第2話:西洋式排水路、動く
**第2話:西洋式排水路、動く**
数日後。
「代官様……! こ、これは一体……!?」
工事現場に立った甚兵衛は、自分の目を疑った。
泥に埋もれていたはずの谷あいに、一本の溝が、定規で引いたようにまっすぐ伸びている。しかもその溝は、ただ掘られているのではない。一段、また一段と、緩やかな階段状に下っていた。
「驚くのは早いぞ、甚兵衛。そこの杭を見ろ」
作業着姿の英竜が、泥だらけの顔で振り返った。手には、オランダ製の水準器。その傍らでは、手代の辻守応が、測量縄を抱えて走り回っている。
「杭の頭に、赤い印が付いているだろう。あれが、水平から一寸ずつ下げていく目印だ。急に落とせば水が暴れて岸を削る。緩すぎれば、泥が溜まって詰まる。その中間を、計算で割り出したのだ」
「へ、へえ……」
甚兵衛は、気の抜けた返事をするしかなかった。
鍬を振るう村人たちも、戸惑い顔である。
「なあ、本当にこんな溝で、あの泥が退くのかい」
「算術でどうにかなるなんて、聞いたこともねえぞ」
ひそひそ声が、あちこちで交わされる。そこへ、英竜の声が飛んだ。
「疑う者は、今日の夕方まで見ていろ。昼過ぎに、試し通水をする」
*
昼下がり。
上流の堰を、守応が震える手で、ゆっくりと切り開いた。
ゴボッ……ゴボゴボゴボ……
溜まっていた土砂まじりの濁流が、溝へ流れ込んでいく。
村人たちが、息を呑んだ。
暴れ狂う泥水は、階段の一段目で勢いを削がれ、二段目でさらに落ち着き、三段目、四段目と、まるで生き物のように決められた道筋をたどっていく。やがて田畑を避けて、静かに本流の川へ吸い込まれていった。
「……流れた」
「流れたぞ! 泥が、ちゃんと川へ行った!」
誰かが叫ぶと、歓声が爆発した。
「見ろ、甚兵衛」
英竜は、汗を拭いながら、爽やかに笑った。
「水は高いところから低いところへ流れる。当たり前の道理だ。その当たり前を、正しく計算してやれば、人は自然の脅威にさえ打ち勝てる」
「代官様……」
甚兵衛は、その場に膝をつき、泥だらけの地面に額を擦りつけた。
「わしは、間違っておりました。龍神様への祈祷より、よっぽど役に立ちます……!」
「顔を上げろ。祈祷が無駄だったわけではない。祈っている間に、皆の気持ちが一つになった。それは、大切なことだ」
英竜は、甚兵衛の肩を叩いた。
「ただ、祈ったあとは、手を動かす。神様も忙しいのだから、人間にできることは、人間がやればいい」
村役人も農民も、口々に英竜を称え、深々と頭を下げた。
根性論と伝統に縛られていた農村に、一筋の「科学の光」が射し込んだ瞬間だった。
*
それから、ひと月。
あれほど埋もれていた稲田は、水路の完成とともに、少しずつ姿を現し始めた。上流三村の若者たちは、新しい水路の脇に、泥を堰き止める小さな階段堰を、自分たちの手で増やしていった。
「代官様、この前の大雨でも、一滴も溢れませんでしたぞ!」
守応が、息を切らして駆け込んでくる。
「それは結構。だが、浮かれるな、守応。水路は、完成してからが本番だ。毎年、雨の前に点検する。詰まりがあれば、すぐに直す。村の者たちに、その仕組みを教えておけ」
「はっ! ……それにしても代官様、よくもまあ、あの洋書だけでここまで」
守応が、感嘆のため息をついた。
英竜は、少し照れたように鼻を鳴らす。
「洋書は道具にすぎん。大事なのは、それを使って目の前の民を救うことだ」
*
その夜。
代官所の自室に戻った英竜の表情は、一転して険しかった。
机の上には、洋書の原書、星図、三角測量の計算紙、そして暗号のようなオランダ語のノートが、所狭しと積まれている。
行灯の灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
(村の復旧くらいなら、この程度の蘭学でどうにかなる。……だが)
英竜は、窓の外、南の海のほうへ目を向けた。
(異国の船が、年々この国の近海に姿を現している。蒸気で動き、鉄の大砲を積んだ黒い船だ。もし奴らが本気で攻めてきたら……? 伝統と気合いしか持たぬ今の幕府に、何ができる?)
拳を、強く握りしめる。
泥流なら、水路で退けられる。だが、異国の艦隊は、算術だけでは退かない。
武器が要る。大砲が要る。そして何より、それを動かす兵と、兵を養う糧が要る。
「頼れるのは、神でも仏でも、古くさい幕府の慣例でもない。『科学』だ。私がこの手で、この国を塗り替えてやる……!」
その呟きは、夜の静寂に、吸い込まれていった。
江戸後期。異世界からの転生者でもなんでもない、生粋の江戸人・江川太郎左衛門英竜。
彼による「自力の技術革新」と「幕末無双」の物語が、今、幕を開けた。
(第3話「兵糧改革! 日本初の乾パン開発」へ続く)




