↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【歴史if小説】伊豆の代官、科学で幕末を無双する ~異世界転生してないのに自力で技術革新しすぎた男~  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/12

第10話:佐久間象山、入門


**第10話:佐久間象山、入門**


江川塾の日々は、当時のどの藩校や私塾とも違っていた。


「いいか、大砲の射程を伸ばしたければ、勘に頼るな。この三角法を使え!」


黒く塗った板に向かい、白墨で図形と数式をさらさらと書き走らせる英竜。

塾生たちは、必死に筆を走らせる。


昼は座学、午後は実践である。

英竜自らが先頭に立って山へ入り、測量機器の使い方を教える。裏庭では、一緒に汗を流して、大砲の試作や火薬の調合をする。


そして夜には——。


「よし、今夜の夜食は、特製の兵糧パンだ! 味噌汁に浸して食え!」

「せ、先生……! これが噂の……!? 硬いですが、噛めば噛むほど滋味が染み出します!」

「うまい! これなら夜通しの勉強も乗り切れます!」


英竜自家製のパンを頬張りながら、目を輝かせて議論を交わす塾生たち。

その輪の中心に、いつの間にか、佐久間象山の姿があった。


       *


象山は、信州松代藩の俊才である。

儒学も、兵学も、すでに一通り修めていた。それゆえ、塾生の中でも、頭一つ抜けた自負を隠そうともしない。


「先生。失礼ながら、大砲の弾道の基本は、ひと月もあれば掴めました」


ある夜、象山は、英竜の前に進み出て、そう言い放った。

周りの塾生たちが、ざわめく。


「ほう。ひと月で、か」

「はい。ここの講義は、いささか、手ぬるいかと」

「…………」


英竜は、怒るでも、笑うでもなく、一冊の帳面を、象山に差し出した。


「ならば、頼みがある。これは、私が今、作っている『弾道表』だ。火薬の量と角度ごとの、射程を一覧にしている。明朝までに、誤りがないか、見てくれ」

「……明朝まで、ですか?」

「できないか?」

「いえ。お引き受けします」


象山は、胸を張って、帳面を受け取った。


その夜、象山は、塾の一室にこもった。

行灯の下で、算盤をはじき、計算紙を埋めていく。


(なんだ、これは。簡単ではないか。……いや、待て)


明け方、象山の手が、ぴたりと止まった。


(この数値、何かおかしい。三番目の列だけ、ほかと比べて、射程の伸びが大きすぎる……)


象山は、はじめから計算をやり直した。

二度、三度。結果は、同じだった。


象山は、帳面を抱えて、英竜のもとへ駆け込んだ。


「先生! 三番目の列に、誤りがございます!」


英竜は、書斎で、パンをかじりながら、振り向いた。


「ほう。どこが」

「火薬の量が、一匁、取り違えられております。ここの数値を、本来の値に直しますと……このように、射程は、五間ほど短くなります」


象山は、息を切らして、計算紙を突きつけた。


英竜は、しばらく、その紙を見つめていた。

やがて、満面の笑みを浮かべた。


「……見事だ」

「は?」

「その誤りは、わざと入れておいた」


象山の顔が、さっと赤くなった。


「わ、わざと……!?」

「正確には、昨夜、私自身が写し間違えた箇所に、気づいていてな。誰が見つけるか、試したくなった」


英竜は、遠慮なく笑った。


「だが、見つけたのは、お前が初めてだ。他の者は、気づく前に、写し間違いのまま、先へ進んでいた。象山、お前は、本物だ」

「…………」


象山は、言葉を失った。


腹が立つはずだった。試されたのだ。

だが、英竜の目に、嘲りは、まったくなかった。あるのは、ただ、同じ高みで議論できる相手を見つけた、純粋な喜びだけだった。


「いいか、象山」


英竜は、パンを一つ、象山に差し出した。


「私が間違えたとき、遠慮なく、その場で指摘しろ。身分も、年も、関係ない。間違いを指摘できる弟子が、私には、一番ありがたい」


象山は、震える手で、パンを受け取った。


「……先生は、ご自分が誤りを犯されることを、恐れないのですか」

「恐れるさ。ただ、誤りを隠すほうが、よほど恐ろしい」


英竜は、あっさりと言った。


「幕府の古株が、もし誤りを認められる者たちなら、この国は、今ごろ、もう少しましだったろうにな」


その言葉は、象山の胸に、深く、突き刺さった。


       *


その日から、象山は、変わった。


誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで学んだ。計算の誤りを見つければ、身分に関係なく、塾生の誰にでも、堂々と指摘した。そして、自分が間違えたときは、潔く、頭を下げた。


ある夜、象山は、パンをかじりながら、英竜の背中を見つめ、震える声で呟いた。


「……凄すぎる。江戸の役人どもが、『異国の脅威』から目を背けている間に、江川先生は、一人で未来の日本を作っておられる……! このお方こそ、真の英雄だ!」


後に幕末の思想家として、時代の中心に立つ象山も、このときばかりは、一人の熱狂的な「江川信者」であった。


江川塾の熱気は、瞬く間に、全国の志士たちへ伝わっていった。

後に幕府の陸軍奉行となる大鳥圭介、後に木戸孝允と名を改める桂小五郎など、日本の近代化を担う才能たちが、続々と、英竜のもとから巣立っていくことになる。


「フフフ……教育とは素晴らしいな」


夜、塾生たちの提出した課題の山を採点しながら、英竜は、満足そうに微笑んだ。


「私一人でできることには、限りがある。だが、この者たちが全国に散れば、日本の技術革新は、何倍もの速さで進む」


       *


だが——。


光が強くなるほど、影もまた、濃くなる。


江戸・南町奉行所。


鳥居耀蔵は、密偵から届いた「江川塾に全国から若者が集結している」との報告書を、ぐしゃりと握りしめていた。


「……身分を問わず若者を集め、西洋の兵術を教えているだと? 増長しおって、江川太郎左衛門……」


鳥居の口元に、残忍な笑みが浮かぶ。


「これは、もはや、ただの蘭学かぶれではない。『謀反の企て』と取られても、文句は言えまい」


灯りが、鳥居の影を、壁に長く、歪ませていた。


「渡辺崋山、高野長英は、すでに葬った。次は、西洋の知恵を誇る、残りの者どもだ。まとめて網にかけ、息の根を止めてくれるわ」


かつて「蛮社の獄」で蘭学者たちを葬った罠が、今、英竜たちのもとへ、静かに迫っていた。


(第11話「鳥居耀蔵の陰謀」へ続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。