第4話:パンが領民を救う、鳥居耀蔵の影
**第4話:パンが領民を救う、鳥居耀蔵の影**
泥流の被害から、数か月。
水路のおかげで、稲田は少しずつ顔を出した。だが、一度埋もれた田が、元通りに実るはずもない。
「代官様……このままでは、冬が越せませぬ」
代官所の広間で、甚兵衛が、深く頭を下げた。後ろには、上流三村の庄屋たちが、青白い顔で並んでいる。
「今年の米は、ほとんど取れませなんだ。蔵の底も見えております。村の年寄りと子どもから、順に……」
その先は、言葉にならなかった。
英竜は、黙って聞いていた。やがて、守応に向き直る。
「守応。代官所の小麦の蔵は、どれほど残っている」
「は、はい。兵糧パンの試作用に、備蓄しておりましたものが、およそ二百俵ほど」
「全部出せ」
「ぜ、全部でございますか!? しかし、あれは軍用の——」
「軍用の前に、民だ。民が飢えて倒れれば、守る国もない」
英竜は、きっぱりと言った。
*
翌朝から、代官所の裏庭は、さながら戦場になった。
窯が三つに増え、守応をはじめ手代たちが、粉まみれで走り回る。英竜自らが、生地の捏ね方を、一人ずつ指導して回っていた。
「違う! 力任せに叩くな! 押して、畳んで、また押す。その繰り返しだ!」
「は、はいっ!」
次々と焼き上がるパンは、籠に詰められ、荷車で、上流の村々へ運ばれていった。
「これが、お代官様の焼いた……ぱん、とやらか」
配給の列に並んだ老婆が、手の中の硬い塊を、不安そうに見つめた。
「蛮人の食い物じゃと聞いたが……」
「ばあちゃん、お汁に浸して食うんだよ! 代官様が、そう言ってた!」
幼い孫が、得意げに教える。
老婆は半信半疑のまま、粥の椀にパンを浸し、そっと口に運んだ。
「……おや」
噛みしめるうちに、皺だらけの顔が、ゆるんだ。
「やわらこうなって……香ばしいのう。それに、腹にずっしり来る」
「でしょ! おいらも三つ食べたよ!」
「こりゃ。そんなに食べては、他の者の分がなくなる」
笑い声が、村に広がった。
久しく聞かれなかった笑い声だった。
その輪の端で、甚兵衛が、目頭を押さえていた。
「代官様……。龍神様にも、お上にも、頼れんかったわしらを……」
「礼は要らん。これは、お前たちが泥の中でも手を止めなかったから、できたことだ」
英竜は、ぶっきらぼうに答えると、パンの籠を、次の家へ運んでいった。
後に、この冬を越した村々では、こんな言葉が、語り草になったという。
——「伊豆の代官様のおかげで、一人も飢え死にを出さなんだ」。
*
その頃、江戸——。
南町奉行所の奥座敷。
「なに? 伊豆の江川が、小麦を捏ねて、蛮人の喰い物を作っているだと?」
南町奉行・鳥居耀蔵は、密偵の報告を聞くなり、蔑むように口の端を歪めた。
色白で痩せた顔。底の知れない、冷たい眼。「妖怪」の異名で恐れられる男である。
「は。それが、領民にまで配り、大層、評判になっておるとか」
「領民に、だと?」
鳥居の眉が、ぴくりと動いた。
「代官が、己の裁量で、異国の食物を民に広めている……。蘭学にかぶれた挙句、食い物まで西洋の真似事か。おぞましい」
鳥居は、扇でゆっくりと膝を叩いた。
「江川太郎左衛門め。民の心を掴み、蘭学者を育て、武器まで作り始めたか。……調子に乗りおって」
その目に、暗い執念の光が宿る。
「幕府の伝統を汚す不遜な振る舞い、いずれ、叩き潰してやるわ」
扇の音だけが、静まり返った座敷に響いた。
*
そんな江戸の企みなど露知らず、英竜は深夜の書斎で、兵糧パンをかじりながら、一枚の大きな図面を広げていた。
複雑な角度計算と、大砲の図が描かれている。
「兵糧の問題は、片づいた。民の腹も、満たせる。……だが」
英竜は、図面を指で叩いた。
「いくら素早く動けても、敵を倒す大砲が今のままでは話にならん」
脳裏に、和流砲術の稽古で見た光景が蘇る。
狙いも定めず、音と煙で威嚇するだけの「作法」。
英竜は、深い溜息をついた。
「大砲は飾りではない。計算で敵を撃ち抜く兵器だ。……近いうちに、長崎から凄まじい男が戻ってくるらしいな」
英竜の目が、爛々と輝く。
「西洋砲術の第一人者——高島秋帆。彼に会わねばならん。日本の砲術を、根底から塗り替えるために!」
自力でパンを焼き上げ、兵糧改革と領民救済を成し遂げた英竜。
その視線は、すでに、次なる「軍事の科学化」へ向けられていた。
(第5話「砲術の天才・高島秋帆」へ続く)




