第3話:兵糧改革! 日本初の乾パン
**第3話:兵糧改革! 日本初の乾パン**
「——だ、代官様! 大変でございます! 裏庭から、怪しい煙がもうもうと上がっております!」
早朝の韮山代官所。手代の辻守応が、着物の裾を乱して廊下を駆け込んできた。
「火事でございますか!? それとも、まさか異国の襲撃……!?」
「騒々しいぞ、守応。朝から大声を出すな」
煙の出どころである裏庭から、ひょっこり顔を出したのは、顔中を煤で真っ黒にした江川英竜その人だった。
手には見慣れぬ土ゴテと、異国の文字がびっしり並ぶ分厚い洋書を握っている。
「代、代官様……!? そのお顔は一体……。それに、あの巨大な土盛りは……?」
守応の視線の先には、煉瓦と粘土で固めた、ドーム型の巨大な窯が鎮座していた。
「ふふふ……ついに完成したのだよ。オランダの軍事書にあった『パン焼き窯』がな!」
英竜は煤だらけの手で腕を組み、ニヤリと笑った。
*
「……ところで代官様。『ぱん』とは、一体なんでございましょう」
恐る恐る尋ねる守応に、英竜は洋書の挿絵を突きつけた。
「異国の兵が食う糧食だ。小麦の粉を練って焼く。米を炊くより手間がかからず、日持ちもする」
「はあ……。して、その、うまくいきましたので?」
「…………」
英竜の視線が、ついと窯の脇へ逸れた。
そこには、黒焦げの塊が、山のように積まれていた。
「……初回の分は、窯の火が強すぎた。二回目は、生焼けだった。三回目は、水の量を間違えた」
「つまり、まだ一つも」
「うるさい。四回目で、窯の温度を測る道具を作った。五回目で、ようやく、火加減の勘どころがつかめたのだ」
英竜は胸を張った。
「失敗とは、データが一つ増えたということだ。さて守応、今から六回目を焼く。見ていろ」
*
「いいか、皆の者。よく聞け」
その日の昼、代官所の広間に集めた家臣や兵卒たちを前に、英竜は熱弁を振るった。
「異国の船が頻繁に近海に現れている以上、我らもいつ沿岸防衛のため、長距離の行軍を命じられるか分からん。そこで問題だ。武士の戦の糧食といえば何だ?」
「はっ! もちろん、米(握り飯)にございます!」
若い兵卒が、胸を張って答える。英竜は「ふむ」と頷き、人差し指をチッチッと振った。
「甘い。実に甘いぞ。夏場の行軍で握り飯など、たった一日で糸を引き、腹を下す元だ。干し飯もあるが、戻すのに時間がかかる。戦場で優雅に湯を沸かしている暇などない!」
「む……確かに……」
「米は重く、嵩ばり、日持ちもせん。行軍の足を引っ張る最大の弱点だ。……そこでこれだ!」
英竜が、バッと風呂敷を広げた。
現れたのは、こんがり焼けた、カチカチの褐色の塊の山である。
「……なんですか、この焼けた土くれは」
「炭でしょうか……気味が悪い……」
後ずさる家臣たちに、英竜は胸を張って宣言した。
「これこそ西洋の兵糧——『パン』だ!」
「ぱ、ぱん……!?」
「小麦粉に水と塩を混ぜ、あの窯で二度焼きして、水分を極限まで飛ばしてある。軽くて嵩ばらず、何より……数か月放っておいても腐らん!」
「えええええっ!?」
広間に、どよめきが走った。
数か月腐らぬ食べ物など、当時の日本人にとっては、妖怪の仕業も同然である。
「さあ、試してみろ!」
促され、守応がおずおずと一つ手に取った。
「うぐっ……か、硬い! 歯が折れそうです!」
「噛むな! 唾でふやかすか、汁に浸して食うのだ!」
守応は言われた通り、温かい味噌汁にパンを浸し、恐る恐る口へ運んだ。
しばらく噛みしめるうち、その目が丸くなった。
「……あ、あれ? 香ばしい……! 出汁を吸って、もちもちして……美味い!? 美味いですぞ、代官様!」
「何ッ!? どれどれ……おお! 腹にズシリとくる! 腹持ちも凄まじいぞ!」
「軽い! これなら袋に詰めて、何日分でも持ち歩ける!」
あれほど気味悪がっていた家臣たちが、掌を返したようにパンを奪い合い、絶賛し始めた。
*
「ハハハ! そうだろう、そうだろう!」
英竜は、満足げに頷いた。
「これさえあれば、数日続けての行軍も可能になる。小荷駄、つまり食糧輸送の部隊を最小限に抑えられるから、機動力は従来の三倍だ!」
「三倍……! まさに兵站の革命にございます!」
「よし! 代官所内に『製パン所』を設ける! この兵糧パンを、全軍の標準装備とするぞ!」
「「「ははーっ!」」」
家臣たちが一斉に平伏した、そのとき。
「……あの、代官様」
広間の入り口から、小さな声がした。
見ると、近所の百姓の子どもたちが、塀の隙間からこちらを覗いている。
「なんか、すっごくいい匂いがする……」
「それ、おいらたちも食べていいの?」
英竜は、目を瞬いた。
空腹の子どもたちの、澄んだ瞳。
「……そうか。そういう使い道も、あるな」
ぽつりと、英竜が呟く。
「守応。窯の火を落とすな。今日は、焼けるだけ焼くぞ」
「は、はあ。しかし、兵糧用では……」
「兵糧だけではない。腹を空かせた者に、食わせてやる。それも、立派な『備え』だ」
英竜はそう言うと、袖をまくり上げ、再び裏庭の窯へ向かって歩き出した。
その背中を、子どもたちの歓声が追いかけていく。
兵糧改革は、思わぬ形で、領民の暮らしへとつながっていこうとしていた——。
(第4話「パンが領民を救う、鳥居耀蔵の影」へ続く)




