第11話:鳥居耀蔵の陰謀
**第11話:鳥居耀蔵の陰謀**
天保十三年(1842年)、秋。
江川塾が熱気に包まれ、若者たちが未来への希望を燃やしていた頃——江戸の闇の奥では、嫉妬と猜疑心に狂った陰謀が蠢いていた。
南町奉行・鳥居耀蔵。
「妖怪」の異名で恐れられるこの男は、灯りを絞った執務室で、密偵からの報告書に目を通していた。
「渡辺崋山は死に、高野長英は牢の中。……だが、まだ残っておるな」
鳥居は、報告書の端を、指先でとんとんと叩いた。
「高島秋帆。そして、江川太郎左衛門」
かつて「尚歯会」に集った蘭学者たちを「蛮社の獄」で葬った鳥居にとって、西洋の知恵を掲げる者は、一人残らず排除すべき存在だった。
「徳丸ヶ原では、水野様の覚えもめでたかったそうだが……だからこそ、早いうちに根を断たねばならぬ」
鳥居は、にたりと笑った。
「罪状など、いくらでも並べられるわ」
*
「……して、長崎の件は」
「はっ。長崎会所の元役人を、一人、手なずけてございます」
鳥居の前に控えた密偵が、低く答えた。
「その者の口から、『秋帆が会所の金を私し、唐船と通じて火薬を横流しした』と、証言させまする」
「上出来だ。ついでに、謀反の企てと書き添えておけ」
「は……。して、証拠は?」
「証拠?」
鳥居は、くつくつと喉を鳴らした。
「必要なのは、証拠ではない。人が信じる『筋書き』だ。あとは、牢の中で、本人に認めさせればよい」
障子越しの月明かりが、鳥居の痩せた顔を、青白く照らしていた。
*
数日後の夜明け前。
江戸・神田の秋帆の宿に、ひそやかな足音が近づいていた。
「……来たか」
文机に向かっていた秋帆は、筆を置いた。
夜通し、砲術書の写しを仕上げていたのである。
戸が、乱暴に打ち破られた。
「高島秋帆! 御用である! 長崎会所の金を私し、異国と通じて謀反を企てた疑いにより、お縄を頂戴する!」
捕吏たちが、どやどやと踏み込んでくる。
秋帆は、少しも慌てなかった。
静かに立ち上がり、文机の上の書き物を、丁寧にまとめる。
「……鳥居殿の、お仕事ですかな」
「口を慎め! 縄を打て!」
縛られながら、秋帆は、ふっと笑った。
「異国の船を撃つ砲の技が、まさか、自国の役所に縛られるとはな」
「何を言っている」
「いや。独り言です」
秋帆は、連行される間際、振り向いて、文机に残した書き物へ、一瞬だけ目をやった。
(江川殿……。どうか、無事で)
その唇が、わずかに、そう動いた。
*
「代官様! 大変でございます! 高島秋帆様が……幕府に捕縛されました!」
伊豆韮山の書斎。
手代の辻守応が、青ざめた顔で飛び込んできた。
「何だと……! 秋帆殿が!?」
英竜は、立ち上がり、手にしていた筆を取り落とした。
墨が、白い紙の上に、黒々と広がる。
「罪状は何だ!?」
「そ、それが……『長崎会所の金を私し、異国と通じて謀反を企てた』という、不可解な疑いでございます!」
「冤罪だ! 馬鹿げている!」
英竜は、怒りに任せて、机を叩いた。
徳丸ヶ原で、幕府の重臣たちを唸らせた、あの高島秋帆。
彼ほど、日本の海防のために身を捧げた男は、いない。それを、「謀反人」に仕立て上げるとは。
「江戸から戻った塾生の話では、秋帆様は、一言も弁明なさらず、堂々と引かれていかれたとのこと」
「……あの男らしい」
英竜は、拳を握りしめた。
怒りで、爪が掌に食い込んでいる。
「代官様、鳥居の狙いは、秋帆様だけではございません」
守応が、声を潜めた。
「江川塾で兵術を教えておられる代官様もまた、標的に含まれているとの噂が……」
「……だろうな」
英竜は、静かに頷いた。
「崋山と長英を葬った次は、秋帆殿と、この私か」
その脳裏に、二人の友の顔が、浮かんだ。
渡辺崋山。画家でありながら、画期的な海防論を唱えた友。
高野長英。西洋の医学と科学を、惜しみなく教えてくれた同志。
二人を奪った罠が、今度は秋帆を捕らえ、英竜へ迫ろうとしている。
「守応」
「は、はい」
「塾の帳簿を、すべて揃えておけ。入塾の記録、出欠簿、費用の出入り、教科書の写しに至るまで。一文字の漏れもなく、だ」
「……戦う、おつもりで」
「戦うのではない」
英竜は、くるりと窓の外へ向き直った。
「証拠で、身を守るのだ。そして——」
夕闇に沈みゆく空を見つめながら、英竜は、低く言った。
「必ず、秋帆殿を取り戻す」
*
その言葉が、現実の備えを求められるのは、数日後だった。
代官所の門前に、土埃を上げて、一団の馬が止まった。
先頭に立つのは、鳥居の腹心である目付。
「江川代官! 御用の筋により、江川塾の取り調べに参った! ならびに、代官所の監査を行う! 門を開けられい!」
門の内側で、守応が、息を呑んだ。
「だ、代官様……!」
「通せ」
英竜は、羽織の裾を払って、悠然と、広間へ向かった。
「ようこそお越しくださいました。ご存分に、お調べを」
その口元に、不敵な笑みが浮かんでいた。
鳥居の放った最初の刃が、いま、英竜の喉元へ迫っていた。
(第12話「高島秋帆事件、江川への取り調べ」へ続く)




