開花
少年は微睡んでいた。
こくりこくりと、船を漕ぐように微睡んでいる。すると勢いよく肩を叩かれて慌てて飛び上がった。
「何寝てるの! いい天気なんだから遊びに行くよ!」
肩を叩いた少女が元気よく笑う。少年と遊びに行きたくてうずうずしているようだ。明るく照らす太陽と変わらないくらい活発に動いて少年の手を引く。
少年は戸惑いながらも彼女に付いて行く。正直外に出て遊ぶのは好きではないし、本を読んでいたい気分だったが、少女の誘いを断りたくなかった。少年は、その少女のことが好きだった。
「ねえねえ、いつものとこに行こうよ!」
少女の提案に少年が頷く。村から少し離れた場所、広大な草原を一望できるお気に入りの場所だ。二人は競うように走り出し、やがて目的地に辿り着いた。
「うーん。やっぱりここは気持ちいいね」
自分の横を通るそよ風に、少女は目を細める。少年もそれに当てられたのか、伸びをしてその場に座り込んだ。しばらく二人で肩を寄せていると、少女が切り出した」
「私たち、ずっとこのままでいたいね」
そうだね、と少年は笑う。自分たちはまだ小さい。これから大きくなって、色んなことを覚えて大人になっていくのだろう。それでも願わくば、隣にいる少女と生涯を寄り添いたかった。
「強くなって、村を出たら冒険者とかになる?」
それもいいだろう。少女は既に剣の技術は折り紙付きだ。自分には才能は無いけど、戦える手段を見つけて少女と一緒に戦い、少女を守りたかった。
「私を守ってくれるの?」
当たり前だ。好きな人を守るのは、男として当然の役目。剣が折れ、盾が無くなり、鎧が砕け散っても、この身体一つで必ず少女を守ってみせる–––––
「いいや、それは無理だね」
不意に、目の前の少女が笑い出す。その顔は醜く歪み、ぐにゃぐにゃと大きく揺れて、違う人間に変貌した。唐突の事態に、少年は動揺を隠せなかった。
「お前には何の力もない。力がなければ何も為すことなんか出来ない。故に、守ることなんか夢のまた夢だ」
押し寄せる波のようにその男は言葉を続ける。そう、男だ。忘れもしない。この男は勇者で、自分の最愛の幼馴染を奪った––––
「お前の居場所はどこにもない。初めから無価値だったのさ、お前は。生まれてきただけの存在。本当にご苦労さん」
厭だ。何が厭なのか分からないが、とにかく酷く厭だった。ここに居たくない。彼の声を聞きたくない。手足が震え、目尻から涙が溢れる。全てが不透明で曖昧になって、頭の中から消えていく。
「レティーシャは僕が貰っていくよ。その方が彼女も幸せだからね。ねぇ? レティ」
「はい、勇者様。…さようなら、ハルト」
別れの言葉。二人は踵を返し、霧の中へと姿を消した。少年は立ち尽くすことしか出来ず、虚ろな瞳を浮かべた。そして、理解してしまった。
自分には何もない。
無意味に産み落とされて、無意味に朽ちていく。なんて意味のない生命。そう自覚した時、全身を覆ったのはおぞましい恐怖だった。
息をするのも怖い。瞬きするのも怖い。他人も、世界も、この世の何もかもがひたすら怖かった。
怖くないのは、自分だけだ。だって自分自身には何もないから。何も持たず、何も刻んでなどいない。無色透明、中身のない存在。
地面を踏みしめる感触が無くなり、奈落の底に墜ちていく。思考する余裕などない。助けを呼ぶ声も出ない。
上下左右が真っ黒に塗り潰されて、無限の闇に堕ちていった–––––。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
紛れもなく最悪の気分だった。
「ああ、くそったれ…!」
人は死ぬ間際にそれまでの人生が映像になって見える、即ち走馬灯が流れることがあるのは知っていた。しかし、自分が見たものはそんな生温いものではなかった。思い出すのもおぞましい。今すぐ記憶から消したい映像だった。
しかしその映像が、皮肉にも途切れ掛けていた意識を繋ぎとめ、折れそうな心を奮い立たせてくれた。ハルトはジッと、オークの動きを観察している。
既にオークとの距離は三メートルもない。魔力を込めた棍棒を高らかに振り上げ、獲物を殺すべく歩み寄る。その足音が近づくたび、鼓動が早くなるのを感じた。
当たれば即死。至らなくても致命傷は免れない。身体は重く、口の中では血の味で一杯だった。それでも、ここで死ぬ気は毛頭ない。
そしてついに、棍棒が振り下ろされる。殺意が込められた一撃。淡々と的確に、ハルトの全てを捻り潰そうと容赦なく叩き込む。絶体絶命の状況であるのに、しかして彼は不敵に笑った。
「ざっ……けんなぁぁぁぁ!!」
そう叫ぶと懐に忍ばせておいた短剣を投げ付けた。
ゴブリンを倒した時の戦利品であるそれは、魔物の解体ぐらいにしか使わなかった。それでも武器であることに変わりはないので、ここで使用するのに躊躇いはなかった。
とは言え短剣は短剣。対した殺傷力もなく、ましてオークの分厚い皮膚に通用する訳でもない。そんなことは当然理解していながら、彼はオークの顔目掛けて投擲した。
「ぐ、グオォォォォ!!」
短剣は見事オークの左目に突き刺さった。オークは痛みに棍棒を落とし、その場でのたうち回った。
流石に目を直接狙えば、多少なりともダメージが入るだろうという読みは的中した。この隙に肘をついて上半身を起き上がらせる。
「くっ…!」
弱々しく足を地面につける。力を込めて膝を伸ばし、どうにか立ち上がる。身体はとっくに限界を迎えていたが、襲い掛かる重力を無視してオークを一瞥すると次の行動を思考した。
逃げることに意味はない。短剣によるダメージは一時的なものだ。収まったらすぐさまこの化け物は追いかけて来る。そうなったら、ハルトの足ではとても逃げられない。
ここで、倒す。
しかし、体術ではどうにもならないし、使えそうな武器もない。あるのは未だに使いこなせていない煌力だけ。
(弱気になっていられない。ここで成功させなきゃ、俺は死ぬ……!)
ハルトは即決した。右手をかざし、音を発するイメージをする。正に一か八かの賭け。狙いは目の前にいるオーク。そいつにぶち当たるため、ハルトは目を閉じ集中する。
瞼を閉じると、先ほど見た映像が流れた。勇者と幼馴染が仲睦まじく腕を組み去って行く。そして、それを呆然と見送るなんとも惨めな自分。
なんて無意味な生命。なんて無意味な人生。
生まれたことに意味はなく、存在意義など初めからない。ただ流されて、消費されていくだけの命。何処まで行っても、その中身は空っぽであり続ける。
––––下らない、とハルトは吐き捨てた。
取るに足らないことだと己を叱咤する。それでも自分は生きようと決意した。弱い自分と決別して、新しい自分を掴むために一歩踏み出した。
『私の手を取れ、ハルト。世界を変えるためにはお前の力が必要だ』
こんな自分でも必要としてくれる人がいた。あれは間違いなく自分に向けられた言葉だった。空虚な心を埋めたくれた、生きたいと思えるに充分な言葉だった。
もう迷わない。迷う必要もない。今必要なのは、勝ち目がないからと絶望して挫折することではない。煌力を使いこなせないから殺されてやることでもない。
拙い生き方だとしても、自分を助けてくれた人に報いるため。胸を張って強くなったと告げるため。この化け物を、絶対に倒すことだ…!
右手に込める力を更に強める。頭が熱くなり、視界がぼやける。それでも、煌力の発動を止めはしなかった。
今度こそ…今度こそ––––
「俺に恥じない、俺になるんだ…!」
痛みから立ち上がったオークが睨むようにこちらを見据える。攻撃体制に移ろうと棍棒を握るのが見えた。だが致命的に遅い。既にこちらの攻撃は完了している。
狙いはその醜い顔。そこにぶち当てるイメージを強く持ち、歯を食いしばって叫んだ。
「–––音撃!」
彼の思いは正しく報われた。
耳を鳴らす爆音。その音は森中に響き渡り、大地を震わせてオークに直撃した。呆気なく頭部は飛び散り、千切れた首から大量の血が流れ出る。残った胴体はピクピクと痙攣すると、やがて力尽きたように崩れ落ちた。
「はぁ…はぁ…」
倒した…のか?
倒れたオークだったものを注意深く確認する。しばらく待ったところ、起き上がる様子もないので周囲の索敵をした後、ハルトも漸く腰を下ろした。
「倒した…俺がやったんだ…」
何度も両手の開いて閉じてを繰り返し、愉悦感に似た何かを感じていた。イメージ通り、いやイメージ以上の威力を誇った一撃はオークの頭部をいとも容易く破壊した。
「感覚は掴めた。後はこれを磨いて行けば…」
戦闘を終えたばかりだと言うのに、ハルトはもっとこの煌力を鍛えたいと身体を起こそうとした。案の定、力が入らず休息を取る必要があると判断したのだが、その表情はとても満ち足りていた。
今ここにいる自分はあの村で燻ってた自分ではなく、新しい何かを確かに掴んだ自分だと、胸を張って笑うのだった。




