第12話:高島秋帆事件、江川への取り調べ
**第12話:高島秋帆事件、江川への取り調べ**
「江川代官。お主の主宰する『江川塾』だが……」
代官所の広間。上座に陣取った目付が、扇子で膝を叩きながら、ねっとりと切り出した。
「身分を問わず、怪しげな者を集め、異国の軍術を教えておるな? これは、叛逆の企てではないのか?」
役人は、下卑た笑みを浮かべて迫る。
広間の隅では、家臣たちが、生きた心地もなく控えていた。守応など、膝の上で握った拳が、白くなっている。
その中で、英竜だけが、静かに座していた。
「叛逆? 冗談を言ってもらっては困る」
英竜は、冷ややかに目付を見据えた。
「では、お尋ねしよう。叛逆とは、何を指して言う」
「む……。幕府の許しなく、兵を集め、武芸を教えること」
「ふむ。塾生の身元は、一人残らず、保証人付きで記録している。教える内容は、数学、測量、軍学、蘭語。兵を集めたのではなく、学ぶ者を集めたのだ。幕府の海防の一助となる、実学のためにな」
英竜は、守応に目配せした。
「守応。例のものを」
「は、はいっ!」
守応が、よろめきながら立ち上がり、奥から、大きな行李を引きずってきた。
蓋が開かれた瞬間、目付の顔が、ひくりと引きつった。
中には、分厚い帳面の山が、びっしりと詰まっていたのである。
*
「これは、江川塾の全塾生の『身元保証書』と『学習記録』だ」
英竜は、帳面を一冊ずつ、目付の前に積み上げていった。
ドン。ドン。ドン。
畳が、鈍い音を立てる。
「出欠簿。費用の帳簿。使用した教科書の写し。講義ごとの課題と、その採点結果。塾生の出入りの日付、行き先に至るまで、すべて、一文字の狂いもなく記録してある」
「な……帳簿だと?」
「そうだ。我が塾で教えているのは、幕府の海防を強化するための『実学』と『数学』のみ。隠すことなど、何一つない」
英竜は、一冊の帳面を開き、目付の鼻先に突きつけた。
「たとえば、これ。先月二十三日の講義。題は『三角法による距離の測定』。出席三十八名。欠席二名、うち一名は病欠、診察の記録もここにある。講義に使った材料費、縄が三束、杭が十二本、計一両二分。支払いは、領内の商人へ、現金にて」
「わ、分かった、分かったから……」
「まだ、ございます。この箱は、一昨年の分。こちらは、昨年の分」
次々と積み上がる帳面。
目付の額に、脂汗が滲み始めた。
英竜は、にこりともせず、続けた。
「疑うなら、この帳簿と塾生の名簿を、そのまま老中首座・水野様へ差し出しても構わんが……いかがか?」
「く、くっ……!」
目付は、扇子を握りしめたまま、言葉に詰まった。
水野忠邦は、徳丸ヶ原で、英竜と秋帆に「大儀であった」と告げた男である。
その名を出されては、安易に、叛逆の筋書きを押しつけることはできない。
*
「……江川代官」
苦し紛れに、目付は、話題を変えた。
「では、高島秋帆との関係を、聞かせてもらおう。あの男が、異国と通じていたことは」
「存じません」
英竜は、即答した。
「秋帆殿は、私の砲術の盟友にございます。長崎で学んだ洋式砲術を、日本のために役立てようとなさっていた。異国と通じていたと言うなら、長崎で学ぶこと自体が、罪になりましょう」
「口を慎め!」
「事実を述べているだけにございます」
英竜は、静かに、しかし一歩も引かずに言い切った。
「もし、秋帆殿に罪ありと仰せなら、その証を、この江川にも、お見せいただきたい。感情ではなく、記録で。私も、記録で応じます」
静まり返る広間。
目付は、唇を噛んで、英竜を睨みつけていた。
だが、反論の言葉は、出てこなかった。
完璧すぎる記録と、会計の透明性。
英竜は、根性論でも情に訴えるのでもなく、圧倒的な「事務能力と証拠」で、鳥居の放った刺客の言いがかりを、完膚なきまでに論破してみせたのだった。
「……本日は、これで引き上げる」
目付は、立ち上がり、肩を怒らせて広間を出ていった。
その背中が見えなくなった途端、守応が、へなへなと畳に座り込んだ。
「だ、代官様……。心臓が、止まるかと思いました……」
「止まっては困る。まだまだ働いてもらうのだから」
英竜は、涼しい顔で言った。
その肩には、ほんの少しだけ、疲れが滲んでいた。
*
「チッ……江川太郎左衛門め、隙がない男だ……!」
江戸の南町奉行所。
報告を聞いた鳥居耀蔵は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
完璧に固められた防備のせいで、英竜を直接捕らえることは、できそうにない。
しかし、鳥居の執念は、そんなことでは収まらなかった。
「……ならば、秋帆を徹底的に追い詰めよ。江川の『砲術の師』である秋帆に罪を着せ、自白させれば、江川も連座で引きずり降ろせるわ!」
鳥居の陰謀は、静かに、さらに深く、根を張っていく。
*
その夜。伊豆の代官所。
自室で一人になった英竜は、暗闇の中で、拳に爪が食い込むほど強く握りしめていた。
(崋山……長英……秋帆殿……)
昼間の攻防は、勝った。守った。
だが、勝ったのは、己の身だけである。
(私の事務能力で、己の身は守れても……友一人、救えぬというのか)
自分の無力さに、胸が張り裂けそうになる。
窓の外では、冷たい秋風が、庭木をざわざわと揺らしていた。
その音に紛れて、英竜は、誰にともなく呟いた。
「……秋帆殿は、今ごろ、どこにおられるのだろうな」
答える者は、いなかった。
その頃、江戸・小伝馬町。
冷たい石の牢獄の奥へ、一人の男が、静かに押し込まれていた。
(第13話「牢の友と、不屈の誓い」へ続く)




