27
不安定だった心に、ゆっくりとアードルフの言葉が、温もりが、広がるように浸透していく。
未だに外の雨風の音は怖くて、奥底に根付いた仄暗い感情に負けそうになる。そんな感情を受け取る度に、アードルフはミレイラの目元や頬、唇に口付けを落としていく。
柔らかな感触と、少しだけくすぐったい、甘い吐息と共に愛を与えてくれる。
それがどうしようもなく、嬉しくて。
ようやく泣き止んだミレイラは、腫れぼったい目元を拭おうと手で擦る。そんな動作をアードルフが静かに窘める。
「擦っては駄目だ、余計腫れてしまう」
そう言って、目元に口付けながら涙を吸い取る。
「本当は冷やせればいいんだが……」
「今日は、誰も来ないから」
ミレイラが荒れた日の夜にこうなることは、邸の人間は把握している。今まではエルネストに依存していたため、ずっと兄に介抱されていた。
「ベッドの横に、飲み水と水受けは用意してあるんです。こうなると、エル兄様以外の誰をも拒絶してしまうから」
「……エルネスト殿にも、こうしてもらってたのか?」
何故か不機嫌そうな声が響いて、それが嫉妬からきたものだと気付いてしまって、そのことに嬉しいと感じてしまう。本当に、この人はミレイラと言う人間を、ここにいる私だけを自分のものにしたいのだと伝わってくる。
「いいえ。同じ部屋には、いてもらいましたが……。出来ても、手を繋ぐだけで」
それ以上エルネストを束縛してしまうのが怖かったから、自分から距離を取っていた。
「本当は、ずっと抱き締めていて欲しかった……」
「なら、それは俺の役目だな」
そう言って、アードルフの胸に顔を埋められる。サラサラの銀髪と、温かい吐息が首元にかかるのが少しだけくすぐったい。それ以上に、包み込まれる温かさが心にも行き届いていく。
「体が冷えてきたんじゃないか?せめてベッドに行こう」
「え……わっ」
急に膝の裏に腕を通されたと思ったら、軽々と抱き上げられてしまった。大した距離のない移動を終え、断る間もなくベッドに移されてしまう。
「風邪を引かなければいいが……」
「食事をしていないから、どうしても冷えやすいんです」
「何も食べていないのか?」
「スープは少し。こうなると、固形物は食べられなくて……」
無理して口に入れると戻してしまうため、いつも野菜が溶けるまで煮込んだスープぐらいしか口にすることが出来ないでいる。
「それも悪夢の影響なのか」
「そうだと思います。今日はまだ、軽度な方で……」
「その状態で眠れるのか?」
正直に言えば眠気自体はある。けれど、それ以上に。
「眠るのが……怖いのです」
眠るという行為が、自ら夢に囚われに行くように感じてしまう。だからいつもは寝ない努力をしていた。
「こういう日は、いつもどうして過ごすんだ?」
「友人から来た手紙を読み返したり、魔法に関わる本を読んだりしてました」
違うことで頭を埋めないと、後ろから迫りよる恐怖に負けそうになってしまうから。
「ならば、せめて話し相手になるか」
そう言ってアードルフはミレイラの隣に座ると、二人の体にブランケットを掛ける。そしてミレイラの肩に手を掛けると、体を引き寄せられてお互いの体が密着する。引き寄せた方と反対の手は、ミレイラの右手と繋がれた。
「これで少しは温かくなればいいが」
「……十分です。アル」
その心遣いが嬉しくて、アードルフの胸に顔を寄せる。こんな天候で、不安に押しつぶされるような夜なのに、今まで感じた事がないほどの多幸感に満たされていく。
「本当は、今日……アルが来てくれたことが、嬉しくてたまらなかった」
唯一ミレイラの存在を肯定してくれたアードルフが、一番傍にいて欲しかった人が来てくれたことが奇跡のようだった。すぐにでも縋ってしまいたかった。
「だけど、縋ってしまえば、全部をアルに押し付けてしまう」
何も説明することのないまま、アードルフ本人の意志すら関係なく押し付けてしまう。愛してくれる彼なら、受け入れてくれるだろうと。
「縋ってしまうのは確定してるのに、出来れば……アルに選んで欲しかった」
本人の意志で受け入れてもらえたら、それはどんなに幸せなことだろうと。
「私は卑怯ですね……」
「ミリィが卑怯なら、俺はもっと醜悪だな」
「そんなこと」
「最初から分かっていたんだ。ミリィが俺を求めていたことを」
最初からと、アードルフは口にした。つまり、あの夜会で感情を受け取った日、自分はやはり拒まれなかった瞬間にはアードルフに好意を寄せてしまっていたようだ。
「ミリィの心が俺に向いていることを知っていて求婚し、敢えて友人の立場に甘んじた。ゆっくり俺の元に落とし込めばいいと」
「そ……そんな風に思っていたんですか」
「幻滅したか?」
どちらかと言うと余りにも分かりやす過ぎる自分の感情が恥ずかしい。
「私が自覚するずっと前から把握されていたことが居たたまれないです……」
「ミリィは最初から無防備だったな。俺が触れたのは全て、あなたの好意が自分に向いていることを確認するためだったのに」
「……全然気付きませんでした」
「そのようだな。今だって、俺がどれだけ我慢しているか気付いていないだろうし」
我慢していると言ったその時、改めて今の自分達の状況を思い直した。思い直してしまった。
「…………っ!!」
そうだ、何故一度も疑問にすら思わなかったのだろう。
ミレイラ達は婚約者であって、夫婦ではない。将来を約束し合っていても、同じ寝室で同衾するなどあり得ないのだ。
「今更気付いても離す気はないぞ。そもそも止める人間は一人もいなかった」
「で……ですが」
「心配しなくても、何もしない」
そう言うと、肩を寄せていた手がミレイラの髪を撫でていく。
「今は、ミリィの心が穏やかである方が大事だ」
その瞳には確かに熱量のある光が灯っているのに。どこまでも穏やかに、笑顔で答えてくれる。
「……私、こんな」
こんなに幸せを感じてしまって、いいんだろうか。
湧いてしまった罪悪感を消すように、アードルフに抱き寄せられる。
「ミリィは幸せを享受していい。俺の与えるものは、全部ミリィしか受け取れないんだから」
「アル……っ」
無償の愛と言うものは、きっとこういう事なんだろう。
温まり切らない体に、アードルフからの温もりが伝わってくる。それがとても心地良い。こんなにも甘えてしまって、どれだけ手を焼かせてしまっているのかと考えてしまう。
それなのに、アードルフはそれすらも愛おしそうにミレイラの額に口付けを落とす。
「ミリィの全てを俺が手掛けられると考えれば、とても気分がいい」
「……ふふっ。良い性格をしておいでですね?」
「前にもこんな会話をしたな。ああ、だからミリィも堂々と甘えてくれ。じゃないと疲れるぞ」
ああ、やっぱりアードルフは、ミレイラだけを求めてくれる。
――今なら、眠りに落ちても囚われないかもしれない。
こうして最愛の人が、心を捉えてくれているなら。
✻✻✻✻✻
静かに寝息を立てて眠るミレイラを、ゆっくりと横たえて隣に寄り添う。
ブランケットを胸元まで引き寄せ、静かにその寝顔を眺める。
(少しは眠れればいいが……)
本当は話しながら目元を冷やしてやりたかったが、睡眠が取れそうなら無理に起こす必要もないだろう。
もっとも、悪夢に魘されるようならすぐに起こすつもりでいるが。
「…………はぁ」
危なかった。
正直、腕の中で眠りに落ちてくれて助かった。
ただでさえ状況的に危ういというのに、今日のミレイラは色々と官能的過ぎて、こっちの忍耐力を試されているようだった。
(そんな状況じゃないことぐらい、分かっているんだがな)
こればかりは男なのだからどうしようもない。好きな女性に手を出さなかっただけ褒めて欲しいものだ。
(口付けくらい許されるだろ)
ミレイラ自身も求めてくれたわけだし。本人がそれを意識して求めたとは思わないが。
(くそ……恨むぞ、エルネスト)
ミレイラの部屋に、アードルフが寝る為のベッドなどあるわけがない。ミレイラ本人がこうなると知っていれば、当然同衾することになるだろうと察していたはずだ。そのうえでしっかり手を出すなと言外に諭すのだから、あいつも中々肝が座っている。
(せいぜいアーニーに振り回されるがいい)
あの日の話し合いで、おそらくエルネストはアーノルドに目を付けられた。ミレイラの魔力に関する考察についても、何か思惑がある風だった。ミレイラ本人を呼び出すような真似は勝手にしないだろうから、するならばエルネストが対象となる。
(……さて、どうしたものかな)
仮にミレイラが悪夢に落ちた時に引き戻してやることも当然そうだが、こんな状態で眠れるわけもない。
少しずつ外の暴風は収まり始めているが、空が白んでくるまでにはまだまだ時間が掛かるだろう。
途方に暮れていると、隣で眠っているミレイラが少しだけ身じろぐ動作をした。
寝苦しいのかと顔を覗き込もうとすると、ミレイラがこちらに顔を向ける。
そして、ほんの少しだけ目蓋が開いたような気がした。
「ミリィ?」
意識が覚醒しきらない程度の声量で呼びかける。それに反応するように、ミレイラの体がこちらへ向いたかと思うと、まるで最初からそうしたかったかのようにアードルフの胸元に顔を寄せて擦り寄ってきた。
「アル……」
本当に微かな声で愛称を零すと、再び規則的な息遣いが聞こえだした。
「……本当に、無防備過ぎる」
腹いせにしっかりその体を抱き締め、柔らかい体を堪能する。
くすぐったいのか少しだけミレイラの声が漏れたが、なぜかその声色は嬉しそうで、それが恨めしくも愛らしくて仕方がない。
「結婚したら覚えてろよ……ミリィ」
これだけ人を悶々とさせておいて、当の本人は幸せそうに眠るのだから。
ああ、でも。
当たり前のように結婚した後を想像できるようになった自分が、今更ながら信じられないと思った。
ほんの少し前までは、政略ですら結婚などするものかと思っていたのに。
この胸に抱かれた女性は、当然の様にアードルフに未来をくれた。
「囚われてくれるなら、もう心配はない」
あとは、受け入れる覚悟だけ。




