第8話:見分の老中たちと、阿部正弘の目
**第8話:見分の老中たちと、阿部正弘の目**
野原の風が、ふっと止まった。
「次は大砲だ。目標は五町(約五百五十メートル)先、あの赤い旗」
英竜が静かに命じる。
秋帆が素早く分度器と計算紙を取り出し、風向きと角度を割り出した。
「角度、二十二度。火薬量、規定通り! 放てぇッ!」
ドォォォォン……ッ!!
腹の底を揺さぶる轟音とともに、砲弾が空を切り裂いて、一直線に伸びていく。
本陣の役人たちが息を呑んで見守る中——
ドッッッガアアアン!!
五町先の赤い旗が、爆発とともに土煙を上げ、木っ端微塵に吹き飛んだ。
「ひいいっ!?」
「当たった……! あんな遠くの的に、一発で……!?」
年配の重臣は腰を抜かしてひっくり返り、役人たちは扇子を取り落として、口をあんぐりと開けている。
「まだ終わらんぞ!」
英竜が叫んだ。
「移動砲撃! 急速旋回!」
兵卒たちが一斉に群がり、重い大砲を驚くべき速さで転がして、別方向へ照準を合わせる。
「放てッ!」
ドォン! ドォン! ドォン!
連続して放たれた砲弾は、次々と遠くの的に着弾し、正確無比に標的を破壊していった。
精緻な数学と物理学、そして徹底された集団行動。
根性論と見栄ばかりだった日本の軍事に、「近代科学の戦争」が降臨した瞬間だった。
*
煙が、静かに風に流されていく。
演習場は、しんと静まり返った。
誰も声を出せない。
先ほどまで嘲笑していた役人たちは、顔を蒼白にして、がたがたと震えていた。
その中で、水野忠邦の斜め後ろに控えていた鳥居耀蔵だけが、唇を固く結んでいた。
その視線は、英竜と秋帆の背中を、じっと追っている。
英竜は、ゆっくりと本陣へ歩み寄り、呆然とする重臣たちを見据えた。
「いかがでございましょう。これが、オランダより学びし『西洋科学砲術』にございます」
静かな野原に、英竜の声が響く。
「異国の船が積んでいるのは、まさにこの力にございます。……伝統の儀式で、この砲弾が防げますか? 神仏への祈祷で、この鉄の塊を弾き返せますか?」
「……っ!」
答えられる役人は、一人もいなかった。
ただ一人、水野忠邦だけが、静かに扇を閉じた。
「……見届けた。江川、高島。大儀であった」
短い言葉だった。
しかし、それは、幕府の頂点に立つ男が、西洋砲術を「本物」と認めた瞬間でもあった。
*
「——これはこれは。江川殿」
演習のあと、片づけの指示を出していた英竜の背に、聞き覚えのない声がかかった。
振り向くと、そこにいたのは、柵のそばで筆を走らせていた、あの若者だった。
「失礼。つい、見入ってしまいまして。歩兵の連射の仕組み、一つ教えていただきたい」
「どなたかな」
「——ああっ! こんなところにおられた!」
遠くから、慌てふためく声が、駆け寄ってきた。
数人の供侍が、血相を変えて、若者のもとへ走ってくる。
「寺社奉行様! お探ししましたぞ! 本陣を抜け出されては困ります!」
「すまぬ。どうしても、間近で見たくてな」
若者は、悪びれもせず、頭をかいた。
「江川殿、名乗りが遅れました。私は阿部正弘。いささか、幕府の仕事を預かる者です」
「あ、阿部……様……? 福山藩主の……?」
英竜は、目を見開いた。
寺社奉行を務める、福山藩主・阿部正弘。まだ二十そこそこの若さで、すでに幕閣の期待を一身に集めていると噂される男である。
その人物が、粗末な身なりで、柵の外に立っていたのだ。
「驚かせてしまいましたか。……いや、正直に申します」
阿部は、真剣な眼差しで、英竜を見つめた。
「私は、今日、見てはいけないものを見た気がします」
「は……?」
「根性論の古株どもを一蹴し、あの水野様まで動かした。……江川殿。貴殿のその力が、この国には必要だ。必ず」
その目は、嘘偽りなく、燃えていた。
(素晴らしい……! この男こそ、日本を救う本物の怪物だ!)
阿部は、胸の内で、そう叫んでいた。
「いずれ、また、お会いしましょう。その時までに、私も力をつけておきます」
阿部は、さっと一礼すると、供侍に急かされながら、足早に去っていった。
英竜は、その背中を、しばらく見送っていた。
「……不思議な方だ」
ぽつりと呟く。
「何かが、動き出す気がするな」
*
徳丸ヶ原の試射は、大成功に終わった。
英竜と高島秋帆の名声は、一夜にして、日本全国へ轟いた。
「伊豆に、とんでもない天才代官がいる」
「科学の力で、大砲を寸分違わず当てるそうだ」
噂を聞きつけた全国の志ある若者たちが、続々と、伊豆韮山を目指し始めた。
代官所の自室。
英竜は、山と積まれた入門志願書を前に、満足そうに笑みを浮かべた。
「ふふふ……面白くなってきたぞ。私の『技術』を学びたいか。よかろう、身分など関係ない。志ある者に、すべてを授けてやる!」
ここに、幕末の歴史を揺るがす伝説の塾——「江川塾」が、産声を上げようとしていた。
(第9話「江川塾、開講」へ続く)




