第7話:徳丸ヶ原の試射
**第7話:徳丸ヶ原の試射**
天保十二年(1841年)五月九日。
武蔵国・徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)。
平らな野原に、見たこともない大規模な演習場が設けられていた。
夜明け前から、英竜は陣列の端から端まで、自分の足で歩いていた。
「縄の張りが甘い。ここは一寸、右へ直せ」
「はっ!」
「火薬の袋は、湿気を避けて、風上に置け」
「はっ!」
百名余りの塾生と兵卒たちは、みな顔を強張らせている。
何しろ今日は、老中をはじめ、幕府の重臣たちの前での演習なのだ。
「先生……足の震えが、止まりません」
若い塾生が、情けない顔で呟いた。
「そうか。私もだ」
「えっ?」
「震えるのは、真剣だという証拠だ。恥じることはない」
英竜は、青年の肩を、ぽんと叩いた。
「ただし、震えたまま撃つな。やるべきことは、すべて数字に落としてある。お前は、その通りに動けばいい。それができるまで、何百回も繰り返してきたのだ」
「……はい!」
青年の顔に、血の気が戻った。
傍らで、秋帆が微笑んでいる。
「江川殿は、人の使い方がうまい」
「秋帆殿こそ。昨夜は寝ていないのでは?」
「ははは、見抜かれましたか」
二人は、静かに笑い合った。
*
やがて、本陣に、見分役が揃った。
座に就くのは、老中・水野忠邦をはじめとする、幕府の重臣たちである。
「江川と高島とやら、西洋の砲術を見せつけるというが……」
「フン、異国の真似事など、お上の威光の前には、児戯に等しいわ」
守旧派の役人たちが、扇子をパチパチと鳴らして、鼻で笑う。
その中央で、水野忠邦だけは、笑わなかった。
扇を膝に置いたまま、野原を冷ややかに見据えている。
「……見せてもらおう。西洋の砲術とやらが、お上の役に立つものか、ただの見世物か」
低く、よく通る声だった。
ざわついていた本陣が、ぴたりと静まる。
その視線の先で、江川英竜と高島秋帆が、静かに指揮を執っていた。
「代官様、幕府の要人どもが、ずらりと並んでおりますぞ。みな半信半疑の顔です。特に、あの中央のお方は……」
手代の辻守応が、緊張で声を震わせる。
「老中の、水野様だ」
英竜は、不敵に笑った。
「構わん。言葉で説明しても分からぬ連中だ。『圧倒的な現実』を、眼前に突きつけてやるまでよ」
ゲベール銃と、モルチール砲(臼砲)が、ずらりと並ぶ陣列。
英竜が片手を挙げた。秋帆が深く頷き、太鼓のバチを握る。
「——演習開始ッ! 陣形を展開せよ!」
ドンドンッ! と太鼓が鳴り響いた。
*
次の瞬間、本陣の役人たちの目が、点になった。
従来の合戦なら、「ワーッ」と鬨の声を上げ、思い思いに駆け出すのが常である。
だが、英竜と秋帆が鍛え上げた塾生・兵卒たちは、違った。
一斉に足を揃え、整然とした四角い陣形(方陣)を組むと、精巧な機械のように、無言で前進を始めたのだ。
「な、なんだあの動きは……!? 揃いすぎているぞ!」
「声ひとつ上げずに……不気味なほどの統制だ……!」
ざわめく本陣をよそに、英竜の指揮棒が、振り下ろされた。
「第一列、構え! 放てッ!」
ズバババババッ!!
凄まじい銃声とともに、前列が一斉に撃つ。
撃ち終えると同時に、前列がサッと膝をつき、二列目が前へ出て、間髪入れずに——
「第二列、放てッ!」
ズバババババッ!!
途切れることのない連続射撃。
煙が晴れると、遠くに並べた人型の標的は、跡形もなく粉々に砕けていた。
「バ、バカな……! 鉄砲の連射だと!?」
「弾を込める隙がない……あんな陣形に突撃すれば、我が方の騎馬隊など、一瞬で全滅するぞ!」
冷や汗を流し始める重臣たち。
その中で、水野忠邦だけが、わずかに身を乗り出していた。
「……弾込めの間を、あの陣形で消したか」
誰に言うでもない呟きだった。
だが、その目は、もはや見世物を見る目ではなかった。
*
演習場の片隅。
本陣から離れた柵のそばに、一人の若者が立っていた。
きりりとした眉に、聡明そうな眼差し。幕府の若い役人らしく、粗末ながら、きちんとした身なりをしている。
若者は、歩兵の動きを、食い入るように見つめていた。
やがて、懐から、小さな帳面を取り出し、何かを書きつけ始める。
(弾込めの時間を、列を替えることで、消している。……あれは、一人一人の腕ではない。仕組みだ)
筆が、走る。
(数が違う。理が違う。この国は、今まで、何と戦おうとしていたのだ……)
若者は、ふと筆を止め、英竜の背中へ視線を向けた。
その目が、爛々と、輝いていた。
英竜は、まだ、それに気づかない。
「秋帆殿」
英竜は、小声で囁いた。
「ここからが本番だ。大砲の用意を」
「承知しました。五町先の、あの赤い旗ですな」
秋帆の口元に、ゆっくりと、笑みが浮かんだ。
野原の風が、ふっと止まる。
静寂のなか、巨大な砲身が、ゆっくりと、目標へ向けられていく。
「——次は、大砲だ」
幕府の重臣たちが固唾をのむ中、科学砲術の真価が、いよいよ、示されようとしていた。
(第8話「見分の老中たちと、阿部正弘の目」へ続く)




