者たちなら、この国は、今ごろ、もう少しましだったろうにな」
その言葉は、象山の胸に、深く、突き刺さった。
*
その日から、象山は、変わった。
誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで学んだ。計算の誤りを見つければ、身分に関係なく、塾生の誰にでも、堂々と指摘した。そして、自分が間違えたときは、潔く、頭を下げた。
ある夜、象山は、パンをかじりながら、英竜の背中を見つめ、震える声で呟いた。
「……凄すぎる。江戸の役人どもが、『異国の脅威』から目を背けている間に、江川先生は、一人で未来の日本を作っておられる……! このお方こそ、真の英雄だ!」
後に幕末の思想家として、時代の中心に立つ象山も、このときばかりは、一人の熱狂的な「江川信者」であった。
江川塾の熱気は、瞬く間に、全国の志士たちへ伝わっていった。
後に幕府の陸軍奉行となる大鳥圭介、後に木戸孝允と名を改める桂小五郎など、日本の近代化を担う才能たちが、続々と、英竜のもとから巣立っていくことになる。
「フフフ……教育とは素晴らしいな」
夜、塾生たちの提出した課題の山を採点しながら、英竜は、満足そうに微笑んだ。
「私一人でできることには、限りがある。だが、この者たちが全国に散れば、日本の技術革新は、何倍もの速さで進む」
*
だが——。
光が強くなるほど、影もまた、濃くなる。
江戸・南町奉行所。
鳥居耀蔵は、密偵から届いた「江川塾に全国から若者が集結している」との報告書を、ぐしゃりと握りしめていた。
「……身分を問わず若者を集め、西洋の兵術を教えているだと? 増長しおって、江川太郎左衛門……」
鳥居の口元に、残忍な笑みが浮かぶ。
「これは、もはや、ただの蘭学かぶれではない。『謀反の企て』と取られても、文句は言えまい」
灯りが、鳥居の影を、壁に長く、歪ませていた。
「渡辺崋山、高野長英は、すでに葬った。次は、西洋の知恵を誇る、残りの者どもだ。まとめて網にかけ、息の根を止めてくれるわ」
かつて「蛮社の獄」で蘭学者たちを葬った罠が、今、英竜たちのもとへ、静かに迫っていた。
(第11話「鳥居耀蔵の陰謀」へ続く)




