第1話:伊豆の代官は、西洋オタク
**第1話:伊豆の代官は、西洋オタク**
天保の世。
伊豆の山あいの村々は、前の月の大雨で崩れた山から流れ出た泥に、無残に呑み込まれていた。
実りかけた稲田は、胸の高さまで土砂に埋まっている。流された家の梁が、泥の中から突き出していた。
村人たちは、ただ茫然とその前に立ち尽くしている。
「龍神様の怒りじゃ……」
「祈るしかねえ。祈るしか……」
そんな声が、あちこちで力なく漏れていた。
*
韮山代官所の広間には、重苦しい空気と、汗と古畳の臭いと、そして何より「絶対に新しいことはしたくない」という強い意志が充満していた。
「——よって、今回の泥流被害への補正予算、ならびに復旧作業の人員拠出につきましては……」
書役の読み上げる声が、ぼそぼそと続く。
上座に座る江川太郎左衛門英竜は、和紙にずらりと並んだ数字から目を上げ、控える庄屋たちを見渡した。
「……で、あるからして! 代官様!」
声を張り上げたのは、この地域の長老格・甚兵衛である。
「昔からの慣わし通り、各村から一律で男手を三名ずつ差し出し、神仏への祈祷を絶やさぬことこそが、龍神様の怒りを鎮め、土砂を退ける唯一の道にございます!」
周りの村役人たちも、「いかにも、いかにも」「昔からそう決まっております」と、深々と頭を下げて同調した。
英竜は、長いため息をひとつ吐いた。
「甚兵衛」
「は、はいっ!」
「お前が言っているのは、気休めと根性論だ」
「……は?」
バッサリと切り捨てられ、甚兵衛は口をぽかんと開けた。
英竜は、手元の大きな図面を畳の上に、バサリと広げた。
従来の和算の絵図とは一線を画す、精緻な線と記号で描かれた「西洋式測量図」である。
「いいか。今回の土砂崩れは、龍神の怒りなどではない。大雨で水を含みきった山肌が、自らの重みに耐えかねて崩れ落ちたのだ。いわば『物理現象』だ」
「ぶ、ぶつり……でございますか?」
構わず、英竜は図面の一点を指で叩いた。
「根性で土砂を削っても意味はない。この数字を見ろ。川上の傾斜は三十二度。ここへ一律三人ずつ出したところで、作業の効率は雀の涙ほども上がらん。むしろ急斜面での作業は二次災害を生み、死人を増やすだけだ」
「は、はあ……しかし、昔からの『慣わし』では……」
「慣わしで腹が膨れるか! 慣わしで土砂が消えるか!」
英竜が畳をバンと叩くと、居並ぶ役人たちの肩が、ビクッと跳ねた。
*
「一律の動員は取りやめる」
英竜は、きっぱりと言い渡した。
「被害の大きかった上流の三村は、人手の拠出を免除する。その代わり、被害の少ない川下の村から、算術で弾き出した『最適な人数』を割り振る。ただ闇雲に掘るのではない。オランダの土木書から学んだ『階段状のバイパス排水路』を造るのだ」
「お、おらんだ……!?」
甚兵衛が、悲鳴に近い声を上げた。
「西洋の蛮人のやり方など……お上(幕府)からお咎めが……!」
「お咎めが怖くて民が救えるか!」
英竜は立ち上がり、腕を組んで一同を見下ろした。
「私は、韮山代官・江川太郎左衛門だ。この伊豆の民の命と暮らしを預かる者だ。神頼みで村を滅ぼす気なら、今すぐ役目を降りてもらおう」
広間が、水を打ったように静まり返る。
「実学の力で村を救う気がある者だけ、私についてこい!」
誰一人、返す言葉を持たなかった。
数字と、代官自らが示す圧倒的な説得力と情熱。それは、「昔からそう決まっている」という言葉の鎧を、音もなく貫いていた。
*
やがて、甚兵衛が、ぎこちなく頭を下げた。
「……代官様。その『ばいぱす』とやら、わしらの村の若い衆にも、やらせてくだされ」
「甚兵衛……」
「上流の三村には、わしの親類も多うございます。祈って待つだけで、あの泥が消えるなら、とうにそうしておる。……だが、消えん」
老庄屋は、しわだらけの拳を、膝の上で握りしめた。
「もし、その西洋の知恵とやらで、あの田が戻るのなら……」
英竜は、ふっと表情をやわらげた。
「戻す。必ずだ」
そう言うと、英竜は図面を丸めて小脇に抱え、袖をまくり上げた。
「さて、そうと決まれば、こうしてはいられん。守応! 水準器と測量縄を用意しろ! 日が落ちる前に、第一の水路の線を引くぞ!」
「は、はいっ! ……って、代官様がご自身で現場へ!?」
「当たり前だ。図面の上だけで水が流れるか!」
言うが早いか、英竜は、広間を飛び出していた。
その背中は、堅物のお代官様というより、新しいおもちゃを手に入れて目を輝かせる少年のようだった。
呆気にとられた庄屋たちは、顔を見合わせた。
「……あの代官様、本気だぞ」
「ああ。本気で、西洋の道具を担いで走っていかれた」
こうして、「西洋オタク」の代官による、前代未聞の泥流退治が幕を開けた。
はたして、算術で泥の海は退くのか——。
(第2話「西洋式排水路、動く」へ続く)




